【1分でわかる】婁圭:脱獄から潼関の妙策まで生き抜いた曹操の幕僚【徹底解説】

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1分でわかる忙しい人のための婁圭の紹介

婁圭(ろうけい)、字は子伯(しはく)、出身は南陽郡、生没年(155年頃~211年以降)
若い頃から曹操と交友を持っていたが、亡命者を匿って投獄される。
脱獄の際は追っ手を欺くため自ら捕吏のふりをして逃げ切るという、なかなか芝居がかった生存術を披露した。


初平年間には荊州で兵を集め劉表に仕えるも、王忠らに兵を奪われる不運も経験。その後曹操に帰属し、軍政の参謀役として重用される。
建安十三年(208年)の荊州攻めでは劉琮降伏の真意を見抜き、無血開城を実現。建安十六年(211年)の潼関の戦いでは、水と砂を凍らせて一夜で城を築く妙策を献じ、曹操軍の渡河を可能にした。
しかし習授との会話が曹操の逆鱗に触れ、「恃舊不虔」として処刑される。功績と最期の落差が、婁圭という人物の複雑さを物語っている。

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婁圭を徹底解説!脱獄から妙策まで波乱の生涯

婁圭の若き日と曹操との縁

婁圭は、若いころから曹操と顔見知りで、周囲に向かって「数万の兵と千騎の馬を従える日が来る」と胸を張った。もちろん周りは大笑い。「はいはい夢はタダだもんね」と鼻で笑われたが、婁圭は笑い飛ばすどころか本気でやる気だった。
そんな彼が最初に世に名を刻んだのは、亡命者を匿った罪で投獄されたときだ。牢破りに成功したあと、即席のコスプレよろしく捕吏に変装し、追手の列に堂々と混ざり込む。追うふりをして実は自分が逃げている。この悪知恵と度胸、後世なら映画化案件である。

初平年間、荊州で兵を集め、牧の劉表のもとで北方から流れてくる士人たちを迎え入れていたところ、扶風出身の王忠が現れる。飢饉から逃れて南下してきた彼は、武関を抜けた先で婁圭と遭遇。だがこの王忠、最初から劉表に仕える気など毛頭ない。会ったその日から「この人の下はゴメンだな」と腹を決め、仲間と一緒に婁圭を急襲。兵をまるごと奪い取ると、そのまま曹操へ一直線。

そして面白いのはここからだ。王忠が婁圭の兵を奪って早々に曹操へ帰順したのに、その婁圭本人も後から曹操のもとへやって来る。現代にたとえれば、自分の顧客を奪った相手と同じ会社で再会するようなものだ。普通なら気まずさ全開だが、曹操はどちらも厚遇。婁圭も図太く軍政の謀議に加わり、何事もなかったかのように再スタートを切った。これが懐の深さなのか、単なる人材確保のための割り切りなのかは、歴史も黙っている。

荊州平定と婁圭の見識

建安十三年(208年)、曹操が荊州へ南下。劉表の死後、息子の劉琮が天子の節を持って降伏を申し出ると、周囲は「これは罠だ」と色めき立った。ここで婁圭の出番である。
「世が乱れれば皆、王命を自分の箔付けに使いたがる。節を持ってくる以上は本気だ」――一刀両断の一言で、曹操は受け入れを決定。結果、荊州は血を流さず手に入った。戦略家というより、もはや人間レントゲンだ。

潼関の戦いと「水で固める城」

建安十六年(211年)、馬超らが関中で挙兵。潼関で渭河を挟んで睨み合うも、渡ろうとすれば騎兵が突撃、しかも砂地で城も築けない。絶望的な状況で婁圭がひらめく。
「寒い今なら砂に水を混ぜて固めれば一晩で城ができる」聞けば簡単、やるのは地獄。兵たちは夜通し水を運び、砂を固め、夜明けには氷の城が完成。これにより曹操軍は無事渡河し、戦局は一気に有利に。
ちなみに「九月にそんな寒さあるか?」と疑問も出たが、裴松之は閏八月があった年で遅い九月だったとフォロー。歴史オタクの細かさは千年経っても変わらない。

婁圭の財と地位

婁圭は軍政参謀として曹操の信任を受け、財は千金を超えるに至った。曹操も「婁子伯は私より富んでいる。ただし権勢は及ばぬ」と冗談交じりに語ったとされる。政戦両面で成果を上げつつ、私生活でも豊かさを享受していた。

婁圭の最期とその理由

しかし、権力者の機嫌は永遠ではない。南郡の習授と同乗中、曹操父子の外出を見た習授が「父子そろって楽しそうだ」と言うと、婁圭は「人は自ら事を成すべきで、他人を眺めてばかりではならない」と応じた(『呉書』)。
現代感覚なら何気ない一言だが、当時の政治空気では極めて危険だった。まず、この発言は「曹操父子は自ら功績を立てていない」とも受け取れる。さらに婁圭は曹操の古い友人であり、その立場からの批評は「恃舊不虔」、つまり古い関係に甘えて敬意を欠く態度とみなされやすい。
曹操は猜疑心が強く、過去にも孔融や許攸らを同じ理由で誅殺している。権力者の前では、冗談でも批判と取られれば命取りになるのが後漢末の現実だった。

『魏略』では少し異なる経緯が記されており、河北平定後、曹操父子と共に遊覧していた際、婁圭が「この家の父子は今日のように楽しんでいる」と左右に語ったのを密告され、腹の中で不満を抱くと見なされたという。いずれにせよ、長年の功績よりも一言の印象が命を左右したのだった。

参考文献

  • 参考URL:婁圭 – Wikipedia
  • 陳寿著『三國志·崔琰傳』
  • 裴松之注『三國志·崔琰傳』引『呉書』
  • 裴松之注『三國志·武帝紀』引『獻帝春秋』
  • 裴松之注『三國志·武帝紀』引『曹瞞傳』
  • 裴松之注『三國志·崔琰傳』引『魏略』

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