1分でわかる忙しい人のための王凌の乱の紹介
王凌之乱は嘉平三年(251年)に起きた反乱で、曹魏の重臣・王凌が司馬懿の専権を阻止しようと企てた事件です。
高平陵の変で曹爽一族を排除した司馬懿が権力を握ると、王凌は外甥の令狐愚と共に淮南で勢力を伸ばしました。 彼らは皇帝曹芳の廃立を計画し、楚王曹彪を擁立しようとしました。
しかし計画は密告によって露見。司馬懿は迅速に出兵し、赦免をちらつかせながら王凌を降伏に追い込みました。 その後、洛陽への護送中に王凌は毒をあおって自殺。
この事件は「寿春三叛」の第一幕となり、魏の政局を大きく揺さぶる結果となりました。
王凌之乱を徹底解説!曹魏の忠臣と司馬懿の激突
王凌之乱の背景:寿春三叛の始まり
高平陵の変(249年)で司馬懿が曹爽一族を粛清し、魏の実権を掌握した。 この強権政治に対し、寿春を拠点とする豪族や官僚たちの不満が徐々に積み重なっていった。
王凌は曹魏の宿将として功績を重ねた人物で、240年頃に征東将軍となり、揚州の軍務を任された。 241年には呉の全琮が芍陂を攻撃した際、王凌は数万の敵軍を撃退し、南郷侯に封じられた。
その後も車騎将軍・司空へと昇進し、淮南の重鎮として地盤を固めていく。 こうして、寿春三叛の幕開けに王凌が名乗りを上げる土壌が整った。
寿春三叛とは?
251年の王凌の乱に続き、255年には毌丘儉・文欽の乱、さらに257年から翌258年にかけては諸葛誕の乱が発生する。いずれも寿春を舞台に掲げられたのは「司馬氏を討ち、皇帝の権威を取り戻す」という旗印であった。
しかし結果は三度とも同じで、司馬氏の冷徹かつ緻密な軍略により鎮圧され、志半ばで潰えた。王凌の乱はその最初の犠牲であり、以後の乱もまた「皇族を奉じて司馬氏を打倒する」という夢の繰り返しに過ぎなかった。
こうして寿春の地は、魏の忠臣たちが希望と絶望を交互に刻み込む舞台となり、最終的に司馬氏の支配が揺るぎないことを証明する歴史の証人となったのである。
王凌と令狐愚の密議:皇帝の廃立計画
高平陵の変で曹爽が失脚したのち、王凌の外甥・令狐愚は兗州刺史に任じられ、平阿に駐屯して勢力を固めた。 舅と甥はともに淮南で重い任務を担い、地方における影響力は侮れないものとなっていた。 王凌自身も司空に昇進し、さらに太尉・假節鉞を帯びて揚州を守る立場にあった。中央には出仕せず、独自の軍権を握っていたことが後に大きな意味を持つ。
やがて二人は密かに語らい、「皇帝曹芳は若く力不足であり、楚王曹彪こそが帝位にふさわしい」と結論した。 さらに都を許昌に移すという大胆な計画まで描き始めたのである。
249年九月、令狐愚は部将の張式を白馬に派遣して曹彪と接触を図り、王凌もまた舎人の労精を洛陽へ送り、計画を息子の王広へ伝えた。しかし王広は強く反対し、「廃立は大事であり、必ず災禍を招く」と父を諫めた。
そこには忠義心というよりも、司馬一族の専横に危機感を抱いた地方勢力の焦りと野心が見え隠れする。
占星術と不吉な兆し:乱の決意
249年十一月、令狐愚は再び張式を派遣し曹彪との連絡を取ろうとしたが、待てど暮らせど張式は戻らず、肝心の令狐愚本人が病に倒れてしまった。王凌にとっては頼みの綱を失った瞬間であり、舅甥コンビの後ろ盾はここで完全に消え去る。孤軍奮闘どころか、孤立無援で暴走する未来が見えていた。
それでも翌250年、夜空に「熒惑守南斗」という不吉な星象が輝いたとき、王凌の心は奇妙に昂ぶった。彼は「南斗に星が集まるのは、誰かが突然富貴を得る兆しだ」と語り、まるで天が自分に肩入れしているかのように錯覚してしまった。
裴松之の注では、王凌が東平人の浩詳に「この星は何を意味するのか」と尋ねたところ、浩詳はご機嫌取りに「王者が必ず興る」と言い放ったとされる。 こうして王凌は、支えを失ったにもかかわらず「天命」を盾に決起を決意した。現実を無視して空の光にすがる姿は、時に人間の愚かさと悲しさを凝縮した一幕のようにも見える。
叛乱計画の露見
251年春、呉軍が塗水に陣を敷いたとき、王凌は「討伐を許してほしい」と朝廷に請願した。もちろん反乱を隠すための見え透いた口実にすぎなかった。
司馬懿はすでに勘づいていた。だが彼は返答を与えず、泳がせて状況を見極める。罠にかかった魚をすぐには引き上げない、まさに老獪な猟師の構えである。
焦った王凌は部将の楊弘を走らせ、兗州刺史の黄華へ廃立計画を伝えた。だが待っていたのは同志ではなく裏切り者であった。楊弘と黄華はあっさり司馬懿に密告し、秘密の企ては逆に敵の餌となった。
さらに追い打ちをかけたのは、令狐愚の腹心だった治中従事の楊康である。彼が洛陽へ召されると、こちらもあっけなく計画を漏らした。
こうして四月、魏帝曹芳の耳に「王凌謀反」の報が届いた。密室の囁きは瞬く間に天下へと響き渡り、王凌の決起は始まる前から土台を失った。まだ矢を放つ前に、弓そのものが折れてしまったのである。
司馬懿の迅速な対応
叛乱の報を得た司馬懿は、すぐさま軍を動かし水路を伝って王凌へ迫った。その行軍は容赦なく速く、まさに老将の底力を見せつけるものだった。
司馬懿は圧力を高めつつも、表向きには赦免を先に示し、使者を送り投降を促した。軍を王凌の本営百尺の地点にまで進め、剣を突きつけながら「今ならまだ許される」と突き放す。飴と鞭を同時に使い分ける、これぞ権謀術数の極みである。
王凌は戦う意思を失い、力では抗えぬと悟った。そこで掾の王彧を遣わして謝罪させ、印綬と節鉞を差し出した。己の権威を象徴する品々を差し出す姿は、敗北の証そのものであった。
さらに王凌は、司馬懿に宛てて二通の謝罪の書簡をしたためたと伝えられる。その筆跡には、名門の将軍が屈服し、魏の政権がすでに司馬氏の掌中にあることを悟らざるを得ない現実が滲んでいた。
王凌と司馬懿の対話:忠と逆心のはざま
司馬懿の次子・安東将軍司馬昭が淮北の諸軍を率いて合流し、軍勢は項城に到達した。その途上、王凌は自ら縄で体を縛り、罪を悔いる姿を示した。
司馬懿は勅命に従い、主簿を遣わして縄を解かせ、慰労の言葉を与え、さらに印綬と節鉞を返した。王凌はこれで許されると考え、小船に乗って司馬懿のもとへ向かったが、十余丈手前で兵に阻まれた。
そのとき両者の間に短いが重い言葉が交わされる。王凌が「あなたが手紙で呼べば必ず参った。何ゆえ軍を動かす必要がある」と叫ぶと、司馬懿は「あなたは手紙だけで呼べる相手ではない」と冷たく返す。王凌が「お前は私を裏切った」と叫ぶと、司馬懿は「私はお前を裏切っても、国家を裏切ることはしない」と突き放した。
王凌はその言葉に己の運命を悟り、試しに棺の釘を所望した。司馬懿は静かにそれを与え、すでに結末が決まっていることを暗に告げたのである。
王凌の最期:屈辱の自決
司馬懿は王凌を六百の兵で護送し、洛陽へ送ろうとした。だが五月、行軍が項に差し掛かったところで、王凌はついに毒を仰ぎ、自ら命を絶った。
その直前、彼は「八十年積み上げた名誉が、今すべて失われた」と声を張り上げたと伝えられる。さらに賈逵廟を通り過ぎるには、「神だけは知っている。王凌が大魏の忠臣であることを」と叫んだという。
敗者の言葉は、もはや誰にも届くことはなかった。歴史の筆は彼を謀反人として記し、忠義を訴える叫びは虚空に吸い込まれていく。生き恥をさらすよりも死を選んだ王凌の最期は、老将としての矜持と、抗えぬ時代の流れを同時に刻みつけた屈辱の幕引きであった。
乱後の粛清と連座
寿春に入った司馬懿の前には、張式ら王凌の関係者が次々と自首してきた。だが助命を期待する者に温情はなく、待っていたのは徹底した粛清だった。
令狐愚の腹心であった単固は、病を理由に職を辞していたが呼び出され、司馬懿に「知っていたか」と問われても頑として否認した。さらには「令狐愚が謀反を企んだのか」との問いにも強く否定し続けた。しかし密告した楊康が対質の場に呼ばれると、さすがに言葉に詰まり、最後は楊康を罵倒して散った。
皮肉なのは、この楊康ですら処刑されたことだ。裏切りを働けば出世の道が開けると踏んでいたのに、逆に単固と同じ刃にかけられた。裏切り者をも切り捨てる苛烈さこそ、司馬氏のやり口であった。
さらに波は広がり、楚王曹彪には自害が命じられ、一族や配下の同謀者は家族ごと皆殺しとなった。王凌と令狐愚の遺骸すら墓から掘り出され、三日間晒されたうえで、印綬や朝服と共に焼かれ、土に埋められた。
こうして王凌一派は生者も死者も容赦なく断ち切られ、名誉も痕跡も徹底的に消し去られたのである。
叛乱の影響:寿春三叛への連鎖
王凌の乱は「寿春三叛」の第一幕に過ぎなかった。 その後も同地で二度の反乱が続発する。
司馬懿の子・司馬昭は戦功として領地を増やされ、孫の司馬攸はわずか六歳にして侯に封じられた。 功績を血縁で分配するやり方は、司馬一族の専横を一層際立たせた。
魏の官僚たちはこの事件で、もはや司馬家に逆らうことは不可能だと悟る。 忠義を掲げた者は皆、粛清という形で葬られた。
司馬懿の晩年と死
皮肉なことに、王凌の乱を鎮圧した直後、司馬懿は本当に重病に陥った。
同年9月、嘉平三年(251年)に洛陽で死去し、享年72。 その地位は長子の司馬師に引き継がれる。
魏の政局は一見安定したように見えたが、直後に寿春二叛や暗殺計画が持ち上がり、司馬一族と曹魏皇室との対立はますます深まっていく。
参考文献
- 参考URL:王凌之乱 – Wikipedia
- 陳寿『三国志』巻四、巻二十八
- 房玄齢ほか『晋書』巻一
FAQ
寿春三叛とは?
251年の王凌の乱、255年の毌丘儉・文欽の乱、さらに257~258年にかけての諸葛誕の乱のことです。
王凌はどんな人物?
曹魏の重臣として功績を立て、淮南を守備した人物です。 司馬懿の専権に反発し、皇帝の廃立を企てました。
王凌の最後はどうなった?
嘉平三年(251年)、司馬懿に降伏したのち洛陽へ護送される途中、 項で毒を飲んで自殺しました。
王凌は誰に仕えた?
王凌は魏に仕え、曹魏皇帝に忠義を誓った重臣でした。 しかし最期は司馬懿との対立に敗れました。
司馬懿の最後はどうなった?
乱後の嘉平三年(251年)に洛陽で死去し、享年72。
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