【1分でわかる】全琮:呉の守護神として陰で支えた名将の一族の末路【徹底解説】

全琮

1分でわかる忙しい人のための全琮の紹介

全琮(ぜんそう)、字は子璜(しこう)、出身は呉郡錢唐県、生没年(198~249年)

彼は後漢末から三国時代の呉に仕えた将軍であり、孫権の長女である孫魯班を妻とした。性格は謙虚でありながらも、機転と戦略眼に優れ、国家を第一に考える人物として知られる。
若年の頃から士人を援助し名声を博し、後に山越討伐や魏との戦いで武勲を立てた。 特に関羽の背後を突く計を進言し、後にその成功で侯に封じられたことは有名である。
また、軍事においては慎重で持重の姿勢を崩さず、六安や芍陂での戦いでは国の大局を重んじて行動した。
晩年は右大司馬・左軍師まで昇進したが、二宮の変で一族が孫覇を支持したため、名節を損なった。 死後、その子全懌や一族の多くが魏に降ったことは、全氏の汚点ともなった。
それでも全琮は、忠義と進言に優れた呉の重臣として、歴史にその名を残している。

👉 もっと知りたい方は続きをご覧ください

全琮を徹底解説!関羽討伐の進言から二宮の争いまで呉を支えた将軍の軌跡

全琮の家系と若き日の逸話

全琮の父・全柔は、後漢霊帝の時代に孝廉として抜擢され、中央では尚書郎右丞を務めた人物である。董卓の乱が勃発すると迷わず官を辞し、郷里に戻った。後に州牧の招聘を受け、別駕従事や会稽東部都尉に就任。孫策が揚州で旗を挙げたときにはその先見の明を見抜き、彼に従った。孫策は全柔の人物を認め、朝廷に推挙して丹陽都尉に就かせたという。赤壁の戦いののちには、桂陽太守として政を担った。

その全柔の子として生まれた全琮は、父から呉郡に米を運ぶよう命じられた。だが彼は市場で売ることなく、困窮する士人たちに惜しげもなく配ってしまう。米を積んだはずの船は空となって戻り、激怒した父全柔に問われても、全琮はこう答えた。「市で売ることは急がぬことですが、彼らの命は今を争います。」

一喝されても怯まず、理を尽くして語った息子に、全柔もやがて怒りを鎮め、むしろその志を褒め称えたという。 その後、周瑜の葬儀で遺体を送り届けた龐統と会った際、この逸話を用いて「施し好きで目立ちたがり。汝南の樊子昭っぽいよね」と誉め言葉と皮肉が同居する賛辞を贈っている。

その後、戦火を避けて中原から百人を超える士人が全琮を頼って呉にやってきたが、彼は持てる財を惜しまず、彼らと苦楽を共にした。全琮の家には金銀財宝は残らなかったが、その徳の風は遠方にまで届いたという。

山越討伐と孫権への進言

孫権が全琮に与えたのは、わずか数千の兵と「奮威校尉」の肩書であった。しかし彼はこれを好機と捉え、ただの討伐命令を自らの武名の跳躍台と変えてみせた。
兵を募る声は呉郡に響き渡り、最終的に集まった精鋭は一万人を超えた。全琮はこれを率いて牛渚に駐屯し、山越討伐を敢行。その戦果により偏将軍へと昇進し、名実ともに軍を預かる器と認められた。

やがて建安二十四年(219年)、関羽が北上して樊城・襄陽を攻め、魏の曹仁を攻めていた。
このとき全琮はただ傍観せず、冷静に戦局を見つめ、「関羽の後方は空虚。ここを突けば勝機あり」と孫権へ上奏する。
だが孫権はすでに呂蒙と同じ策を極秘に交わして動いていたため、全琮の進言は取り上げられることなく流れた。

それでも、呉が関羽を討ち取ると、祝宴の席で孫権は杯を掲げて全琮を見つめ、こう語った。
「お前もかつて、この策を進言したな。今日の勝利、お前の目も確かであったぞ」
その言葉と共に、全琮には陽華亭侯の爵位が授けられ、名実ともに呉の功臣の一人として地位を固めた。

魏軍との戦いと九江太守就任

黄初元年(220年)、魏が水軍を率いて江東に迫ると、孫権は呂範を総大将に任じ、その麾下に全琮を配した。
両軍は水上で対峙し、魏の艦船は小回りの利く軽舟を用いて何度も急襲を仕掛けてきた。全琮はこれを正面から受け止め、甲冑を脱がぬまま昼夜を分かたず指揮を執った。 その激戦の中、全琮はついに魏の尹礼(尹盧)を討ち取り、呉軍はこれを機に反攻へと転じた。
孫権は彼の功を高く評価し、綏南将軍に昇進させ、あわせて錢塘侯に封じた。
※呉主伝によれば、222年に魏の三方同時侵攻の大作戦があり、その時に尹礼(尹盧)は打ち取られている。

そして黄初四年(223年)、全琮は九江太守を兼ねることとなる。これにより、戦場でその胆力を示した男は、政庁においても民を治める立場へと歩を進めた。武勇と統治の両輪を備え、全琮の名は軍中のみならず、州郡にも響くこととなる。

石亭の戦いと東安太守時代

黄初七年(228年)、魏の曹休が大軍を率いて皖に迫ると、孫権は自ら出陣してこれに応じた。全琮は陸遜に従い石亭で迎撃し、見事な連携でこれを打ち破った。
石亭の勝利により、全琮の名はますます高まる。

しかし戦が終わっても、内地は安定しなかった。丹陽や呉郡では賊徒が蜂起し、各地の城邑を脅かす。
孫権は全琮を東安太守に任じ、反乱鎮圧の大任を託した。
全琮は恩賞と刑罰を巧みに使い分け、降伏を促す策を講じて着実に賊徒を帰順させた。その数、数年のうちに一万人を超え、東安は平穏を取り戻す。

やがてその功をもって召還され、東安郡は廃止。黄龍元年(229年)、全琮は衛将軍・左護軍・徐州牧に昇進する。
この年、彼は孫権の長女・孫魯班を娶る。二人の間には全懌・全呉の二子が生まれ、武の功と婚姻によって、全氏はまさに呉の名門たる地位を確立した。

六安征討と芍陂の戦い

嘉禾二年(233年)、全琮は五万の兵を引き連れ六安へ向かった。現地の民は逃げ散り、将軍たちは「追えば敵の首も取れる!」と声を上げる。しかし全琮は眉ひとつ動かさずに言った。「民を混乱で捕らえることは国の利益にならぬ。損失ばかりを膨らませて敵を倒すことはできぬ」と言い、自らの手を汚すことを恐れず、むしろ慎重な態度を取ったのである。

嘉禾六年(237年)、魏の廬江主簿・呂習が内応を約し、「城門を開けて迎え入れる」という計画を持ち込んだ。 孫権は色めき立ち、全琮を大将に大軍を派遣し、朱桓と胡綜が同行した。 だが、この計画は露見し、呉軍は城を得るどころか撤退を余儀なくされた。

撤退中、全琮は戦果を得ようと各将に兵を割り当てて周辺を襲撃させようとした。 全琮の指揮下に置かれることに苛立っていた朱桓は、この計画を耳にして怒りを抑えきれなくなる。

やばいと思った全琮は「これは胡綜の提案だ」と言い訳したが、それが逆効果となった。 朱桓は胡綜を呼びつけたが、部下が軍営の前で彼を止めてしまう。 胡綜が現れなかったことで、朱桓はその部下が通報したと決めつけ、怒りに任せて殺してしまった。 さらに補佐官が諫めると、その者までも斬り捨ててしまう。
この一件では、全琮も自らの功を意識して動いていた形跡がある。

赤烏四年(241年)、大雪の翌年、全琮は衛将軍として淮南に進軍した。彼は東興堤を切って魏軍を攻め、安城の邸閣を焼き払い住民を収めた。同時に威北将軍諸葛恪は六安を攻め、朱然は樊城を包囲し、諸葛瑾は柤中を攻略した。全琮は魏の王凌と芍陂で激戦を繰り広げたが、連日の戦いの末に劣勢となり退却を余儀なくされた。魏軍はこの機に呉の将秦晃ら十数名を斬った。
しかし、全琮の子である全緒と全端も従軍しており、魏軍の駐屯を見て奮戦し、逆に王凌軍を撃退することに成功した。これにより戦局は持ち直し、呉軍は壊滅を免れた。

政治的進言と晩年の地位

全琮は剣を振るうだけの武人ではなく、言葉で国を支えようとした将でもあった。太子の孫登が軍に従軍したとき、群臣は誰一人声を上げなかったが、全琮だけは「古来、太子は主力を率いず、防御では監国として国を守るのが筋です」と密奏した。結果、孫権は即座に孫登を呼び戻した。

黄龍二年(230年)、孫権が亶洲や夷州へ兵を送ろうとした際、全琮は「海を渡る地は瘴気が強く、兵は病で倒れる。得られる利益は小さく、損失は大きい」と警告した。 しかし孫権は聞き入れず出兵を強行し、予想通り将兵の大半が病で命を落とした。孫権は後悔したが、全琮は「当時諫めなかった者こそ不忠」と言い、逆に主君を慰めた。これほど気を遣いながら直言する姿勢は、ある意味で彼の処世術だったのかもしれない。

赤烏九年(246年)、全琮は右大司馬・左軍師に昇進した。宗親であり戦功も重ねたことで一族は繁栄を極めたが、本人は依然として士人を謙虚に迎え、奢りを見せなかったと記録されている。富貴の絶頂にあっても自制を保った。

二宮の争いと晩年の失墜

数々の戦功と直言で名を立てた全琮だったが、晩年は政治の渦に飲み込まれていった。孫権の後継をめぐる二宮の争いでは、一族そろって孫覇を支持したため、孫和派と激しく対立した。やがて全琮の子らは顧譚・顧承らを誣告し、政争の暗闘に手を染めることとなった。

全琮の息子の全寄が孫覇と親しく交わっていることに対し、陸遜から厳しい忠告を受けた。
「漢の金日磾は国家の安寧のために実の子を犠牲にした。あなたも家門を守るために断を下すべきだ」
だが全琮は、陸遜の言葉に首肯しなかった。
政局が揺れる中で、家門を守ることは重要だが、親子の情を切り捨てることが忠義とは限らない。
全琮は、陸遜の忠告が正論であることは理解しつつも、それを受け入れることはできなかった。
この判断は、陸遜との関係に亀裂を生じさせた。

その後、赤烏十二年(249年)に二宮の変の最後を見ることなく全琮は没している。

後世における評価と一族の末路

陳寿は「全琮は当世の才を持ち重んじられたが、奸子を抑えられず名を失った」と記す。戦場では慎重で失敗を避けた男が、家庭では油断して名声を崩したのだから、人生の皮肉は時に戦略以上に容赦がない。

彼の死後も安らかではなかった。子の全寄は二宮の変で連座して処刑され、全懌は魏に降り臨湘侯となり、さらに一族の全禕・全儀・全静も次々に魏へ投降した。生前に築いた栄誉は、死後わずかの間に瓦解していったのである。忠義と繁栄の象徴であった全家が、敵国に抱かれる末路を迎える。これこそが全琮晩年の最大の悲劇であった。

参考文献

全琮のFAQ

全琮の字(あざな)は?

全琮の字は子璜(しこう)です。

全琮はどんな人物?

全琮は謙虚でありながらも戦略に優れ、国家を重んじて行動しました。士人を援助し、軍務では慎重で大局を考える人物でした。

全琮の最後はどうなった?

赤烏十二年(249年)に亡くなりました。晩年は二宮の争いに巻き込まれ、名誉を損なったとされます。

全琮は誰に仕えた?

全琮は終始孫権に仕え、呉の将軍として数々の戦いに従軍しました。

全琮にまつわるエピソードは?

若き日に士人に米を分け与えた逸話が有名です。また、孫権に夷州遠征を止めるよう諫めましたが受け入れられず、多数の兵が病死しました。

関連記事

コメント

タイトルとURLをコピーしました