全寄:二宮の変で孫覇派について散った野心家の末路

一般文官

全寄を徹底解説!全琮の子として生まれ、孫覇党に属して太子廃立に加担し家門と共に滅んだ悲劇

全寄とは?陸遜に見抜かれた性格

全寄(ぜんき)、字は不詳、揚州呉郡銭唐県の出身、生没年(?~250年)

全寄は、呉の重臣・全琮の次男として生まれた。兄に全緒、弟に全懌・全呉を持ち、名門の家に育つ。父・全琮は孫権の娘、孫魯班を妻とし、皇室とも深く結びついていたが、全寄がその実子かどうかは記録に明確を欠く。

衛将軍となった全琮は、子・全寄を魯王孫覇の幕下につけようと考え、丞相・陸遜に相談を持ちかけた。だが陸遜は強く反対した。「全寄の性は軽く、事に臨んで危うい。安易に派閥に与することは災いを招く」と諫めたが、全琮は耳を貸さず、両者の関係は険悪となった。

父の意志で権勢を握ろうとした末路

赤烏八年(245年)、全寄は楊竺・呉安・孫奇らと手を結び、太子孫和を讒言でもって中傷した。孫覇陣営に身を置いた全寄は、皇太子廃立という重き政争の渦中に足を踏み入れたのである。

赤烏十三年(250年)、ついに孫権は太子孫和を廃して南陽王に格下げ、長沙に幽閉した。そして対立した孫覇には自害を命じ、彼を支えた全寄・呉安・孫奇たちも、連座して処刑された。

全寄は父の意を汲み、孫覇という時流に乗ろうとした。だがその道は、忠義を外れ、名門を滅ぼす選択であった。志を軽くして勢に靡けば、やがてはその身を滅ぼす。それがこの若き将のたどった運命であった。

参考文献

全寄のFAQ

全寄の字(あざな)は?

全寄の字は史書に記録されておらず、不詳です。

全寄はどんな人物?

全寄は軽率に孫覇へ接近し、その党羽として太子孫和を誣告しました。家門の利益を優先した結果、滅亡を招いた人物です。

全寄の最後はどうなった?

赤烏十三年(250年)、孫覇が失脚すると、全寄も党与として呉安・孫奇らと共に誅殺されました。

全寄は誰に仕えた?

全寄は魯王孫覇に仕え、その側近として行動しました。

全寄にまつわるエピソードは?

赤烏八年(245年)、全寄は孫覇の党羽と共に太子孫和を中傷し、孫権を惑わせたことが知られています。

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