1分でわかる忙しい人のための姚信(ようしん)の紹介
姚信(ようしん)、字は元道(げんどう)、一字は徳佑(とくゆう)または元直(げんちょく)、出身は呉興郡、生没年不明
姚信は呉の名将陸遜の外甥にあたる文臣である。孫権の治世では太子孫和の属官として仕えたが、孫和が廃太子となると顧譚・顧承とともに流放された。その後、孫和の子孫皓が即位すると召還され、父を文皇帝として追尊する祭祀を担当した。宝鼎年間には太常に任命され、孫和の明陵での神主奉迎儀式を監督するなど、呉後期の宗廟儀礼を統べた人物である。
著作に「士緯」、「周易注」などを残している
姚信を徹底解説!太子孫和に仕え、孫皓時代に流罪から復職した陸遜一門の文臣
姚信とは?范平に師事し、孫和に仕官する
姚信は呉の名将・陸遜の外甥である。
字は元道と伝えられているが、文献によっては元直とされることもあり、ついでに「徳佑」という別名も出てくる。
なお「道」と「直」の取り違えは、古典文献の筆写や伝承ではよくある話で、とくに草書や隷書で文字がくたびれてくると、もう誰が誰だかわからなくなる。
そんなあやふやな時代に生きたせいで、姚信も複数の「名札」をぶら下げることになった。
父の名は「三國志」には記録されていないが、「新唐書・宰相世系表」には「姚敷」の名が見え、そこに信のルーツを求める余地はある。
若いころの姚信は、賀邵とともに范平のもとで学問に励み、礼制と文辞に長け、知識人として名を知られた。
その後、孫権の時代に太子・孫和の属官に任じられたが、孫和と弟・孫霸の対立、いわゆる「二宮の変」が勃発した際、彼は太子派に位置づけられた。
陸遜が孫権に詰問され病死すると、顧譚・顧承とともに巻き添えを食らい、まんまと流罪の処分を受けた。
いかに学識があろうと、いかに人望があろうと、政治の地雷原を踏み抜けば結果は同じであった。
流放と復職、文皇帝祭祀への参加
流罪となってから、姚信に再び光が差したのは、孫和の子・孫皓が皇帝に即位したときだった。
政局とは天気のようなもので、昨日の雨が今日は恩赦になる。
孫皓は自らの父を「文皇帝」として追尊し、かつてその父に仕えていた姚信は召し戻された。
宝鼎初め(266年頃)、姚信は礼制を統括する高官・太常に任じられる。
宝鼎二年(267年)七月、孫皓が「父上のために立派な祠堂を」と思い立ち、太守・大匠の薛珝に命じて寝殿「清廟」を造営させた。
建物の名前だけは清らかだが、背景には政権維持と正統化のどす黒い意図が貼りついている。
その年の十二月、右御史大夫・孟宗(孟仁)と太常・姚信は中軍の歩騎二千を率い、明陵まで赴いて孫和の神主を迎えるという一大儀式をとり行った。
建衡元年(269年)、左丞相の陸凱は病に伏し、死を目前に「姚信、楼玄、賀邵、張悌、郭逴、薛瑩、滕脩、そして一族の陸喜・陸抗らは、清廉にして忠勤、あるいは才智に優れた者である。これらは皆、国家の柱石となる人物であり、必ず重用すべきである」と言い残している。
だが、その推薦を最後に、彼の名は史書からすっと姿を消す。
豪胆でもなく奸計家でもなく、ただ黙々と礼を整えた文人の足跡は、こうして歴史の縁へと静かに溶けていった。
姚信の著作
姚信には、いくつかの著作が伝えられている。
主なものとしては「士緯」という全十巻の書物があり、内容は現存していないものの、清代の学者・馬国翰が文献の断片を集めている。
また、「周易注」という易経に関する注釈書も著したとされる。
これも宋代のころにはすでに散逸していたが、後に清代の学者たちによっていくつかの版本が編集・復元された。
具体的には、孫堂が編纂した「漢魏二十一家易注」には「周易注」一巻が収録されており、馬国翰の「玉函山房輯佚書」には「周易姚氏義」という名で一巻が収められている。
このほかにも、「姚氏新書」「昕天論」「戒子」といった著作がある。
昕天論:人体と宇宙をこじつけた、姚信の天動説
姚信の名前は、礼の専門家として伝わることが多いが、実は宇宙論にも手を出していた。
その名も『昕天論』で、ざっくり言えば「人間の体の形って、じつは空の形とそっくりなんだよね」という、ちょっと強引な自然観察にもとづいた天動説の理屈づけである。
たとえば、彼はこう言う。
「人間の顎は前に突き出していて、胸を向いている。首は背中をぐるっと回って後ろをのぞくことはできない。だから空も南が低くて、北がちょっと高いはず」
今だったら、ネットで「それは無理がある」って即答されるレベルだが、姚信にとってはこれは真剣な宇宙論だった。
季節と天体の関係についても、観察眼は鋭い。
「冬至には天が低く、太陽は南寄りを移動するから遠ざかり、北斗星が近づいて寒くなる。
夏至には逆に天が高く、太陽は北寄りを通って近づいてくるから暑くなる」
まあ、要するに「太陽が近いと暑い、遠いと寒い」理論である。
「夜が長いか昼が長いかも、空の高さで説明する。
天が高ければ太陽は上の方を浅く動くので昼が長く、夜は短い。
天が低ければ太陽は地の底を深く潜るので夜が長く、昼は短い。」
姚信は「人体と宇宙は似ている」というロマンチックな思い込みを、天文学と季節感とちょっとした生理学を混ぜて、きっちり一冊に仕上げた。
科学とは言いがたいが、観察と思索をつなぐ線を自分で引けるという意味では只者ではない。
参考文献
- 三國志 : 呉書十四 : 孫和傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書十三 : 陸遜傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書三 : 孫皓傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書八 : 薛綜傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 晋書 : 列傳第六十一 儒林 – 中國哲學書電子化計劃
- 晋書 : 志第一 天文上 – 中國哲學書電子化計劃
- 新唐書/巻074下 – 维基文库,自由的图书馆
- 参考URL:姚信 – Wikipedia
姚信のFAQ
姚信の字(あざな)は?
字は元道(げんどう)です。ほかに徳佑(とくゆう)や元直(げんちょく)とも伝えられています。
姚信はどんな人物?
姚信は陸遜の外甥であり、礼制を重んじた文官です。太子孫和の属官として仕え、後に太常として宗廟儀礼を監督しました。
姚信の最後はどうなった?
宝鼎年間の記録を最後に史書から姿を消します。没年は不詳です。
姚信は誰に仕えた?
孫権、孫亮、孫休、孫皓の四代に仕えました。
姚信にまつわるエピソードは?
姚信は昕天論で天動説を記しています。





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