【1分でわかる】楊戲とは何者か:「十人十色」の由来となった蜀漢の異色官僚【徹底解説】

一般文官2

1分でわかる忙しい人のための楊戲の紹介

楊戲(ようぎ)、字は文然(ぶんぜん)、出身は蜀漢犍為郡武陽、生没年(?~261年)
楊戲は蜀漢に仕えた官僚で、才知よりも誠実さと直言を重んじた人物である。
特に、幼馴染の韓儼や黎韜を生涯大切にし、政治的な媚態を嫌った態度は“十人十色”という言葉の由来にもなった。
諸葛亮に重用され、建寧郡太守や射声校尉などを歴任するも、姜維時代に酒席で姜維を嘲ったことで非役を命じられるという悲哀も。
誠実と無欲、そして直言──その態度が味方を遠ざけ、自分を孤立させたがゆえに、彼は蜀漢の歴史において忘れがたい影として残る。

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楊戲を徹底解説!誠実と直言の人、その評価と孤立

蔣琬との対話が生んだ「十人十色」:楊戯の性格と評価

若き日には東曹掾として蔣琬の部下にいたが、そこでもただ者ではなかった。
蔣琬が話しかけても、楊戯は無言で返す。人によっては「無礼だ」と映る態度である。
しかし蔣琬はこう語った。

「人それぞれ性格がある。彼の沈黙は率直さの証だ」

このやり取りが、日本語の成語「十人十色」の由来になった。
つまり、蔣琬という器の大きさと、楊戯の“扱いづらさ”の共演から生まれたのがこの言葉である。
楊戯の沈黙は、媚びもへつらいも否定もない、究極の距離感だった。

楊戯が見た南征の真実:諸葛亮の下で何を見たか

建興三年(225年)、諸葛亮が南中平定に動くと、楊戯も従軍した。
戦場のど真ん中で槍を振るうわけではない。だが、彼は文官として重要な役割を果たしていた。
軍事記録の作成、命令伝達、戦局報告、文官とはいえ、前線に近い場所にいたのは間違いない。
この経験が、後に彼が執筆する『季漢輔臣贊』の土台となったと考えられている。
つまり彼は、蜀の要人たちの行動を“一次観察”した男だった。
見た、感じた、そして書いた。彼の筆は歴史のフィルターを通さない。

姜維との対立と『季漢輔臣贊』の皮肉:筆で歴史を刻んだ男

楊戯の人生は、姜維という名前とともに傾いていく。
宴席での一件、楊戯は、姜維の言動を痛烈に皮肉った。
場が凍り、彼は帰還後に司法に弾劾され、庶民に落とされた。
姜維が直接罷免したわけではないが、権力構造の中で起きた沈黙は、意思の表明に等しい。


そして、楊戯は筆を取った。『季漢輔臣贊』である。
この作品では、多くの蜀の重臣に対し賛辞もあれば批判も記されたが、姜維については明確に厳しい評価を下している。
彼にとって筆とは、復讐の手段ではなく、真実を刻むための武器だった。
出世を捨て、言葉を残す。彼の“沈黙”が語り始めたのは、皮肉にも官を失ってからだった。

参考文献

FAQ

楊戲の字(あざな)は?

楊戲の字は文然です。

楊戲はどんな人物?

楊戲は蜀に仕え、質朴で飾らない性格を持ち、友人への厚い情を示した人物です。

楊戲の最後はどうなった?

西暦261年に病で亡くなりました。

楊戲は誰に仕えた?

蜀の劉禅に仕えました。

楊戲にまつわるエピソードは?

沈黙をもって誠実さを示したことで知られ、その姿勢は「十人十色」という成語の典故となりました。

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