1分でわかる忙しい人のための楊駿の紹介
楊駿(ようしゅん)、字は文長(ぶんちょう)、出身は弘農華陰、生没年(?~291年)
西晋初期の外戚で、娘の楊芷(ようし)が晉武帝の皇后となったことで国政を掌握した。彼は太尉・太傅・大都督などを歴任し、「三楊」と称された兄弟と共に宮廷で権勢をふるった。
しかしその裏では、諫言を退けて党派を固め、権力を独占する姿勢が次第に反感を呼んでいく。晩年は専制を強める一方で猜疑心も募らせ、忠臣すら遠ざけていった。
晉武帝の死後、賈南風の政変によって「謀反」の罪を着せられ、首都で自邸を包囲されて殺害。一族も三族誅滅、娘の楊芷も幽閉され餓死するなど、外戚としての栄華は一転して地獄に変わった。
栄達も滅亡もすべて「娘を皇后にしたこと」から始まったその人生は、野心と慢心が導いた破滅の典型である。
楊駿を徹底解説!晋武帝の皇后・楊芷の父として専横を極めた外戚の末路
名門・弘農楊氏の末裔として:楊駿の出世街道
楊駿という人物を語るうえで、まず無視できないのがその家柄である。彼は後漢の名臣・楊震を始祖とする弘農楊氏の流れを汲み、父・楊奉を経て、東莱太守・蓩亭侯であった楊衆の孫にあたる。いかにも「祖父までは立派だった」系の典型である。
そんな名門の血筋を持つ楊駿は、生年不詳ながら若いころから官界に入り、まずは高陸令という地方の長官職に就任。 次いで、驍騎将軍や鎮軍将軍といった、いわゆる中央軍権に関わる司馬職にも名を連ねている。
だが彼が真に歴史の表舞台に現れるのは、276年に娘の楊芷が晋武帝司馬炎の皇后となってからのことだった。「女を嫁に出せば、義理の親に権力が転がり込む」これは古今東西の外戚政治の常識である。
実際、晋の朝廷はそれを裏付けるように、彼を鎮軍将軍からさらに格上の車騎将軍へと昇進させ、臨晋侯という封爵まで与えた。肩書きが増えるたびに、楊駿の家の門構えがいっそう大きくなっていったであろうことは、容易に想像できる。
「三楊」の専横と晋武帝の放任政治
太康年間(280~289年)、晋の政務は大きく弛緩していた。天下が一応の平穏を取り戻すと、晋武帝は国政に関心を失い、日々の関心を酒と女に向けるようになる。 政務への監督は放棄され、後宮に連なる一族、すなわち皇后の親族を中心とする「后党」が、政治を仕切る存在となった。
この后党の筆頭が、楊駿である。皇后の父という外戚という立場によって、朝廷での地位は急上昇し、政治の中心へと食い込んでいく。
さらには、彼の弟である楊珧・楊濟も政界に登用され、三人の兄弟が朝政の実権を掌握する。 これを当時の人々は「三楊」と呼び、ただならぬ影響力を持つ一派として警戒した。
だが、三人揃って政治的手腕が抜群だったかというと、必ずしもそうではない。特に筆頭の楊駿は、器量が狭く、気に入らない者を容赦なく排除する性格だった。
朝廷の大臣たちは、楊駿に社稷を託すのは危ういと何度も晋武帝に諫言したが、武帝は聞く耳を持たなかった。皇后の父であり、信頼する身内ということが、判断を鈍らせていたのである。
楊駿は、自身に従わない官僚を罷免し、腹心を任命していった。こうして形成されたのが、自分の意向ひとつで政務を動かす閉鎖的な人事構造であり、権力は完全に楊家の手に収束していった。
顧命詔の捏造と司馬亮排除:密室政治の暴走
晋武帝が病に伏した時、朝廷にはすでに重鎮がほとんど残っていなかった。 誰が次の政権を担うのか、百官が困惑するなかで、ただ一人浮かび上がったのが楊駿である。 皇后の父という立場を利用し、彼は堂々と宮廷に入り、すでに顧命の主役のように振る舞っていた。
だが、晋武帝がふと意識を取り戻し、現状を見て怒りを露わにした時、「朝政はお前の私物ではない」と叱責し、汝南王司馬亮に輔政を命じる詔を起草させた。
しかし、それを知った楊駿は即座に動く。中書から詔を借り受けると、返却を拒み、政権構想そのものを潰してしまった。
290年、武帝がいよいよ臨終となったとき、楊駿は皇后に働きかけ、詔の再構築を試みる。華暠と何劭を召して、「皇帝の遺詔」と称する偽の顧命詔を作成させたのである。
実際にこの詔を晋武帝に見せた際、武帝は何も答えず、黙って視線を落とすのみ。 再び昏睡に陥る直前、武帝はひそかに「汝南王はまだ来ていないのか」と尋ねるが、その声はすでに届かぬものだった。
汝南王司馬亮は呼ばれることもなく、ただ宮門の外で涙を流すしかなかった。
新たに即位した晋恵帝は幼稚な君主であり、政務は当然ながら楊駿の手に落ちた。彼は顧命大臣として、司馬亮を地方に飛ばし、事実上の追放処分とする。 都の誰もが、これで楊駿の独裁が始まると確信した。
太傅・大都督としての専制:皇帝も傀儡に
晋の恵帝が即位すると、楊駿は太傅・大都督に就任し、事実上の最高権力者となった。
彼は、自分に不利な発言が皇帝に届くのを恐れ、恵帝の周囲の侍従をすべて親族や側近に差し替えた。 皇帝の生活も言動も、すべて外戚の掌中に収められていく。
特に異常だったのが詔勅の発令体制である。どんな命令もまず楊太后(楊芷)に提出され、楊駿の意向を確認した上でしか発布されなかった。 皇帝が出す詔ですら、楊駿の許可が必要とされる逆転現象が常態化していた。
こうして皇帝は自分の意志を示すことすら許されず、外戚の陰に埋もれる存在となる。楊駿による専制は、もはや形式上の補佐ではなく、皇帝制度そのものを乗っ取る政治支配へと発展していた。
大盤振る舞いの爵位と孤立:忠臣の諫言も無視
政権を掌握した楊駿は、自らの人気の無さに不安を覚えた。 そこで魏明帝即位時の先例に倣い、功績の有無を問わず、手当たり次第に爵位をばらまき始める。
この買収政策に対して、左軍将軍の傅祗は面と向かって皮肉をぶつけた。「陛下が崩御されたというのに、群臣がこれを好機として爵位を得るなど前代未聞ですな」と。だが楊駿は表情ひとつ変えず、無視を決め込む。
石崇も黙っていなかった。彼は「今の爵位の乱発ぶりは、かつて呉を討伐した開国功臣に与えられたものより遥かに多い。こんなペースで授けていたら、数年で猫も杓子も公侯になりますよ」と痛烈に批判する。
馮翊太守の孫楚も、かつては楊駿と親しかった人物だが、今の傲慢ぶりには目をつぶれず、晋室の諸王と対立すれば猜疑と混乱を招くと諫言した。だが、効果はゼロだった。
さらに親族である弘訓少府の蒯欽も苦言を呈するが、楊駿は頑として耳を貸さない。蒯欽はついに激昂し、言葉が暴走しかけたが、兄弟の楊珧・楊済すらも「言い過ぎだ」と冷や汗をかく始末だった。だが蒯欽は、もはや開き直っていた。「伯父は愚かでも、無実の者を殺すほどではない。私がここまで暴言を吐いても、せいぜい外任に飛ばされるだけでしょう。むしろ今はそれでいい。将来一族が滅びたとき、巻き添えを食うよりマシです」と達観した表情を見せた。
かくして、楊駿のまわりからは忠臣も親族も離れ、イエスマンだけが残った。諫言を聞かない政権の末路は、火を見るよりも明らかだった。
賈南風の反撃:臆病な性格が仇に
人事も思うままになった楊駿の最大の障害は別にあった。恵帝の皇后・賈南風である。
楊駿は、この強烈な存在を完全に制御することはできないと見て、あらかじめ自分の側近を禁軍に配備し、賈南風を封じ込めようと画策した。
弟の楊珧と楊済は才能と名望のある人物で、このやり方に強く反対し、兄に自重を促し、さらには楊駿を批判していた石崇にまで口添えを頼んで説得を試みた。
だが楊駿は頑として耳を貸さず、しまいには兄弟間にも不和が生じ始める。この時点で楊駿政権の終わりが始まる。
ついに賈南風の怒りに火がついたのである。
彼女は宮中の中郎・孟観と李肇という二人の官人を通じて密かに情報を収集し、汝南王司馬亮、楚王司馬瑋、淮南王司馬允らと連携を図った。
司馬亮は楊駿の暴走が招く破滅を予見していたが、軽挙を避け応じなかったが、野心家の司馬瑋は違った。 洛陽へ兵を進めるべく上表文を提出し、すぐさま軍を率いて上洛の準備を整える。
当の楊駿は、かねてより司馬瑋の兵権を恐れ、その排除を狙っていたが、逆に相手に一歩先を越された。
291年3月、賈南風は晋恵帝の名義で「楊駿が謀反を企んだ」とする偽詔を発布。 洛陽全域に戒厳令が敷かれ、楚王司馬瑋に皇宮防衛と称して討伐が命じられた。司馬允も国相・劉頌と共に兵を率いて加わる。
楊駿をかばう者もわずかにはいた。中常侍の段広は「楊駿は先帝に尽くした忠臣で、子もおらず、謀反する理由がない」と必死に訴えたが、晋恵帝はもとより判断力を欠いた君主で、何の反応も示さなかった。
楊駿の最後:無策で迎えた戦い
楊駿邸は旧魏の曹爽邸を転用した壮麗な建物で、洛陽の武庫の南に位置していた。
楚王・司馬瑋の軍が迫るとの報を受け、楊駿は幕僚を集め対策を協議するが、すでに遅かった。主簿の朱振は、今すぐ雲龍門に火を放って反撃の意思を見せ、万春門を開いて太子と東宮兵を呼び込めば、内外からの挟撃で賈南風らを掃討できると進言。
だが楊駿は「この建物は魏明帝が巨費を投じた大事業だ。火をかけるなどもってのほか」と反論。
危急の時に建築物の保存を優先するその判断に、傅祗らは愕然とする。
傅祗とそのいとこ・武茂は、楊駿を説得して雲龍門まで出て指揮を執るよう懇願するも、本人は動こうとせず、時間だけが過ぎていく。
傅祗は「宮中を無人にしてはならぬ」と呟き、黙ってその場を去る。群臣たちもそれにならい、次々と退散。
残されたのは、混乱と恐怖に包まれた楊邸と、すでに勝負のついた戦局だけだった。
火蓋の切ったのは、楚王司馬瑋の軍だった。雲龍門に火が放たれ、楊駿邸は炎上し 楊家の兵たちは次々に倒れていった。楊駿自身は馬小屋へ逃げ込んだが、押し寄せた兵に戟で刺殺された。
楊家の滅亡と後世の名誉回復
中護軍の張邵、散騎常侍の段広、河南尹の李斌、女婿の裴瓚らも皆、混乱の中で命を落とした。
皇太后となっていた楊芷は必死の思いで城外に向けて助命の手紙を矢で飛ばしたが、これを知った賈南風は即座に動いた。
楊駿と通謀したとして、楊芷は皇太后の位を剥奪され、平民に落とされ、洛陽郊外の金墉城に幽閉された。翌292年、最後の8日間は食糧も与えられぬまま餓死。楊氏一門は三族が皆殺し、誅殺された人間は数千人に及び、冤罪による連座も含めて徹底的に粛清された。
楊駿の姨表弟・武茂も同様に誅殺され、当時「三楊」と称された栄華は、一夜にして灰燼と化す。
だがそれから百年近くを経た東晋・永寧年間。朝廷はようやく楊家に対する名誉回復の詔を出す。「宗族が滅んだ今、渭陽の哀しみは骨肉の情を思わせる。楊駿の一族・楊超を奉朝請・騎都尉に任じ、慰藉とする」と。
その詔の文末には、哀歌『蓼莪』が引用された。かつての権臣の家に残された一抹の同情が、後世の官僚の筆に託されたのだった。
参考文献
- 参考URL:楊駿 – Wikipedia
- 《晋書》
- 孫大英『漢晋時期弘農楊氏研究』
FAQ
楊駿の字(あざな)は?
楊駿の字は文長(ぶんちょう)です。
楊駿はどんな人物?
皇后楊芷の父であり、後漢の楊震を祖とする名門の出身です。西晋初期に外戚として権力を握り、晉武帝の死後には単独で輔政を担いました。
楊駿の最後はどうなった?
291年に賈南風らの反撃により謀反の罪で討伐され、邸宅は焼かれ、自身は馬小屋で戟殺されました。
楊駿は誰に仕えた?
晋武帝・司馬炎とその子である恵帝に仕えました。
楊駿にまつわるエピソードは?
司馬瑋の軍が迫ってくるのに、建物の保存を理由に反撃を拒んだ優柔不断な逸話が有名です。
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