張翼:地味ながら蜀末期を支えた姜維と並ぶ主戦力【すぐわかる要約付き】

張翼

1分でわかる忙しい人のための張翼(ちょうよく)の紹介

張翼(ちょうよく)、字は伯恭(はくきょう)、出身は益州犍為武陽、生没年(?~264年)

張翼は蜀で重用された将軍で、蜀末期の地方統治と前線指揮の双方を経験した人物である。

劉備の益州統治開始時に登用され、書佐から郡太守へ昇進し、南方統治では劉胄反乱への準備が高く評価された。
諸葛亮の死後は征西大将軍・左車騎将軍として重要な軍事責任を負った。
一方で姜維の度重なる出兵には反対意見を述べ、軍事判断に慎重な姿勢を見せた。
蜀滅亡時には剣閣で鍾会軍を防ぎ、降伏後に成都へ移動したが、咸熙元年(264)鍾会の反乱に巻き込まれ乱兵に殺害された。

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張翼の生涯を徹底解説!蜀の始まりから末期まで活躍した、姜維と並んだ主戦力の最期

張翼の益州仕官と太守歴任

張翼は名家の出身で、高祖父は司空の張晧、その六世祖にあたるのが前漢の張良だという。曾祖父の張綱も光禄大夫や広陵太守を歴任しており、経歴だけ見れば血筋は申し分ない。

そんな名門の末裔が、歴史に登場するのは建安十九年(214年)で、劉備が益州を平定し、益州牧となったとき、張翼はようやく書佐として起用される。

その後、孝廉に推挙され、江陽長、涪陵令、梓潼太守を歴任し、最後は広漢太守、蜀郡太守にまで昇進した。

南方統治と劉胄反乱への対応

建興九年(231年)、張翼は庲降都督および綏南中郎將に任命され、蜀の南方統治を担うこととなった。だが、その統治ぶりは決して円滑とはいかなかった。張翼は法を厳格に適用しすぎたため、現地の民心をまるで掴めなかったのである。

建興十一年(233年)、南夷の豪帥・劉胄が反乱を起こす。諸軍を挙げて討伐に向かうも成果は出ず、朝廷は打開を図るべく張翼の召還を決定する。

部下たちはぐに帰還するよう勧めたが張翼はすぐには帰還しなかった。戦地において最優先されるのは兵糧の確保であり、罷免されたからといって準備を途中で放棄するのは無責任だと主張し、兵站の整備を最後までやり遂げた。

その後、着任した後任の馬忠に業務を引き継ぎ、ようやく張翼は帰還する。馬忠は張翼の整えた兵站をもとに劉胄を攻撃し、反乱を鎮圧することに成功。これに対し、諸葛亮は張翼の責任感と対応を称賛したという。

諸葛亮の死と昇進

張翼は諸葛亮の遠征に従って南方の武功方面へ進軍し、前軍都督に任じられ、扶風太守も兼ねた。

建興十二年(234年)八月、諸葛亮が五丈原で病没すると、張翼は前領軍に任命され軍を率いた。

以前、南方で劉胄が反乱を起こした際の兵站を整えたことを功績として認められ、張翼は関内侯の爵位を授かった。

延熙元年(238年)、張翼は中央に召されて尚書となる。ここからは督建威、假節、都亭侯と次第に昇進を重ね、最終的に征西大将軍に至った。軍政の両面で重職を担う立場となった、

姜維との対立と度重なる出兵

延熙十八年(255年)、張翼は衛将軍・姜維と一緒に成都へ戻った。 姜維は「さて、もう一度やるか」とばかりに再出兵を主張する。張翼はそれを聞き「国は小さく、民は疲弊している。戦を重ねるのは、もう限界だ」と反対する。

だが、姜維は張翼の忠告を無視し、張翼まで引きずって出兵を強行する。この時、鎮南大将軍へ昇進している。進軍した狄道で魏の雍州刺史・王経を破り、洮水では大損害を与えるという好スタートを切る。王経は狄道に逃げ込むが、ここで張翼がまたも諫言する。
「これ以上進めば無理が出る。ここで止めるのが得策だ」

しかし姜維は「蛇に足を描くようなもの」と言って、張翼の意見をあっさり斬り捨てる。芸術に余計な手を加えて駄作にするような話に喩えているが、その実、自分の戦が名作だと本気で思っていたのかもしれない。
結果、狄道は落ちず、長引く包囲の中で魏の陳泰が援軍に来たため、姜維は渋々撤退し鐘題に駐屯する。追撃されなかったのが唯一の救いだった。

このあたりから、姜維と張翼の関係は完全に冷え切るが、姜維は張翼を解任するでもなく、なぜか常に同行させ続けた。

張翼の側からすればたまったものではない。意見すれば無視され、沈黙すれば連れ回される。まるで降りられないバスに乗せられたようなもので、しかも運転手はアクセルしか知らない男だった。

魏の侵攻と張翼の最期

景耀二年(259年)、張翼は左車騎将軍となり、冀州刺史の名誉職を与えられた。

景耀六年(263年)、魏が満を持して大侵攻を開始する。張翼は廖化董厥らと共に迎撃に出たが、すでに蜀の体力は尽きかけていた。連戦連敗のツケが積み上がり、結局、姜維と合流して剣閣へ退くこととなる。

剣閣では鍾会の軍と対峙するが、ここは張翼らの意地が勝り、魏軍は突破できなかった。蜀の防衛線が久々に機能した数少ない戦局だった。しかし戦の行方は、正面突破とは別のところで決まる。

鄧艾が陰平から山岳地帯を踏破して奇襲に成功し、成都目前まで迫られた劉禅は降伏する。張翼は勅命に従い、姜維とともに涪県で鐘会に降る。

そして咸熙元年(264年)正月、張翼は鍾会に随行して成都に入るが、今度は鍾会が謀反を画策。その混乱に巻き込まれて張翼は命を落とした。

『三国志』の陳寿は張翼を「姜維の勢いに対抗した人物」と評し、『華陽国志』では「不満を抱きながらも、国家の安危とともにあった」と記した。

誠実に、慎重に、最後まで現場に立ち続けた男が報われることはなく、戦場よりも政争で死ぬその最期は、彼の人生そのもののように寂しいものだった。

参考文献

張翼のFAQ

張翼の字(あざな)は?

張翼の字は伯恭(はくきょう)です。

張翼はどんな人物?

張翼は統治と軍事の両面で責務を負い、特に慎重な軍事判断が特徴の武将です。

張翼の最後はどうなった?

咸熙元年(264年)に鍾会の反乱に巻き込まれ殺害されました。

張翼は誰に仕えた?

蜀の劉備、劉禅に仕えました。

張翼にまつわるエピソードは?

南方での劉胄反乱の際、召還命令が出ても戦備を整える責任を優先し、その判断を諸葛亮に賞賛されたことが特筆されます。

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