1分でわかる忙しい人のための張昭の紹介
張昭(ちょうしょう)、字は子布(しふ)、出身は彭城、生没年(156年~236年)
後漢の末期に生まれ、呉の初期政権を支えた政治家である。
戦乱を避けて江東に移り、孫策に招かれて長史・撫軍中郎将となった。
政務と軍事の両方を任され、江東の基盤を整える中心人物として活躍した。
建安五年(200年)に孫策が急死すると、弟の孫権を補佐して政権を安定させ、各地の治安回復と山賊討伐に力を注いだ。
のちに曹操の南下に際して降伏を勧めたため一時的に信任を失うが、礼儀や国家儀礼を重んじる姿勢は終生変わらなかった。
黄初二年(221年)には、魏の使者・邢貞の無礼を正面から叱責して下馬させ、その威厳を示した。晩年は官職を退き、輔呉将軍・婁侯として尊重されながら『論語』や『左氏伝』の注釈をまとめた。嘉禾元年(232年)には遼東への出兵に反対して孫権と激しく対立したが、最終的に和解して再び政務に復帰した。
嘉禾五年(236年)、八十一歳で亡くなり、文侯の諡を贈られた。
張昭を徹底解説!孫策に江東を任され、赤壁前夜の降伏論から晩年の諫言をし続けた裏宰相
彭城の秀才と学問仲間の青春期
張昭は後漢末の彭城に生まれた、書と学問が大好きな少年だった。特に隷書が得意で、その筆跡は柔らかいのに厳格という、まるで羊羹に鉄骨を入れたような不思議な味わいがあったらしい。
学問は白侯子安に師事し、『左氏春秋』で「礼」や「義」といった漢文界の倫理教本を叩き込まれた。
友人には琅邪の趙昱、東海の王朗といった優秀な面子が揃い、三人で「語り合う」という真面目な青春を送っていた。
若くして孝廉に推挙されるも、あっさり辞退し、名誉に鼻を膨らませず、「礼」に生きる姿勢を貫いた。
避諱(いき)問題で応劭が「旧君主の名は避けるべし」と主張したとき、張昭は王朗とともに「避けなくてよくね?」と冷静に反論。経書を盾に、史例を矛にして論破した。
その姿勢が当時の才士・陳琳にも評価され、若くして「ただの優等生」を卒業し、張昭の名前は、学問と議論の世界に強く刻まれることとなった。
※避諱:君主や目上の者の本名(諱)を避ける慣習。皇帝になったら劉備の備を避けるとか。
陶謙との対立と張昭の矜持
後漢末、徐州刺史・陶謙が彼の噂を聞きつけ、「茂才に推すぞ」と声をかけた。しかし、張昭はこれをサラリと辞退する。
名誉より矜持、とでも言いたげだったが、相手が悪った。陶謙は「俺を軽く見やがって」はブチ切れて、張昭を拘束するという、知識人に対する対応とは思えぬ力技に出た。
このとき颯爽と現れたのが旧友・趙昱で、必死の土下座で陶謙を説得し、どうにか釈放にこぎつける。
後日、陶謙が病没すると、張昭は「まあ、死んだんなら弔ってやるか」と自ら弔文を認めた。
あれだけ怒られて投獄までされたのに、最後にはきっちり別れの礼を尽くしている。
江東へ避難し孫策政権を支える
後漢の末年、戦乱が続き、徐州の士人たちは江東へと避難した。
張昭もそのひとり、ただの避難民だった。ところが孫策が自ら訪ねてきて、礼を尽くし仕官を求めた。これには張昭も「そこまで言うなら」と折れて出仕を承諾する。
興平二年(195年)のことであった。
孫策は彼を長史・撫軍中郎将に据え、政務も軍務も丸投げ、母への挨拶にも帯同させ、家族のように扱ったという。
こうして張昭は、江東の内政・軍事はすべて張昭の裁可を経て進められ、「裏の孫策政権」みたいな立場で政権を安定させた。
北方から士人たちから、江東の事業を称える書簡が次々と届き、その多くが張昭を賞賛する内容であった。
張昭はそれらを黙っていれば私心があると疑われ、公表するのも引けて悩む。
それを見た孫策が一言。 「管仲も斉で持て囃されたが、桓公が使ったからこそだ。つまりお前が褒められる=俺の手柄。」
この一言により張昭は感激し、以後さらに忠誠を深めた。
孫策からの託孤、江東を立て直す忠臣
建安五年(200年)、孫策が刺客に襲われて重傷を負った。
死期を悟った孫策は、弟の孫権を呼び寄せると、その身を張昭に託した。
「もし仲謀(孫権)が事を為せぬなら、他の弟を立ててもよい。最悪、独立勢力を維持できないなら、漢室(曹操)に降ってもいいよ」と、わりと大胆な遺言を残し、そのすべてを張昭に託した。
孫策が死ぬと江東は案の定ぐらぐらに揺れたが、張昭は即座に孫権を後継に立て、各地へ公文を出し、将校たちには職務を守らせた。
悲しみに沈む孫権には、「泣く暇あるなら政務やれ。山には賊がウヨウヨだぞ」と厳しくお説教する。
自ら孫権の手を引いて馬に乗せ、兵士を整列させて進軍開始。この光景に家臣たちも「お、おう」と覚悟を決める。
江東の人々も次第に落ち着きを取り戻した。 張昭は長史として、政務全般を統括し、黄巾の残党を討伐して地方の治安を回復させ、孫権は政事においては常に彼の意見を聞いた。 今度は「裏の孫権政権」として、孫権体制は整い、江東の秩序は再び安定を取り戻したのである。
張昭と甘寧の対立
西暦207年(建安十二年)、甘寧が黄祖の下から離れ、投降してくる。
彼は開口一番、孫権にこう進言する。「漢室はもう形だけ、曹操は明らかに簒奪を狙ってます。江南は天然の要塞、長江さえ押さえればこちらが有利。劉表の目は節穴で、息子も期待できません。まずは黄祖を落として、川上を制するべきです」
甘寧はさらにたたみかける。
「黄祖はもう老体、兵も緩んで士気は最低。しかもカネがない。今攻めれば必ず勝てます。」
しかし、張昭は慎重論を唱え、「国内が安定していない状況で遠征は危険だ」と主張したが、甘寧は「国が貴方に蕭何の任を与えるのに、現場に残って守ることすら不安がるようでは、どうして古人を尊敬してるなんて言える?」と言い返した。
孫権は最終的に酒杯を掲げて、「興覇(甘寧)、今年の黄祖討伐はお前に任せる、張昭の言葉だからといって放棄してはならぬ」と応じ、軍を動かすことを決意した。
しかし、この時は大した戦果もなく、表兄(母方のいとこ)の徐琨が流れ矢で戦死するという苦い結末となった。この一件は、張昭の戦略的識見が、甘寧の短期的な武勇を上回っていたことを証明した。
赤壁の戦い前夜、張昭の進言とその代償
建安十三年(208年)、曹操が荊州を制圧し、そのまま南下して孫権に降伏勧告の書状を送りつけてきた。
群臣たちがその「上から目線の手紙」を前に押し黙る中、張昭は悠々と前に出てこう言い放つ。
「曹操は天子を奉じて号令している。その命に従わなければ、我々が朝廷に背いたことになる。
しかも荊州の水軍まで奴の手中。地の利も失った今、抗えば国を危うくするだけ。むしろ降ったほうが理にかなう」
ここまで見事な慎重論を披露して、場を降伏側に持って行った。
孫権が更衣のため席を立つと、魯粛は屋外まで追いかけ、主君の手を取って言った。 「将軍が降れば、宴席の余興か、はたまた見せしめの吊るし首になるだけです。」 また、 その言葉により、孫権は抗戦の決意を固め、刀で机を真っ二つに斬り捨てた。
「今後、曹操を迎えようなどという者は、この机と同じ運命だ」と、暴力と威圧で政治方針を決定。
結果、赤壁の戦いが勃発し、孫権・劉備連合軍は曹操軍を見事退ける。
しかしこの勝利の裏で、張昭は「降伏を唱えた男」として名を刻まれる羽目になった。
軍政の場から遠ざけられ、以後は政権の良識担当として、儀礼や諫言を任されるだけの存在になってしまう。
それでも一応、同年十二月の合肥侵攻の際は九江郡の当塗を攻めるが、こちらは不首尾。
ただし、別働隊の指揮では豫章の賊・周鳳らを南城で撃破するという挽回も見せた。
やればできる、しかし赤壁の一件が尾を引いて、評価は常にマイナスであった。
主君を諫めた射虎車と酒宴の逸話
建安十四年(209年)、劉備の奏上により、孫権は車騎将軍・徐州牧となり、張昭は軍師として政務を支える立場に。
だが当の主君はというと、血気盛んすぎて、日々、馬にまたがって虎狩りに夢中。
中には本気で襲ってくる虎もおり、鞍に爪を立ててくるほどだったが、孫権は満面の笑み。
家臣たちは内心ビクビク、「殿、ちょっと落ち着いて」と言いたくても言えない空気。
そこへ張昭が真顔で進み出る。
「将軍、賢者を使うのが君主の務めです。獣相手に勇を競ってどうするのです。
万一のことがあれば、天下の笑い者になりますよ」
このストレートな正論に、孫権は深く頭を垂れ、「考えが浅かった」と素直に謝罪した。
かと思えば、すぐに反動がくるのが若者というもの。
孫権は今度、自分用に「射虎車」なる、屋根なし・御者一人の危険なオープンカーを開発し、自ら弓を取る。
当然、虎がまた飛びかかってきたが、本人は「これはこれでアリだな」と楽しんでいた。
張昭は何度も諫めたが、孫権は「いやあ、ご忠言ありがとね」くらいの軽さで受け流す。
それでもこの虎狩りエピソード、後世では「忠臣が君主を戒めた美談」として語り継がれることになるのだから、歴史の評価というのは気まぐれである。
もう一つの事件は、武昌での酒宴。孫権が釣臺にて泥酔し、部下に命じて群臣に水をぶっかける遊びを開始。
「釣臺から誰か落ちたら終了な」とか言い出し、完全にカオスな宴会。
これを見た張昭は何も言わず、静かに席を外し、車の中に戻ってしまう。
「公よ、なんで怒っている?」と呼び戻された張昭は、こう返す。
「昔、紂王が糟丘酒池で酒宴を開いたときも、あの時代の人は楽しいと思っていましたよ。
でも、結局、あれが王朝の終わりの始まりだったんです」
孫権は無言で頷き、顔を赤らめ、そっと宴を中止した。
魏使・邢貞を礼をもって一喝
黄初二年(221年)、魏の文帝・曹丕は孫権を呉王に封じるため、太常・邢貞を使者として派遣した。
江東に現れたその男は、やってきたそばから傲慢そのもの。
門前でも車から降りず、呉をまるで辺境の蛮族でも見るかのような態度で、堂々と入場する。
周囲が固唾を飲む中、張昭がスッと立ち上がる。
「礼とは、敬意をもってこそ、法が通じるもの。あなたが車を降りぬのは、ここ江南を侮り、刃一寸もなしと思っているからか。」
静かで、冷たく、だが致命的な一撃をかます。
邢貞は青ざめ、車から飛び降りて謝罪。
居並ぶ群臣の間には緊張が走ったが、この一喝によって呉の威が示された。
孫権は張昭の剛直ぶりに大いに喜び、「綏遠将軍」に任じ、さらに「由拳侯」に封じた。
この場にいた中郎将・徐盛もまた涙ながらに吠える。
「我らは洛陽を攻め、巴蜀をも併呑すべき将相だ。それなのに、なぜ主君がこんな屈辱を!」
これを目の当たりにした邢貞は、帰国後こう述べた。
「江東にはあのような将相がいる。長く人の下にいようはずがない」
外交という名の舞台で、張昭は剣を使わずして一国の威信を守り切った。
丞相になれなかった張昭の剛直と誤解
孫権が呉王として政権運営に本腰を入れ始めると、朝廷では「そろそろ丞相置いたら?」という機運が高まる。
当然ながら白羽の矢が立ったのは、功績も頭脳も申し分ない張昭。
群臣満場一致で「この人しかいないっしょ」だったが、孫権は意外なコメントで流す。 「この時期は政務が多く、丞相の責は重い。老臣を煩わせるのは忍びない」
と述べ、張昭を見送り、孫邵を任命した。
その後、丞相に就いた孫邵が亡くなり、またしても張昭を推す声が沸く。
ここで孫権はそれを流しつつ、率直に群臣に語る。
「孤が張昭を嫌いと思うか? それは違う。
だが丞相は、皆の意見をまとめる役職で、張昭は一本気すぎて、意見が通らないと逆恨みする。
彼の剛直さは素晴らしいが、それゆえに調整役には向かないのだ」
要は正論すぎて煙たがられるタイプという評価だったらしい。
結局、丞相に顧雍を任命し、張昭はそのまま長史として政務に関わり続けた。
張昭は直言をもって君を諫め、時に衝突を招いたが、権力に迎合しない孤高の政治姿勢を貫いた。
その剛烈な性格は、やがて「剛直の士」「苦諫の臣」として後世に語られる所以となった。
張昭と若き英才・諸葛恪の対立
酒宴での苦諫
諸葛恪が張昭に酒を進めると、「老人を敬う心は大切です」と答え酒を辞退する。それに痺れを切らした孫権が「張公を言葉で説き伏せて飲ませてみよ」命じる。 そこで諸葛恪は、太公望・呂尚が九十で軍を指揮した話を引き合いに出し、「戦場では後方にいるべき老人が、宴席では前に座る。それこそ老いを敬えていないのでは」と静かに論じたのだった。張昭は詰め寄られて返す言葉なく、無念のように杯を傾けた。
白頭翁の一件、張昭を言葉で黙らせた瞬間
ある日、白髪の鳥が殿前に舞い降りた。孫権が「これは何という鳥か」と尋ねると、諸葛恪は「白頭翁(はくとうおう)でございます」と答えた。 最年長の張昭は、自分を揶揄されたと感じて言った。「諸葛恪は陛下をだましております。白頭翁など聞いたことがありません。奴に白頭の母鳥を探させましょう。」 それを聞いた諸葛恪は微笑して答えた。「鸚母(おうぼ)という鳥がございます。では張公(張昭)こそ、鸚父(おうふ)をお探しください。」 張昭は言葉を失い、孫権も臣下も大笑いした。
再び呼ばれた老臣の忠誠と信念
黄龍元年(229年)、孫権が帝位につくと、張昭は老病を理由に職を辞し、「輔呉将軍」として政務の第一線を退き、余生モードに入ったと思われていた。
だが老臣の存在は濃い。
ある日、蜀からの使者がやってきて、ウチの徳と功は天下一と誇示しはじめる。
群臣の誰も言い返せず、孫権は「もし張公がここにおれば、言葉で必ず相手を折ったであろう。」嘆いて言った。
翌日、孫権はわざわざ張昭を呼び出す。
張昭は辞退しようとするも、孫権がまさかの膝をついて引き止める。
張昭は座に着くと、顔を上げて静かに言った。
「太后と桓王が陛下を老臣に託されたあの日、命をかけて報いようと決めておりました。
だが私の知見は足りず、しばしば陛下と対立し、死しても悔いの残る思いでおりました。
それなのに、今またお呼びいただけるとは……。
忠を曲げて名声や地位に与することだけは、どうしてもできませぬ。」
孫権、深く頭を垂れ、「それは朕の非だった」と謝罪。
この一幕は、張昭という男が生涯かけて貫いた信念と忠誠の集大成であり、<政治家ではなく「臣」としての矜持が、静かに、しかし痛烈に突き刺さる場面である。
公孫淵の遼東問題をめぐる対立と和解
嘉禾元年(232年)、遼東の魏太守・公孫淵が魏から呉に鞍替えしようと「助けあいませんか?」と打診してくる。
孫権はこの機会を利用して北方に影響力を拡げようと考えたが、張昭は強く反対した。
「一時しのぎのSOSです。信用できません。
こっちの使者を送り込めば殺されて、呉が天下の笑い者になりますよ」
しかし孫権は意見を退け、張彌・許晏を使者に送り、公孫淵を「燕王」に封じるという超好待遇を与えてしまう。
それでも張昭は諫言を重ねるが、ついに孫権ブチ切れ、刀を机に叩きつけ、「呉の士は表では朕に拝し、裏ではお前に頭を下げる。
そんなに敬っているのに、なぜ人前で朕を辱めるのだ!」と公の場で完全に会議崩壊。
しかし、張昭は涙を流し、真正面から返す。
「承知しております。だが太后と桓王(孫策)が陛下を私に託された、その声が今も耳に残っているのです」
この一言に孫権も涙し、刀を投げ捨てて抱擁する。この二人の絆の演出だけは毎回キマる。
それだけ演出しておいて孫権は公孫淵に使者を送る。
結果は張昭の予言的中で、公孫淵は裏切り、張彌と許晏はあっさり殺される。
さすがに、孫権は深く後悔し、張昭に謝罪の使者を送ったが、張昭は怒りと失望のあまり病と称して出仕しなかった。
これに、反省したはずの孫権は、逆ギレ気味に「じゃあもう門ふさげ!」と張昭宅の門を土で封鎖を命じる。
すると張昭も負けずに、内側から土を積み上げて応戦し、「こっちも二度と出ないぞ」と物理で引きこもり宣言を開始する。
孫権はついに火で焼こうとして、門前に立ち尽くすこと数刻、ようやく張昭の息子たちに説得され、張昭が登場する。
孫権は彼を車に乗せて宮に連れ戻し、正式に謝罪した。 こうしてようやく和解が成立。張昭は政務に復帰した。
信念 vs 野心。忠言 vs 独断。これは単なるケンカではない。
主君と臣下が、それぞれの立場で国家を背負い、本気でぶつかった一戦だった。
晩年と最期 文侯・張昭の幕引き
黄龍元年(229年)以降、張昭は「輔呉将軍」として三公に次ぐ高位にあったが、老齢と病を理由に政務を退いた。
邸宅にこもり、『春秋左氏伝』や『論語』の注釈をまとめ、口を出す代わりに筆をとる生活へ。
孫権はなおも彼を敬い、時折、厳畯らと共に古典を講じさせるなど、その影響力は衰えなかった。
口うるさくても、いないと困る。そういう人の典型だった。
嘉禾五年(236年)、張昭は八十一歳で静かに世を去った。
遺言により、布の帽子をかぶり、普段着のまま素棺に収められた。
華美な装飾もなく、儒者らしい質素な葬であった。
孫権は自ら喪服をまとって弔い、張昭の徳を称えて「文侯」と諡した。
長子・張承はすでに侯爵を受け継ぎ、次子・張休が爵位を継承している。
張昭をめぐる後世の評価と史家の視点
張昭という人物は、その剛直さと忠誠によって、同時代の士人たちからも後世の史家たちからも、さまざまな角度から評価されている。
『三国志』の陳寿は、張昭を次のように評し、孫権と孫策との差を比べている。
「張昭は遺命を受けて孫権を輔佐し、多くの功を挙げた。忠実かつ正直で、少しの私心もなかった。
だが、性格の厳しさを人々に恐れられ、高潔ゆえに疎まれ、結局は宰相にも師保にもなれなかった。
それによって、孫権が兄・孫策に劣っていたことが明らかになった。」
建安の文人・陳琳は単純に張昭を高く評価している。
「私は河北にいて天下と隔たっているが、競う者が少なく、運よく名を得ているに過ぎない。
今、王朗がこちらにいて、そなたと張子布(張昭)があちらにいる。
まるで小巫女が大巫女に出会ったように、私の気勢は一瞬で消えてしまう。」
張昭と王朗の学識は、北方でも一目置かれていたことがわかる。
『典略』の著者・魚豢も、張昭の名声を紹介している。
劉表が孫策に送ろうとした手紙を禰衡に見せたところ、彼はこう言ったという。
「これは孫策やその配下向けか? それとも張子布に見せるつもりか?」
とはいえ、劉表の文章も、含蓄があり典雅で、決して筆跡(文才)がないとは言えない。
このやり取りからは、劉表の文才が、若き孫策には十分でも、張昭の深い学識の前では稚拙であることを、禰衡が皮肉ったことが読み取れる。張昭の知識と眼力こそ、当時の文人最高の評価に値した。
魚豢はさらに、「張昭は仲父と呼ばれており、江東の人々から父のように敬われていた。
本来は中原でも活躍できる器だったが、会稽に留まり、そこで根を張ったことが惜しまれる」
とまとめている。
西晋の文学者・陸機もまた、張昭を「江東文治の中枢」として高く評価している。
『弁亡論』では、
「張昭は外敵を討ち、江の外を平定し、法を整え軍を統率した。
賢者を礼遇する雄であり、周瑜は英雄を束ねる傑。
二人は心を同じくし、時に応じて呉を支えた」と記している。
陸機にとって、張昭はまさに「師傅」、周瑜・陸遜と並ぶ東呉の精神的支柱だった。
また、裴松之は『三国志』注で、張昭の「曹操に降るべし」という意見を弁護している。
「張昭の降伏論は、志が浅かったのではない。むしろ、天下の安定を願ったからこその発言だった。もし彼の提案が通っていれば、戦乱は早期に終息し、戦国のような長期抗争には至らなかったかもしれない。彼は孫氏への忠義と同時に、天下に対しても正しい人だった。」
と評し、「忠にして正なる人」として称えている。
剛直で私心なく、飾り気のない言葉で主君を諫め続けた張昭。
その姿は、しばしば管仲に比され、「江東の仲父」と呼ばれた。
彼の清廉と節義は、呉を支えた理想的な文臣の象徴として語り継がれている。
参考文献
- 三國志 : 吳書七 : 張昭傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 吳書二 : 吳主傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 吳書一 : 孫策傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 吳書十 : 甘寧傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 魏書二 : 文帝紀 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 魏書八 : 陶謙傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 後漢書 : 列傳 : 劉虞公孫瓚陶謙列傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 参考URL:張昭 – Wikipedia
- 建康實錄 : 卷第一校勘記 – 中國哲學書電子化計劃
- 資治通鑑/卷065 – 维基文库,自由的图书馆
- 資治通鑑/卷069 – 维基文库,自由的图书馆
張昭のFAQ
張昭の字(あざな)は?
字は子布です。
張昭はどんな人物?
剛直で諫言を惜しまず、礼制や対外儀礼で威を示しつつ、政務の統括や鎮撫に長けた人物です。
張昭の最後はどうなった?
嘉禾五年(236年)に八十一歳で没し、素服での斂を受け、文侯と諡されました。
張昭は誰に仕えた?
孫策・孫権に仕え、江東の創業と体制確立を支えました。
張昭にまつわるエピソードは?
黄初二年(221年)に魏使邢貞の無礼を一喝して下車させたこと、嘉禾元年(232年)に遼東問題で強諫したことが有名です。
コメント