1分でわかる忙しい人のための陶璜の紹介
陶璜(とうこう)、字は世英(せいえい)、出身は丹楊郡秣陵県、生没年(?~290年)
陶璜は、三国時代の呉および西晋に仕えた武将である。
若くして武勇と統治の才を備え、特に南方における長期統治で知られた。
263年に交趾太守孫諝の暴政によって民衆が反乱を起こし、交州が一時的に西晋の支配下に入ると、呉の孫皓はこの失地を奪回すべく陶璜を派遣した。
陶璜は自ら志願して戦に臨み、海路からの進軍や夜襲、離間策を駆使して晋軍を撃破し、271年に交趾・九真・日南の三郡を奪還した。
その後、交州刺史として南方の乱を平定し、住民の請願によって任地に留まった。
呉が滅亡すると晋に降伏し、交州刺史として再任されたのちも民政に尽くし、南方防衛と産業振興を進言した。
生涯にわたり交州を三十年治め、死後には「烈侯」と諡され、地元民が「慈親を失ったように号哭した」と伝えられている。
陶璜を徹底解説!呉と晋に仕えた名将の南方統治と防衛、そして陶氏一族の継承まで
陶璜の出自と交州の乱の背景
陶璜は丹楊郡秣陵県の出身で、父の陶基は交州刺史であり、一族は南方統治に深く関わる家柄であった。弟の陶濬は荊州を預かる鎮南大将軍である。
その南方・交州で、孫皓の時代になると、状況が一変した。
太守・孫諝の政治が荒れに荒れ、搾取と暴虐のオンパレードで、住民たちは生きるだけで精一杯のところへ、さらに追い打ちがかかる。
軍務で来た鄧荀が独断で秣陵に孔雀三千羽を送らせるなど、無茶な徴発が続き、民衆の不満は反乱の臨界点に達していた。
ついに永安六年(263年)、郡吏の呂興らが蜂起し、孫諝と鄧荀を殺害する。 自立して魏に使者を送り、支配下に入る意思を示した。
この動きに、九真郡・日南郡も連動し、交趾・九真・日南の三郡が、呉の支配から完全に脱落した。
その頃、魏はすでに蜀を滅ぼして勢いに乗っていた。
翌・永安七年(264年)、魏は呂興を安南将軍・交州都督に任命し、南中監軍の霍弋には、遠隔で交州刺史まで兼任させる。
霍弋は、建寧の爨谷を交趾太守に推し、董元・毛炅・孟幹・孟通・爨能・李松・王素らを率いて援軍を送った。
しかしこの派兵が間に合う前に、呂興は自分の功曹・李統によって殺害されてしまう。
内乱の末に立った者が、今度は部下に裏切られるという、交州らしい混沌ぶりである。
泰始元年(265年)、司馬炎が晋を建国すると、交趾・九真・日南の三郡は正式に晋の版図となる。その後、交趾太守の爨谷が死去し、巴西の馬忠の子・馬融が派遣されたが、こちらも病死している。
交州奪還開始
交州をまるごと失ったという知らせを受け、呉の朝廷では当然のように会議が始まったが、内容は策というよりほぼ動揺の確認会だった。
4年後の宝鼎三年(268年)、ようやく孫皓は交州刺史の劉俊と前部督の脩則に命じ、とにかく交趾を取り戻せと南方へ軍を送る。
南中監軍の霍弋は、犍為の楊稷を新たな交州刺史とし、将軍の毛炅を筆頭に、董元・孟幹・孟通・李松・王業・爨能といったメンバーを動員して蜀から進軍させた。
この本気の陣容を見ても、交州は奪回が難しい地と化していたことがわかる。
その結果、呉軍は古城で敗北し、劉俊と脩則は戦死した。
交州奪還作戦は初手から完全に崩壊し、その敗報が建業に届く頃には、南方遠征軍の士気もすっかり冷えきっていた。
翌・建衡元年(269年)、孫皓は策を練り直す。
今度は薛珝を威南将軍・大都督に、虞汜を監軍に任じ、蒼梧太守には陶璜を抜擢し、再び交州攻略軍を編成した。
同時に李勗と徐存を建安から海路で進発させ、陸路の軍と合浦で合流して交州に向かわせるという、海陸両面の挟撃作戦が打ち出された。
軍略としてはそれなりに理に適っていたが、この計画もまた、紙の上では良く見える類のものだった。
建衡二年(270年)、李勗は「この状況では到底進軍できない」と判断し、案内役の馮斐を斬ったうえで、軍を率いて撤退してしまう。
こうして、反乱軍との決着はさらに2年先へと持ち越されることになった。
董元を破る夜襲と奇策
建衡三年(271年)、呉の南征軍が再び交州へ向かった。
薛珝・虞汜・陶璜がそれぞれ軍を率い、今度こそ失地を取り戻そうという意気込みだったが、初戦から晋軍の反撃を受け、陶璜の部下二人が討ち死にした。
激怒した薛珝は、「お前、自ら賊を討つって言ってたよな? 二人死んでるぞ」と陶璜を責め立てる。
陶璜は「いや、軍がバラバラだったのが敗因です」と落ち着いて答えたが、薛珝の怒りは収まらず、撤退の検討まで始めたという。
だが陶璜は、そこで退く代わりに夜襲を提案した。
彼は精鋭の兵数百を率い、晋の董元の陣を奇襲したのである。
敵は油断しており、陶璜は一気に攻め込んで陣を崩し、戦利品を奪い取って見事に軍を戻した。
この思い切った作戦に薛珝も感服し、陶璜を「領交州前部督」に任命して功を称えた。
その勢いのまま陶璜は海路を進み、交趾郡城への攻撃に踏み切った。
迎え撃つ董元は退却を装って罠を仕掛けていたが、陶璜は断崖の陰に伏兵がいると見抜き、長戟を備えた兵を後方に配置する。
案の定、晋軍が退いた瞬間に伏兵が姿を現したが、陶璜の読みが的中し、長戟隊が迎え撃ってこれを打ち破った。
この一戦で呉軍は大きな戦果を挙げ、交州奪還への道が再び開かれた。
陶璜はさらに勢いを広げるため、勝利で得た絹物を南方の賊帥・梁奇に贈った。
贈り物ひとつで梁奇は心を動かされ、一万人以上の兵を率いて呉軍に加わる。
戦場では剣よりも布が効くこともある。
続いて陶璜は、智略を用いて董元の軍を内部から崩す。
晋軍には解系という勇将がいたが、陶璜はその弟・解象を使い、兄宛ての手紙を偽筆させて董元に見せかけた。
さらに解象を自軍の車に乗せ、鼓吹を鳴らして堂々と行軍させ、敵の目に入るよう仕向けたのである。
この離間の策にまんまと引っかかった董元は、「解系が裏切った」と早合点し、忠臣である彼を自ら処刑してしまった。
指揮を失った晋軍は混乱に陥り、陶璜は総攻撃を仕掛けて董元を打ち破った。
こうして交趾方面は呉の手に戻り、失地回復の端緒がようやく開かれた。
交趾三郡を平定し交州刺史となる
董元を打ち破った陶璜は、そのまま薛珝と連携して晋軍への総攻撃に打って出た。
このとき交趾郡を守っていたのが、かつて霍弋から命を受けて派遣された楊稷らの軍である。
霍弋は生前、こう断言していた。 「もし敵に囲まれ、百日未満で降伏したら、家族を処刑する。
百日を超えても救援が来なければ、その責は私が負う」
ところが、陶璜に包囲された楊稷たちは、百日も待てずに食料が尽き、「もう無理です、降伏したいです」と懇願してきた。
陶璜はこれを突っぱね、食糧だけ与えて再び城を守らせた。
当然、周囲の将たちは驚いて止めに入るが、陶璜は平然とこう言った。
「霍弋はもうこの世におらん。期日まで待って降伏を受け入れれば、彼らは罪を逃れ、こちらは道理を得る。百姓には徳を示し、周辺国にも顔が立つ。それでいいじゃないか」
こうして楊稷らは百日後に降伏し、陶璜は「義を取る」形で城を収めることに成功する。
しかし、すべてが筋書き通りに進むわけではなかった。
降将となった毛炅が、なんと密かに陶璜を暗殺しようと画策していたのである。
事が発覚して捕らえられると、陶璜は怒りを抑えきれずに叫んだ。
「晋の賊が!」
毛炅も負けてはいない。「呉の犬め。どっちが賊だ!」
この捨て台詞に激怒したのが、かつて戦死した脩則の息子・脩允だった。
彼は毛炅の腹を裂いてとどめを刺したが、毛炅は死の間際まで叫び続けた。 「俺の志は孫皓を殺すことだ。お前の父は死んだ犬だ!」
どこまでいっても血まみれのこの時代、最後に残るのは理屈よりも、根っこの憎しみである。
その後、交趾郡城はついに陥落し、晋の置いた守将たちはすべて捕らえられた。
この報が伝わると、九真郡と日南郡も相次いで降伏し、長らく魏・晋の支配下にあった交州三郡は、すべて呉の手に戻ってきた。
地図に墨を塗り直すときの、あの快感があったかどうかは知らないが、陶璜はこの勝利によって、南方を一挙に平定したのである。
同年、建衡三年(271年)、この功績をたたえて孫皓は陶璜を交州刺史に任命した。
それは単なる地方官ではなく、軍事と行政を兼ねた南方支配の総責任者という重職であり、要するに「失敗すれば全部お前のせい」という職である。
陶璜はこの任を引き受けると、南方を長く支え続けていくことになる。
南方統治と新郡設置
交州刺史として任地に着いた陶璜は、まず安定から手をつけた。
武平・九徳・新昌あたりで騒ぎを起こしていた「夷獠」と呼ばれる諸族。
これを力で押し切る形で制圧すると、陶璜はこの地域に三つの新郡を設置し、九真属国にも三十余の県を新たに編成して、行政制度の再建を始めた。
平たく言えば「力で抑えつけてから、ちゃんと支配する」という実務型の戦後処理である。
彼のやり方は、軍功だけでなく民政面にも及んでいった。
交州の住民たちは、課税は適正で、交易も少しずつ回復し始めたと伝えられている。
この善政が都にも届き、孫皓は彼を中央に呼び戻して、武昌都督に転任させようとした。
だが数千人がぞろぞろと集まり、「お願いです、陶刺史を行かせないでください」と涙ながらに請願してきたのだ。
この時代、役人が転勤するのに民が泣いて止めるなんて話はめったにない。
というか、だいたいは歓送どころか「やっと出ていくのか」と喜ばれるのが常だった。
ここで無理に引き剝がせば、交州がまた崩れるのは目に見えているため、孫皓は彼をそのまま交州に留任させた。
呉の滅亡と涙の降伏
天紀三年(279年)、交州の北隣・広州で郭馬なる者が兵を挙げて、滕脩の援軍として討伐に向かうが、戦は長引き呉本土でそれどころではない事件が起こる。晋の呉征伐の大号令であった。
天紀四年(280年)、晋は破竹の勢いて杜預・王濬らの大艦隊が長江を滑るように下り、あっという間に三国最後の王朝・呉は消えた。
そのころ、陶璜はまだ交州にいたが、陶璜の息子・陶融を通じて送ってきた一通の親書だった。
内容は至って簡潔に「もう晋に従ったほうがいい」で、負けたボスからの最後の連絡である。
陶璜はこれを読んで、数日間も泣いたという。
涙の理由は、主君の降伏か、自らの無力か、それともここまで頑張ってきた日々の終焉か。
おそらく全部だろう。
誰よりも誠実に戦い、誰よりも現場にいた男の目から、それでも涙が流れる。
そして陶璜は洛陽へ使者を送り、自ら晋への降伏を申し出たのである。
晋武帝・司馬炎はこの行動に感じ入り、そのまま交州刺史に再任させ、冠軍将軍の加号と宛陵侯を封じている。
晋への建言と南方防衛の維持
陶璜は晋に降伏後も交州刺史として任地を守った。
天下が統一されると、晋武帝・司馬炎は兵力削減を検討し始める。
しかし陶璜は、交州は地理的にも遠く、反乱も多いため、兵を減らせば危険だと強く上奏した。
さらに合浦郡での真珠採取に関し、課税を緩めて商業を復興させるべきだとも提案している。
司馬炎はこの意見を受け入れ、交州の兵力は維持された。
陶璜は呉の元臣ながら、新たな政権の下でも辺境の安定に尽力し、実務官僚として南方の防衛と再建を支え続けた。
三十年に及ぶ統治とその最期
陶璜は呉と晋、二つの王朝に仕えて交州を治め、その任期は三十年という異例の長さに及んだ。
政治、軍事、産業、すべてに手を打ち、その影響は現地民だけでなく、周辺の異民族にまで及んでいた。
永熙元年(290年)、陶璜は交州の地で息を引き取る。
その報せが伝わると、州内の人々は涙を止められず、「慈しみ深き親を失ったかのようだ」と言い合ったという。
晋はその功績を称え、「烈侯」の諡号を贈っている。
その後、朝廷は吾彦を後任に据えたが、まもなく病死。
顧秘・顧參・顧壽らが交代で務めたのち、ようやく陶璜の子、陶威が蒼梧太守から昇任され、交州刺史の職に就いた。
陶威は父の遺志を継ぎ、民に寄り添う政治を行ったが、わずか三年でこの世を去る。
その後は弟の陶淑と、陶威の子・陶綏が交州を治めた。
これにより、陶基から陶璜、陶威、陶淑、陶綏に至るまで、陶家五人が四代にわたり交州刺史を務めたことになる。一族で一地域を治め続けるなど、そうそうあることではない。
中央で名を馳せたわけではないが、この南の果てで陶氏は「政権の骨格」となっていた。
戦を鎮め、税を立て、交易を開き、民を黙って守る。
陶璜の三十年は、誰に称えられるでもなく、南方という誰も見ていなかった土地を変えた三十年だった。
その遺風は死後も交州に息づき、陶氏は南方統治の名門として知られることになった。
参考文献
- 三國志 : 呉書三 : 孫皓傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 晋書 : 列傳第二十七 羅憲 滕脩 馬隆 胡奮 陶璜 吾彥 張光 趙誘 – 中國哲學書電子化計劃
- 資治通鑑/巻079 – 维基文库,自由的图书馆
- 参考URL:陶璜 – Wikipedia
陶璜のFAQ
陶璜の字(あざな)は?
陶璜の字は世英(せいえい)です。
陶璜はどんな人物?
陶璜は勇猛でありながら民を思う性格で、戦場でも冷静な判断を下す将でした。
特に交州では誠実な統治によって住民から厚く信頼されていました。
陶璜の最後はどうなった?
西晋の永熙元年(290年)に交州で死去しました。
死後、「烈侯」と諡され、地元の民が全州を挙げて号哭したと記録されています。
陶璜は誰に仕えた?
陶璜は初め呉の孫皓に仕え、のちに西晋の司馬炎(晋武帝)に仕えました。
陶璜にまつわるエピソードは?
夜襲によって晋将董元を撃破し、敵の勇将を離間策で除いた戦いが有名です。






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