董厥:黄皓と姜維を抑えられなかった蜀の最後の宰相【すぐわかる要約付き】

董厥

1分でわかる忙しい人のための董厥の紹介

董厥(とうけつ)、字は龔襲(きょうしゅう)、出身は義陽、生没年(?~?)
董厥は諸葛亮の下で実務に携わり、慎重な人物として高く評価された官僚である。
諸葛亮死後は尚書僕射から尚書令へ進み、蜀末期には諸葛瞻や樊建とともに政務を統括した。
一方で宦官黄皓が権勢を握り、姜維が外征を続ける中、朝廷は混乱し、董厥らもこれを抑えることができなかった。
炎興元年(263年)に魏軍が侵攻すると、董厥は張翼や廖化とともに迎撃を命じられ、蜀滅亡後は洛陽に移され晋朝の官職に就いた。

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董厥の生涯を徹底解説!諸葛亮に評価されたが、黄皓専権を止められず、滅亡への流れを止められなかった宰相

諸葛亮の下で評価された董厥と、陳祗までの歩み

董厥は丞相であった諸葛亮のもとで府令史を務めていた。
諸葛亮は董厥について「董令史は良士である。わたしが毎回彼と語ると、思慮深く慎重で、ふさわしい態度を備えている」と評し、その資質を高く評価していた。
この後、董厥は主簿へと移され、着実に職務を進めていった。

諸葛亮が亡くなると、董厥は尚書僕射へ昇進した。
景耀二年(259年)に陳祗が亡くなると、後任として尚書令に任じられ、諸葛亮時代の実務官僚から、蜀朝の中心に位置する官僚へと歩みを進めたのである。

大将軍・平尚書事としての政務と、黄皓台頭の中での苦闘

景耀四年(261年)、董厥が輔国大将軍・平尚書事に昇進し、樊建はその後を受けて尚書令に任じられた。諸葛瞻は都護衛将軍に任じられている。
名目上は、諸葛瞻・董厥・樊建の三名が末期政権の中枢を担っていた。だが実際には、姜維は戦場に出たまま、都では宦官の黄皓が権勢を振るい、内と外で政権の骨がばらばらになっていた。
三名が協力しても、黄皓の専横を抑えることは叶わなかった。

孫盛の『異同記』によれば、諸葛瞻・董厥らは「姜維は戦ばかりして成果なく、国を疲弊させている」として、後主に上奏し、益州刺史として召還し兵権を奪うよう訴えたという。

魏の侵攻と蜀滅亡、そして董厥の最期の官歴

景耀六年(263年)夏、鄧艾鍾会、諸葛緒が複数の方面から同時に蜀へ侵攻すると、董厥・張翼・廖化が迎撃にあたり、姜維軍と合流して陰平(沓中)を放棄し、剣閣に退いた。
この山岳要塞を前にして、魏の鍾会も攻めあぐね、戦の大勢は傾きつつも、最後の防衛線で踏みとどまっていた。

しかし、鄧艾が別動隊で山岳ルートで江由に迫り、守将の馬邈はすぐさま降伏した。 綿竹で諸葛瞻、諸葛尚親子が迎撃に出たが大敗し戦死する。
ここで、戦線を立て直すことはできず、蜀はついに滅亡し、姜維・張翼・董厥は鍾会に降伏した。

蜀が滅びた翌年の咸熙元年(264年)、劉禅は洛陽への移送を命じられた。
この時、董厥・郤正・張通・廖化・宗預・樊建・張紹らとともに従い、洛陽へ赴いた。晋では相国参軍、散騎常侍に任じられ、元・蜀臣たちを慰撫する役割を担うこととなった。

しかし、蜀滅亡後の列侯封爵に名がないことから、廖化や宗預と同じく、洛陽移送中の咸熙元年(264年)頃に亡くなった可能性が高い。

参考文献

董厥のFAQ

董厥の字(あざな)は?

董厥の字は龔襲(きょうしゅう)です。

董厥はどんな人物?

董厥は慎重な実務家であり、諸葛亮からも評価された官僚です。

董厥の最後はどうなった?

蜀滅亡後、洛陽へ移され相国参軍や散騎常侍を務めました。没年は不明です。

董厥は誰に仕えた?

蜀漢の劉備、劉禅に仕え、滅亡後は晋に仕えました。

董厥にまつわるエピソードは?

姜維は戦ばかりして成果なく、国を疲弊させていると姜維の兵権を奪おうとしました。

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