1分でわかる忙しい人のための滕胤の紹介
滕胤(とういん)、字は承嗣(しょうし)、出身は北海郡劇県、生没年(?~256年11月8日)
滕胤は、後漢末から三国時代にかけて呉で活躍した重臣であり、孫権・孫亮・孫峻・孫綝といった歴代の為政者たちに仕えた人物である。
彼の娘は諸葛恪の子に嫁ぎ、もう一人の娘婿も呉景の孫という名門との繋がりを持つ家系でもあった。
容姿端麗で若くして出世し、民政にも長けていた。孫権からの信任もあつく、孫権の遺言で諸葛恪と共に政治を任された。諸葛恪の死後は孫峻・孫綝との政権闘争に敗れ、三族皆殺しという壮絶な結末を迎える。
滕胤を徹底解説!皇族との縁戚で地位を固めた名臣の生涯
滕胤とは?節操と容姿で人望を集めたエリート官吏
滕胤の父・滕冑と伯父・滕耽は、後漢末の動乱を生き抜き、江南に南渡した後に孫権に仕えてその才を認められた。しかし、両名とも早世してしまい、孫権はその恩を忘れず、滕胤を都亭侯に封じた。
この人物、若くして「少有節操,美容儀」、つまり立派な節度を持ち、見た目も麗しいという、現代でいえば東大出のイケメン公務員みたいな評価を受けていた。しかも弱冠で公主と結婚、のちには孫奐の娘を娶るなど、皇族との縁戚関係も盤石だった。
30歳のときには丹楊太守に任命され、その後も呉郡・会稽という重要な地方を歴任。訴訟を捌くときは相手の表情や態度を読み取り、判決は筋が通っており、公正であったため「冤罪あれば滕胤のところへ」とまで言われるほどの評判だった。
孫権の信任:太常・輔政へと進む道
太元元年(251年)、孫権が病に倒れると、滕胤は建業に呼ばれ太常に任じられた。
翌年、孫権が崩じて、孫亮が即位すると滕胤は衛将軍に任命され、滕胤は諸葛恪・孫弘らと共に政務を担った。遺言通り若い孫亮を支える役目であり、いわば「新しい時代の保護者」として舞台に立たされたのである。
ただし実際の政務は諸葛恪の専権に傾いていた。諸葛恪の魏討伐に反対しても聞き入れられず、結局は都下督として国内統治を任される。昼夜を分かたず職務に励み、休む間もない働きぶりであった。
諸葛恪失脚後の孫峻の関係
建興二年(253年)、孫峻は諸葛恪を刺殺し、自ら政権を掌握した。
群臣は孫峻を太尉に、滕胤を司徒に推挙したが、孫峻派の反対で宙に浮き、孫峻が丞相に昇進したものの、御史大夫は空席のままだった。
士大夫層は期待を裏切られ、失望だけが空気を支配した。
滕胤は「うちの娘が諸葛恪の息子に嫁いでるし…」と、自身の娘が諸葛恪の子・諸葛竦に嫁がせていたことを理由に辞職を願い出た。しかし孫峻は引き留め、高密侯に封じることで懐柔を図った。
両者は水と油。裏では舌打ちしながら、表では「まあまあ」と笑顔で握手を交わし続けた。
孫綝の専横と滕胤の最期
五鳳三年(256年)、孫峻が魏征伐の陣中で急死して、その後を従弟の孫綝が継ぐ。
呂拠(呂據)らが政変を恐れ、滕胤を丞相に推薦するも孫綝は拒否し、代わりに大司馬として、亡くなった呂岱の後任として武昌を守らせた。
しかし、三公の一つの大司馬とはいえ、明らかに中央から遠ざける左遷であった。
その後、呂拠は滕胤に密使を送り、孫綝打倒の計画を持ちかけた。
だが先手を打たれ、孫綝は呂拠を攻撃する一方で、侍中・左将軍の華融と中書丞の丁晏を滕胤のもとに派遣した。
滕胤はこれを見て自衛のため兵を集め、典軍の楊崇と羽林督の孫咨に「孫綝は反乱を起こした」と訴え、華融らに孫綝を非難する文書を書かせようとしたが、断られて彼らを殺害してしまう。
孫綝は滕胤が反乱を起こしたと上奏し、滕胤を攻めるよう将軍の劉丞に命じる。
滕胤は呂拠の援軍を信じて、落ち着いた態度を崩さなかったが、援軍は到着せず、孫綝軍の攻撃を受けて滕胤は討たれた。三族も誅滅され、一族は滅亡した。
ただ一人、滕胤の娘婿である孫壹は妻とともに魏へ亡命し、もう一人の娘婿である呉景の孫・呉纂は逃げきれず処刑された。
滕胤の死は、政争における一個人の無力さと、連座する者たちの過酷な運命を象徴している。
参考文献
- 参考URL:滕胤 – Wikipedia
- 三國志・呉書十九・滕胤傳 中國哲學書電子化計劃
- 三國志・呉書三・孫亮伝 中國哲學書電子化計劃
- 三國志・呉書十九・孫峻伝 中國哲學書電子化計劃
- 三國志・呉書十九・孫綝伝 中國哲學書電子化計劃
- 資治通鑑
FAQ
滕胤の字(あざな)は?
滕胤の字は承嗣(しょうし)です。
滕胤はどんな人物?
滕胤は後漢末から呉に仕えた重臣で、誠実で民思いな行政官でした。
滕胤の最後はどうなった?
西暦256年、孫綝との政争に敗れ、兵を挙げるも味方の援軍が来ず殺され、三族皆殺しとなりました。
滕胤は誰に仕えた?
主に孫権、孫亮、そして孫峻・孫綝ら呉の後継者たちに仕えました。
滕胤にまつわるエピソードは?
彼が訴訟を裁く際には、相手の表情や態度から真実を見抜くと評され、民から信頼を集めました。
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