董允:劉禅を諫め黄皓を封じた蜀政を守る最後の良臣【すぐわかる要約付き】

董允

1分でわかる忙しい人のための董允(とういん)の紹介

董允(とういん)、字は休昭(きゅうしょう)、出身は益州巴郡江州、生没年(?~246年)

董允は蜀の重臣・董和の子として生まれ、父と共に益州で劉璋から劉備へと主君を変えながらも、その信任を受け続けた家系に属していた。
劉備が太子劉禅を立てた際に太子舍人・洗馬として太子に近侍し、劉禅即位後の建興元年(223年)には黄門侍郎となって宮中の政務を担う立場に進んだ。

建興五年(227年)、諸葛亮が北伐に際して上奏した出師表で、郭攸之・費禕と共に「宮中のことをすべて諮るべき者」と名指しされ、侍中・虎賁中郎將として宿衛の兵を統率する重任を負った。

延熙年間に入ると輔国将軍・侍中守尚書令となり、大将軍費禕の副として朝政を支えつつ、皇帝劉禅に対して后妃の増員をいさめ、宦官黄皓の専権を抑え続けた。
延熙九年(246年)に没すると、黄皓が台頭し、のちに蜀の国政は大きく傾くことになった。

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董允の生涯を徹底解説!諸葛亮死後の蜀を支え劉禅を補佐し黄皓専横を抑えた重臣の実像

出自と劉禅の側近

董允の一族は、もともと益州巴郡江州の出身である。荊州南郡枝江にいた父の董和が家族を率いて再び益州に戻った。董和は劉璋に仕え、その後劉備が益州を掌握した際にも引き続き信任を受ける。

章武元年(221年)、劉備が太子として劉禅を立てた際、董允は太子舍人として抜擢され、その後、董允は洗馬に転任した。

建興元年(223年)、劉禅が後主として即位すると、董允は黄門侍郎に昇進した。黄門侍郎は皇帝の近侍として宮中の政務に関わる重要な官職であり、董允は太子期から続く近侍としての地位を、そのまま後主政権の中心へと持ち込むことになった。

諸葛亮北伐期の重用と出師表での言及

建興五年(227年)、諸葛亮が漢中へと出陣し、北伐に乗り出す。長期間、都を空ける以上、劉禅を誰が支えるのかは極めて重大な問題であった。まだ政治経験が浅く、華美なものに目移りし兼ねない若き皇帝には、口うるさいほどの補佐役が必要だった。

このため諸葛亮は、あの有名な『出師の表』の中で、こう言った。
「郭攸之、費禕、董允の三人こそ、先帝が命を賭けて選び、陛下に託した者です。考える力、筋を通す覚悟、そして面倒くさがらずに忠言できる胆力もあります。何かあれば、大小問わず、まず彼らに相談して下さい。 もし彼らから徳を興す言葉(正しい諫言)が出ないようであれば、彼らを処刑して、その怠慢を示されたい。」

この上疏によって、董允は侍中に昇進し、さらに虎賁中郎将も兼任。後主の近衛兵まで預かることになった。
「失言じゃなくて無言で処刑対象」というプレッシャーの中、諸葛亮が成都を離れて軍務を執り行う間、宮中の政務は董允が統率することでバランスが保たれ続けた。
名誉と命の危機がセットで届く、それが出師の表の洗礼だった。

劉禅への諫言と后妃増員の制止

劉禅が即位して年月が経つと、「後宮に美女をどんどん増やしたい」という欲望が芽生え、美しい女性を選び集めて後宮に入れようしたのである。これに対して董允は、「古い時代には、天子の后妃の数は十二人を超えなかった。今はすでに妃や女官はそろっているのだから、これ以上増やすべきではない」と進み出て諫めた。

劉禅はこの諫言を最後まで受け入れることはなく、董允の意見に従って后妃の増員をやめることはなかった。 黙っていたら処刑されかねない董允はあきらめず、後宮の増設に繰り返し反対し続けた。

結果、後主は次第に董允の存在を恐れ敬うようになり、軽々しく欲望のままに振る舞うことを控えるようになっていった。

蔣琬の上疏と爵位辞退

諸葛亮が亡くなった後、政権の舵取りを担うようになった蔣琬は、董允の存在を宮中の屋台骨と見なしていた。あるとき蔣琬は、尚書令と益州刺史の立場から劉禅に上疏を行う。
「費禕と董允の二人にはそろそろ報いても良いのではないでしょうか。董允は長きにわたり宮中を支え、王室の礎となってきました。その働きに見合った爵位と土地を賜り、功を明らかにしていただきたい」

ごもっともな意見である。しかし、肝心の董允が固辞し、これを受け入れなかった。
この反応には、蔣琬も少し困ったに違いない。董允の真価は、名誉や俸禄よりも、秩序と誠実にこだわるところにあった。

黄皓の専権を抑え込む宮中統制

劉禅が年を重ねるにつれ、宮中に黄皓という新たな影が差す。彼はへらへらと笑っては取り入る術に長け、どうにかして自分の権勢を築こうと目論む宦官である。

しかし、その前に一人だけ、彼にとって越えられぬ壁が立ちはだかっていた。もちろん董允である。 上には厳しく主君を諫め、下には何度も黄皓を叱責する。
そのため黄皓は、董允の生きているあいだ、猫のように大人しくしていた。官位も黄門丞のまま、昇進の階段は封鎖されたままだった。

董允という名の防波堤がある限り、宮中の腐敗は水際で食い止められていた。黄皓も、己の才覚だけではどうにもならない相手がいることを、日々思い知らされていたに違いない。

董恢の逸話で見せた礼賢の姿勢

董允の人柄を語るうえで、外せない逸話がある。
ある日、彼は尚書令・費禕と中典軍・胡濟と共に、気の合う仲間との遊宴へ出かける予定で、馬車の準備もすでに整っていた。

そんな時に襄陽出身の若手官僚、董恢が挨拶に現れた。彼は年若く、地位もまだ低かった。外出の空気を読んだ董恢は、すぐさま「これはご迷惑かと」と引き返そうとする。

ところが、ここで董允が止める。
「いやいや、今日の外出の目的は『同じ志を持つ者と語らう』ことだった。であれば、今、君がここに来た時点で目的達成だ。宴会?そんなの後回しでいい」

董允は馬を下がらせ、外出を中止して、費禕も胡濟も外出を取りやめた。
つまり、若者一人の誠意と志を重んじた結果、大物三人の予定が全キャンセルされたのである。

父・董和が課した小さな試練と、費禕との大きな差

名士・許靖の子の葬儀が行われた際、董允と費禕は連れ立って参列することとなった。
出立にあたり、董允は父・董和に車の貸与を願い出たが、用意されたのは質素な車であった。

董允は場にそぐわぬ外見を前にして、乗車をためらった。
一方の費禕は、何事もないようにその車に乗り込んだ。用の足りる車であれば、それで十分とばかりに、態度には一切の動揺がなかった。

会場に到着すると、諸葛亮をはじめとする高官たちが、きらびやかな馬車を連ねていた。董和の旧車はその中でひときわ目立ち、董允は終始所在なげな様子で過ごしたが、費禕の表情には一点の陰りもなかった。

葬儀を終えた後、従者がこの様子を董和に報告した。話を聞き終えた父は、やがて静かにこう言い放った。
「私はこれまで、お前と文偉(費禕)のどちらが優れているか判断できなかった。だが今、はっきりと分かった」

立派な車があったわけでも、難しい判断を迫られたわけでもない。ただそこにあったのは、小さな試練と、その時の素の反応である。
だが、些細な場面こそ、人の本性が問われる。

このとき董允は、自分が何に揺れ、何に縛られているかを、父の言葉ではじめて痛感したに違いない。

費禕の政務処理能力との自己比較

尚書令・費禕は蜀の官僚界における「できる人」の代名詞である。
当時の蜀は軍務と国政が絶え間なく押し寄せ、書類の山は日々高く積み上がっていたが、費禕はそれを苦にせず、スラスラと処理していく。文書を一度見るだけで要点を把握し、誤読もなければ読み漏らしもない。しかも速い。

仕事は朝と夕方にさっと片付け、その合間には賓客と談笑し、食事も楽しみ、囲碁まで打つ。まさに「効率と余裕の化身」である。しかも政務には一切の遅れはなかった。

のちに董允が費禕の後を受けて尚書令となった。
董允は費禕と同じように、政務と雑事を同時にこなす生活を試みた。しかし十日ほど経つと、公務が滞りはじめたため続行を断念した。

そしてつぶやいた言葉が、いかにも董允らしい。
「人の才能と気力の差というのは、ここまで開くものなのか。自分ではどうにも届かぬ世界がある。私は一日中机に向かっても、まだ時間が足りない」

この言葉には、素直に才能の違いを認める潔さがあった。

晩年と董允の死後

延熙六年(243年)、董允は輔国将軍に任じられた。後宮を律し、宦官の跳梁を防ぎつつ、なお政務の一翼も担い続けた。

翌年には、侍中のまま尚書令も兼ね、大将軍・費禕の補佐役として政務を支え、宮中と朝廷、両方の均衡を保ち続けた。

だが、延熙九年(246年)、董允は病に倒れ、そのまま世を去った。蜀にとって、それは一本の柱が抜け落ちる音だった。

彼の死後、侍中の職は陳祗へと引き継がれるが、彼は黄皓と手を組んでしまった。
黄皓は、董允が生前に常に監視し、決して好きにさせなかった宦官である。だが、董允という防波堤が崩れると、黄皓は一気に宮中へと流れ込んだ。

陳祗が死ぬと、黄皓は中常侍・奉車騎都尉となり、ついには国政をも左右するようになる。蜀の中枢は宦官の笑みによって濁っていった。

そして蜀が滅んだとき、鄧艾は黄皓の奸計を聞きつけ、処刑を命じた。だが、黄皓は鄧艾の部下に賄賂を渡し、生き延びたと記されている。ここでもまた、悪役は都合よく抜け穴を見つけてしまったのだ。

蜀の人々は、董允が生前に黄皓の専権を抑えていたことを思い起こし、その死を惜しんだと伝えられている。

董允の評価

『三国志』の陳寿は「董允は主君を正し、その正義は容貌にもにじんでいた。蜀のすぐれた臣の一人である」と記し、明確に良臣として位置づけている。

また裴松之は『三国志』注で、次のように述べている。
陳泰(陳羣の子)、陸抗陸遜の子)らは、いずれも父に連ねて伝を記されている。王肅、杜恕、張承、顧劭なども同様だ。しかし董允だけは例外で、父・董和と別々に記伝されている。明確な理由は不明だが、おそらくは名声と地位において父を凌いでいたためであろう」

この指摘は、董允がただの名家の後継ではなく、自らの力量と評価によって、史書においても「個」として認識された存在であったことを示している。
※宗族を除けば、別伝があるのは鍾会鍾繇の子)、諸葛恪諸葛瑾の子)、朱然(朱治の養子)くらい。

また『華陽国志』には、諸葛亮・蔣琬・費禕・董允の四人を「四相」あるいは「四英」と呼んだという記録もある。
宰相としての任務を、政権の連鎖の中で順に担ってきた者たち。董允はその一角を占める存在と見なされていた。

とりわけ、諸葛亮亡き後の蜀において、董允はただ政務を処理するだけの官僚ではなかった。宮中の秩序を守り、宦官の専横を封じ、君主の欲望にすら歯止めをかける。彼が守っていたのは、国家の形そのものだった。

参考文献

董允のFAQ

董允の字(あざな)は?

董允の字は休昭(きゅうしょう)です。

董允はどんな人物?

董允は、公正な心を持ち、主君を正しく導く姿勢がはっきりと外見にも現れていた人物と評されています。

董允の最後はどうなった?

延熙九年(246年)に亡くなりました。その死後、黄皓が台頭して蜀の政治は大きく乱れていきます。

董允は誰に仕えた?

蜀の劉備、劉禅に仕えました。

董允にまつわるエピソードは?

また、費禕の多忙な生活ぶりをまねてみたものの十日で公務が滞り、自分と費禕の能力差を認めて嘆いたという逸話も伝えられています。

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