1分でわかる忙しい人のための董卓の紹介
董卓(とうたく)、字は仲穎(ちゅうえい)、出身は涼州隴西臨洮、生没年(?〜192年)
後漢末期に活躍した軍人・政治家で、羌族との戦いで名を上げた猛将。
若くして羌胡の地を遊歴し、軍務に就くとその勇猛さと戦略眼で数々の武功を挙げた。
黄巾の乱では敗れて失脚するが、その後再起する。
何進の命により洛陽へ進軍するも、何進が宦官に暗殺された混乱に乗じて政権を掌握した。 少帝を廃し、劉協(後の献帝)を擁立、自らは太尉・相国となる。
専横を極め、洛陽を焼き払い長安へ遷都、宮廷儀礼を無視して天子をないがしろにし、各地の反感を買った。 ついには王允と呂布の計略により暗殺され、遺体は晒し者にされた。 死後もその部下が朝廷を混乱させ、董卓の暴政は後の三国時代の混乱の引き金ともなった。
史家からは「漢を傾けた逆賊」として酷評されている。
董卓を徹底解説!漢王朝を焼き尽くした独裁者の生涯
初期の董卓の登場と一時の失脚
董卓は豫州頴川郡に生まれる。まだ「悪の大ボス」として名を馳せる前は、腕っぷしはケタ外れで、馬上で両手に弓を持ち矢を放てるほどの武芸を身につけていた。
青年期には羌族や胡族が暮らす辺境を旅し、地元の豪傑たちと親交を結んでいた。
農業に従事していた頃には、客人が来れば自らの耕牛を屠って宴を開くという気前の良さも見せていた。
つまり、いいヤツだったのだ、最初は。
その非凡さは隴西太守の目に留まり、郡兵馬掾に任ぜられて塞外を巡察した。
続いて涼州刺史・成就のもとで従事となり、軍馬を率いて胡族討伐の指揮を執ることになる。
漢桓帝の末年には禁軍羽林郎に任じられ、護匈奴中郎将・張奐の配下として漢陽の羌軍討伐に参加。
董卓は勇猛でありながら謀略にも長けており、数度の戦闘で1万人以上の敵兵を討ち取り、羌軍の将帥を自ら斬首するという武功を挙げた。
その戦功により郎中に昇進し、絹9,000匹の恩賞を得るが、彼はそれを全部部下たちに分け与える。後の暴君っぷりからは信じがたいが、初期の董卓は義に厚かったのだ。 広武令、蜀郡北部都尉、西域戊己校尉などを歴任したが、罪を犯して一時失脚する。
それでも并州刺史・段熲の推薦を得て司徒・袁隗の配下として再起を果たし、并州刺史、河東太守を歴任。
中平元年(184年)には中郎将に任じられ、黄巾軍討伐に従軍するも敗れ、いったんは免職されている。 この辺りまでは「勝てば官軍、負ければ無職」を繰り返し、まだ彼の暴走スイッチは入っていない。
羌との戦争で名を馳せた戦歴
涼州で韓遂・辺章が羌族の兵を率いて反乱を起こすと、董卓は再び中郎将として軍を率い、破虜将軍の張温と共に討伐に出る。
この時、流星が夜空を裂き、羌軍の士気がだだ下がり。そこを逃さず、董卓は果敢に攻撃を仕掛け、数千人を斬る戦果を挙げた。
だが本番はここから。董卓軍、数万の羌胡軍に包囲される大ピンチに直面する。補給も断たれ、兵たちは飢えにあえぐ。
そこで、董卓はあえて「魚を捕る」と偽り、渡河地点に堰塞湖を作り、十分に水を貯めたところで、堤の下のルートを通って秘密裏に撤退。そして最後に堰を決壊させて川を増水させ、追ってくる羌胡軍を水の壁で足止めさせ、追撃を断念させた。
この戦で出征した漢軍6軍のうち、5軍が敗北した中、董卓の軍だけが無傷で帰還しており、指揮官としての評価を一気に高める結果となった。
その功績により董卓は陝西扶風に駐屯し、斄郷侯(雍州武功)に封じられ、1000戸を領した。
中平五年(188年)には、再び韓遂らが侵攻してきたため、前将軍・斄郷侯として左将軍・皇甫嵩とともにこれを撃破。
さらに翌中平六年(189年)には、中央から少府に任命されたが、董卓は入京を拒み、代わりに并州牧の地位を与えられている。
上洛と少帝廃立で権力を掌握
中平六年(189年)、政争と陰謀が渦巻く中、大将軍何進は宦官勢力を排除しようと画策し、その軍事力の後ろ盾として董卓に洛陽へ呼び寄せる。 当時董卓は河東郡に駐屯しており、命令を受けて澠池まで進軍したが、朝廷から派遣された劭種から撤収命令を受ける。この命令に不信感を抱きつつも、劭種の説得により夕陽亭に退く。
ところがその頃、何進は宦官によって殺害され、洛陽の政情は大混乱に陥っていた。董卓は「チャンスきたわ」とばかりに引き返し、少帝劉辯と陳留王劉協を保護するという名目で軍勢を洛陽に進めた。初入洛の際は僅か三千の兵しかいなかったが、毎晩兵を城外に出して、翌朝に再び大々的に入城させるという策略を用い、「董卓軍=無限兵士」伝説を作り出し諸侯を威圧した。
その後、董卓は弟の董旻に命じて呉匡と共に何苗を殺害し、また呂布を取り込んで丁原を殺害させ、気づけば洛陽で最大の武装勢力となっていた。こうして軍事的な優位を固めた董卓は、少帝劉辯を廃して弘農王とし、新たに陳留王劉協を擁立して即位させた。これが漢献帝で傀儡政権の始まりであった。 ついでに何太后をも殺害し、自らの権力を確固たるものとした。
自らを太尉・相国に任命し暴政を敷く
董卓は政権を掌握すると、自らを太尉に任命し、さらに前将軍、相国へと次々に昇進させた。これにより行政と軍事の実権を独占し、さらに封邑を万戸に拡大。母親は池陽君の尊号を得て、家族ぐるみで権力の絶頂へ上り詰める。
朝政は董卓の邸宅で行われ、尚書以下の官吏は皇帝を経由せず、直接董卓の屋敷で政務を執るようになった。彼の専横は甚だしく、意見の対立があればその場で官僚を殺害するなど、朝野の不満と恐怖を引き起こした。
また、漢の過去の皇帝たちに対する敬称を剥奪するなど、歴史的な正統性の改変も行った。漢和帝、漢安帝、漢順帝、漢桓帝の廟号を廃し、恭怀皇后、敬隐皇后、恭愍皇后らの尊号も取り消された。
一方で、過去に党錮の禁に遭った名士たちの名誉を回復させ、荀爽や蔡邕らを起用するなど、知識人層を取り込む政策を行っている。
洛陽焼失と長安への遷都
初平元年(190年)、関東諸侯が董卓討伐の兵を挙げると、董卓は対抗手段として首都の遷都を決断した。1月17日、洛陽から長安への遷都を実行に移す。
董卓の軍は洛陽の宮殿、宗廟、官府、さらには民家に至るまでことごとく焼き払った。さらに陵墓を掘り起こし、略奪と破壊を繰り広げた。都城は完全に灰燼と化し、文化・歴史の象徴である洛陽は壊滅的な打撃を受けた。
この暴挙により、董卓への民心の反発は一層高まり、彼の専制政治に対する怒りは全国に波及することとなった。長安遷都は戦略的判断であったものの、その過程で行われた徹底的な破壊行為は、董卓を「史上最大の暴君」として歴史書に刻みつける決定打となる。
呂布の裏切りで命を落とす
長安に遷都した後も、董卓は政治の実権を完全に掌握していたが、このような専横に対して、朝廷内には強い不満が広がっていく。司徒の王允は密かに謀を巡らせ、董卓と呂布の関係が義父子に過ぎず、また呂布が過去に董卓からの叱責を受けていたことなどを利用し、反間の計を用いて彼を離反させた。王允の口から滴る甘言により、信頼厚い養子である呂布を取り込むことに成功する
初平3年(192年)、油断しきった朝に、まさかの我が子の手で首を刎ねられる。記録によれば、董卓はその巨体ゆえに殺害後に晒された際、臍に灯芯を差し込まれ、脂肪を燃料にして数日間燃え続けたという。 「デブすげえな…」と見物人が呟いたかどうかは分からないが、暴政の象徴として人々に強烈な印象を残した。
死後も続いた董卓の影響
董卓の死後、彼の配下であった李傕と郭汜が主導権を巡って争い、長安は再び混乱に陥る。二人は兵を率いて宮中に乱入し、王允を殺害して朝廷を掌握。献帝を擁するも、両者の対立は激化し、政局は安定を欠いたままとなる。
董卓の遺体は一度は野晒しにされたものの、その後李傕らによって収拾され、改めて葬られることとなった。しかし、その埋葬の日には雷鳴とともに激しい風雨が襲い、棺が水に浮かぶという異変が発生した。これは董卓の死後に至っても、その悪政に対する天の怒りと解釈された。
董卓は後世においても徹底的に批判されている。王允や孫堅、曹操ら多くの同時代人や後代の歴史家が「暴虐無道」「漢室を覆した賊臣」と糾弾している。後漢書や三国志の作者陳寿は「狼戾賊忍、暴虐不仁」と断罪し、彼の名は、悪逆の代名詞として千年を超えて語り継がれている。
だが一方で、董卓の登場なくして三国志は始まらなかったという見方もできる。その存在は、後漢の崩壊と乱世の幕開けを象徴しており、混沌の時代を語るうえで欠かせない存在であることに疑いはない。
参考文献
- 参考URL:董卓 – Wikipedia
- 《後漢書・董卓列伝》
- 《三国志·魏書·董二袁劉傳》
- 《資治通鑑·漢紀五十一、五十二》
FAQ
董卓の字(あざな)は?
董卓の字は仲穎(ちゅうえい)です。
董卓はどんな人物?
若いころの董卓は、勇猛さと気前の良さを併せ持つ人物でした。しかし官職を重ねていくうちに、野心と猜疑心が増し、後年には暴虐な独裁者へと変貌していきました。
董卓は東漢末期の武将で、羌との戦争や政治混乱の中で頭角を現した人物です。
董卓の最後はどうなった?
192年に呂布と王允の謀略により殺害されました。
董卓は誰に仕えた?
主に漢献帝に仕えましたが、実質的には朝廷を牛耳っていました。
董卓にまつわるエピソードは?
彼の遺体はさらされ、腹に灯芯を差されて灯として使われたという逸話があります。
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