【1分でわかる】丁固:二宮の変を生き抜き孫皓廃立を謀った呉の重臣【徹底解説】

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1分でわかる忙しい人のための丁固(ていこ)の紹介

丁固(ていこ)、字は子賤(しせん)、出身は会稽山陰、生没年(198~273年)

孫呉後期の政治家であり、尚書・廷尉・左御史大夫を歴任し、最終的には司徒にまで昇進した重臣である。
幼少期に父を亡くし、母とともに貧しいながらも誠実に暮らし、親族の孤児を助けるなど篤実な人柄で知られた。
孫権政権に仕え、二宮の争いでは太子孫和を支持し、政治的信念を貫いた。
太平二年(257年)には会稽南部や鄱陽などの反乱鎮圧にあたり、永安五年(262年)には左御史大夫に任じられ、名を「丁密」から「丁固」に改めた。
甘露元年(265年)には孫皓の命で建業を守り、翌年には山賊施旦の乱を鎮圧する功を挙げた。
さらに陸凱・丁奉らとともに孫皓を廃して孫休の子を立てようとしたが、留平の反対により計画は頓挫する。
宝鼎三年(268年)に司徒に昇進し、鳳凰二年(273年)に没する。
幼少時に闞澤が「将来必ず三公に至る」と予言し、また自ら「松が腹に生える夢」を見て十八年後に司徒となったことは有名である。
その学徳は虞翻に「令徳の後、嘉なるかな」と称えられ、陸機も「股肱猶良」と高く評価した人物であった。

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※時代によって名前が変わるので、丁固で統一します。

丁固()を徹底解説!孫皓廃立を企てても三公へ昇り詰めた呉末の忠臣と「松の夢」

少年期と家族への孝養

丁固(丁密)は会稽山陰で生まれ、父は後漢末の始豊令であった丁覧である。
幼いころに父を亡くし、母と二人で暮らした。生活は貧しかったが、礼節を守り慎ましく暮らした。
母への孝養を厚くし、常に恭順を尽くした。また、孤児となった族弟を同じ家で育て、寒さや飢えを分け合ったと《會稽典錄》に記されている。

「二宮の変」での太子・孫和を支持

孫権の晩年、赤烏年間(240年頃)に丁固は尚書に任命された。 赤烏四年(241年)、太子であった孫登が病死すると、代わって三男・孫和が太子に、その弟の孫覇は魯王に封じられた。

ここで問題が勃発し、血で血を洗う「二宮の変」において、丁固は明確に太子派に与した。
顔ぶれを見れば、陸遜諸葛恪顧譚朱拠(朱據)・滕胤・施績と、正統派のガチメンバー。
丁固はこの「太子を正統とす」派閥の一員として、孫和の側に立った。 忠義か、政略か?その答えは、まだ血の乾かぬ先にあった。

とはいえ、丁密個人として何か大きく動いたわけではない。
その名が歴史の表舞台に刻まれることもなく、記録は次の章へと流れていく。

南方諸郡の反乱鎮圧

太平二年(257年)八月、呉の各地で一斉に叛乱が発生する。 まず会稽南部では都尉を殺害し、続いて鄱陽・新都でも民が暴徒化する局地的な内乱状態となった。
この非常事態に、呉朝廷は将軍・鍾離牧を監軍使者に任命し、廷尉の丁固、そして歩兵校尉の鄭冑を討伐軍として派遣する。 戦果は伝わっていないが、その後も出世しているので、それなりの成果はあったと思われる。

左御史大夫任命と丁固への改名

永安五年(262年)冬、孫休は廷尉だった丁固を左御史大夫に昇格させ、右御史大夫には孟仁が任命される。 左右揃った御史大夫、その一角に丁固が座ることになった。

その後、思わぬ事情で名を改めることになる。
孫休崩御ののち、帝位についた孫皓は、滕皇后を正室に迎える。
その父の名は滕密で、当時の名前の丁密と音が同じだった。 朝廷の風習として、皇族の名前に音がかぶるのはNG。避諱ルール発動である。

こうして丁密は「丁固」と名を変えた。ついでに滕密も滕牧と名前を改めている。 外戚と重臣の改名という、ある意味では地味な一大事であった。 その時期は、永安五年(264年)から甘露元年(265年)の間と見られている。 時の流れと、王朝の移り変わりが、ひとりの名をも変えていったのである。

武昌遷都と建業防衛戦

甘露元年(265年)九月、孫皓は西陵督・歩闡の上表を受け、都を武昌へ遷す決断を下す。 だが、すぐに都を空にするわけにはいかない。 その鎮守を任されたのが、左御史大夫・丁固と右将軍・諸葛靚のふたりである。

だが翌年、思わぬ火種が起きる。 宝鼎元年(266年)冬十月、永安で施旦なる山賊が数千の兵を率い、反旗を翻した。 孫皓の異母弟・永安侯孫謙を連れ去り、反乱の旗頭として担ぎ上げた。 しかもこの一団、ただの野盗では終わらなかった。 孫和の陵墓から鼓吹隊の楽器や飾り蓋を略奪し、「正統」の装いすら身にまとって進軍した。 その勢いに呼応する者も増え、建業に迫るころには一万を超す軍勢となっていた。

対する丁固と諸葛靚は、建業郊外の牛屯で迎撃し、激戦の末、施旦の軍勢は潰走。孫謙は捕縛され、やがて自ら命を絶ったという。

孫皓廃立計画と三公昇進

宝鼎元年(266年)十二月、陸凱は大司馬の丁奉、御史大夫の丁固と共に、孫皓を廃し、孫休の子を立てようとする計画を立てたとされる。
ちょうど孫皓が廟を参拝する機会に合わせ、政変を起こすつもりだったが、計画を知らされた左将軍の留平がこれを拒否し、口外しないことを誓ったため、実行には至らなかった。

事件後も丁固は罰せられることなく重職に留まり、寶鼎三年(268年)春二月には司徒に任命された。
同時に孟仁が司空に就任している。
この人事により、丁固は三公の一人として呉の最高政務機構に加わった。

予言の成就と七十六歳の死

人生の幕が静かに下ろされるとき、思い出されるのはひとつの予言である。 幼き日の彼を見た闞澤は「この子、将来、三公に至らん」と言った。 その言葉はただの占ではなかった。晩年、彼は司徒の位に就き、予言は見事に成就した。

彼自身にも予兆はあった。尚書の時代、こんな夢を見たという。 「自らの腹から松の木が生える夢」 目覚めた丁固はこう解いた。「松の字は『十八公』、つまり十八年後に三公になる兆しだろう」 時は流れ、十八年後の寶鼎三年にその夢は、現実となった。

鳳凰二年(273年)、丁固は七十六歳でこの世を去った。

彼の人徳については、虞翻の言と伝えられる評価では、丁固は「徳が深く、人柄も立派で、やるべきことをきちんとやり遂げる人物である。多くの優れた人の中でも、特に称賛されるべき存在だ」とされている。

若き日からその資質は広く知られ、時を経て、司徒として三公の一角に列したとき、彼を見出した言葉の確かさが証明された。

参考文献

丁固のFAQ

丁固の字(あざな)は?

字は子賤(しせん)です。

丁固はどんな人物?

誠実で廉直な性格であり、幼少より母に孝を尽くし、職務においても清廉さを貫いた人物です。

丁固の最後はどうなった?

鳳凰二年(273年)に七十六歳で亡くなり、司徒としてその生涯を終えました。

丁固は誰に仕えた?

孫権・孫休・孫皓の三代に仕えました。

丁固にまつわるエピソードは?

尚書時代に「松が腹から生える夢」を見て、十八年後に司徒となり、夢が現実となった逸話が伝わります。

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