1分でわかる忙しい人のための丁奉の紹介
丁奉(ていほう)、字は承淵(しょうえん)、出身は揚州廬江安豊、生没年(?~271年)
三国時代の呉に仕えた後期の重臣であり、四朝にわたって軍政の中枢を担った大将軍である。
若年は甘寧・陸遜・潘璋らの配下で小将として歴戦し偏将軍となった。
建興元年(252年)の東興の戦いでは、大雪の中で軽装短兵の奇襲を主張して実行し、魏軍前営を撃破して名を高めた。諸葛誕の挙兵支援で先登して左将軍に進んだ。
永安元年(258年)には孫休・張布と謀り、臘会で権臣孫綝を誅殺して政局を安定させ、大将軍・左右都護となる。孫休崩御後は濮陽興らと孫皓を擁立し、右大司馬左軍師となった。
宝鼎元年(266年)には陸凱・丁固と孫皓廃立を謀るも、留平の反対で中止している。
建衡三年(271年)に病没。死後、孫皓が過去の穀陽出兵の無功を咎め、一族を流刑に処すなど手厳しい処断を加えた。
丁奉を徹底解説!雪中奇襲の東興から孫綝誅殺、寿春救援と呉の最後の猛将の悲劇
若き日の勇将としての出発
丁奉は後漢末の混乱期に呉へ仕え、初登場は小将として甘寧、陸遜、潘璋といった武人バラエティ豊かな指揮官たちの下で、ひたすら実戦を繰り返した。会議室ではなく戦場、資料ではなく血と土を浴びて育った男である。
丁奉はたびたび敵陣に斬り込み、敵将の首を取り、戦旗をぶん取る。 その武勇にかけては「前へならえ」ではなく「前しか見えない」の典型で、傷だらけになっても撤退せず、気づけば勝利を掴み偏将軍へと駆け上がる。ここでようやく肩書がつくが、中身はまだ軍略家というより突撃隊長であった。
雪中決戦・東興の戦いでの奇襲突破
建興元年(252年)、孫権が亡くなり、孫亮が即位し、丁奉は冠軍将軍に任ぜられた。 そこに政権交代に乗じて、魏は諸葛誕・胡遵を派遣し目標を東興に向ける。 呉は太傅・諸葛恪を総大将に据えて迎撃に向かう。
多くの将が「太傅が出れば、敵はビビって帰る」そんな他人任せな声が軍中を支配していた。 そこで口火を切ったのが丁奉だった。 「敵はわざわざ国境を越え、許昌や洛陽からも動員してきている。そんな連中が何もせず帰ると思うな。敵が来ないことを願うな。我々が勝つ準備を整えるべきだ」
冷静でごもっともな意見である。
諸葛恪の上陸後、丁奉は唐咨・呂拠(呂據)・留贊とともに延山を西へと進む。しかし、道中で彼は「今、諸軍は遅い。もし敵に有利な場所を占拠されれば、彼らと戦って勝つのは難しくなる。」と、丁奉はその行軍を避けさせ、自軍三千人だけを抜けて一気に前進する。この時、ちょうど北風が吹いており、彼は帆を上げ、船で進み、たった二日で徐塘に到着。 その時は極寒で雪が降りしきる中。魏軍の諸将は安心しきって酒宴に興じていた。
丁奉は敵の前衛部隊が手薄であることを見抜くと、部下にこう告げた。「封侯の爵位と恩賞が欲しい者は、今日を逃すな」
彼は兵に鎧を脱がせ、兜と短剣だけの軽装に変えさせた。あえて「軽くなること」を選ぶこの奇襲スタイルは、重装の常識を嘲笑うものだった。
敵兵たちは彼らの姿を見て笑い、油断した瞬間に丁奉軍は斬り込んだ。魏軍の前衛は大混乱に陥り、すぐに呂拠らも到着して総崩れとなる。
この戦功で、丁奉は滅寇将軍に昇進し、都郷侯に封じられた。
寿春の文欽の降伏と高亭の戦い
五鳳二年(255年)、魏の文欽が反乱に失敗して呉へと降った。
このビッグネームの亡命に対し、孫亮は孫峻を派遣し、丁奉も虎威将軍として寿春を目指す。
だが、魏も黙ってはいない。途中の高亭にて、追撃部隊が道を塞ぐ。
だが、この迎撃戦で真っ先に動いたのが丁奉だった。彼は矛を握って馬を駆り、躊躇なく先鋒を務めた。敵の陣中へ突っ込んでいったその勢いは尋常ではなく、数百人を切り伏せて武器を奪い取るという、まるで戦場が武芸大会と化したかのような猛攻で誰かが止めようにも、その背中はもう煙の向こうだった。戦場は当然ながら混乱に包まれたが、丁奉はそこで浮かれたりしない。
部隊を整えて陣形を引き締め、敵のさらなる追撃を許さぬまま戦線を押し返した。
この戦いの功により、丁奉は安豊侯に封じられた。
諸葛誕、炎上。そして呉軍、泥の中を駆ける
太平年間、魏の大将軍・諸葛誕が寿春で挙兵した。挙兵といってもただの反乱ではなく、呉に降ったうえでの大決起。
魏にとっては完全なる裏切り行為であり、当然ながら彼を討つべく包囲網が敷かれる。寿春は再び戦火に包まれた。
呉朝廷の中では、出すか引くかで議論もあっただろうが、孫綝は行動を選んだ。
朱異・唐咨らを前軍として派遣し、さらに朱異に命じて、五万の兵を持たせて丁奉と黎斐を率いさせる。 丁奉はこの出陣で先鋒を務め、黎漿に駐屯して戦線を展開した。
包囲の一角に切り込むべく、丁奉は例によって勇猛に突撃。
敵陣に斬り入り、一時は包囲網の一部を突き崩す。しかし朱異が率いる主力部隊が石苞・州泰・胡烈の連合軍に押され大敗し、勝機が消えたその瞬間、孫綝は「撤退」の判断を下す。
つまり、諸葛誕を置き去りにして建業へ帰還する、という現実的すぎる選択だった。
援軍として出した兵は、最終的に支援に失敗し、政治的にも軍事的にも痛手を負った。だが、丁奉の奮戦だけは記録に残る。
この戦いの功績により、彼は左将軍に進められた。
火の中に入り、水の中でも戦う。勝ち負けに関係なく、丁奉の現場での仕事ぶりは、いつも抜かりがなかった。
孫綝誅殺・政変を断行する智将
永安元年(258年)、孫休が即位すると、国政を専断していた権臣・孫綝の存在が問題となった。
孫休は張布と共に孫綝を誅殺を計画する。張布は「丁奉は、書類仕事はできませんが、その計略は人並み外れており、重要な事柄を決断できます。」と進言した。
呼び寄せられた丁奉に孫休は「孫綝は国家の権威をほしいままにし、まもなく不穏な動きをするだろう。将軍と共にこれを討ちたい。」と打ち明ける。
丁奉は「丞相の兄弟や仲間は非常に多く、勢力が盛んです。人々の心が一つにならず、すぐには討ち果たすのは難しいでしょう。腊月の百僚朝賀(年末の宴会)という祭事の機会を捉え、陛下の兵力をもって誅殺されるのがよろしいかと。」と進言した。
やがて腊月が来た。孫綝は何も知らず、孫休の宴に出席する。
酒が進み、場が和やかになったその時、丁奉と張布が視線を交わす。ほんの一瞬の合図。だがそれだけで、訓練された近衛兵が動いた。
孫綝は逃げる間もなく、その場で斬られ計画は成功し、長らく続いた専横は、ようやく終わりを迎えた。
この政変により、呉の政局は安定へと向かう。功を成した丁奉は大将軍・左右都護に任じられ、張布も左将軍へと昇進した。
さらに永安三年(260年)には假節を授かり、徐州牧をも兼ねた。
この頃には猛将ではなく、冷静沈着に策を勧めた男の知略と鋭い決断が光った。
蜀救援と滅亡
永安六年(263年)の冬、蜀から「魏が攻めてきた」という急報を受け、呉の皇帝・孫休は即座に反応、軍を動かして蜀の救援に乗り出した。
大将軍・丁奉は兵を率いて寿春へ、留平を南郡に、さらに丁封と孫異を漢水といった要地へ兵を派遣する。 この出兵の狙いは単純な援軍ではない。
あくまで魏軍の圧力を分散させ、戦線を揺さぶり、蜀への侵攻を間接的に牽制する「間接支援」だった。魏の兵を分散させる作戦で、慌ただしく出兵体制を整えた。
しかしその動きの最中、届いた続報は「劉禅、もう降伏済み」で、呉の軍事行動は空しく中止となり、呉は蜀を助けることなく、その滅亡を見届ける結果に終わったのである。
孫皓擁立と政権安定への貢献
永安七年(264年)、孫休が崩御した。
呉の中枢は一気に緊張に包まれた。次の皇帝を誰にするのか、という難題が唐突に現れた。このとき、丞相・濮陽興と左将軍・張布は、万彧の意見を採用し、孫権の孫にあたる孫皓を擁立する決断を下す。そして、ここに丁奉がいた。彼は武将でありながら、軍事のみならず政局にも名を連ねるようになっていた。
孫皓が即位すると、丁奉は右大司馬・左軍師に任じられる。名実ともに軍政の要となり、新たな時代を支える柱として動き始めた。
これで丁奉は、孫権・孫亮・孫休・孫皓と四代にわたって仕えることになる。
一代でここまで政権に連続して関与した将軍は、そう多くはない。
それは、単に長生きしたからではなく、「必要な時にそこにいた」からこその結果だった。
孫皓暴政下の政変の失敗
宝鼎元年(266年)。世は呉帝・孫皓の治世、だが治まるどころか荒れていた。
粛清が日課となり、問答無用の処刑が朝礼代わり。賢人は沈黙し、奸臣だけが笑うという、いっそ寓話にしてしまいたいような暴政の時代である。
この地獄のような政治に対し、丁奉は動いた。
陸凱・丁固と共に謀を立て、孫皓を廃し、かつての明君・孫休の子を立てようとしたのである。
反乱でも謀反でもない。むしろ、国家をまともに戻そうとする「正常化プロジェクト」に近かった。
ちょうど孫皓が廟を参拝する機会に合わせ、政変を起こすつもりだったが、計画を知らされた左将軍の留平がこれを拒否し、口外しないことを誓ったため、実行には至らなかった。
晋との対峙と晩年の軍事行動
宝鼎三年(268年)秋、孫皓は老将・丁奉と、諸葛誕の子・諸葛靚に命じ、晋の合肥に陣する司馬駿を攻めさせた。
丁奉は正面からの戦ではなく、まず心理を突く策を用いた。晋の大将・石苞に偽書を送り、彼の忠誠心に疑いの種を蒔いたのである。
だが石苞は動じず、水路を閉ざし防備を固めて一歩も引かない。とはいえ、偽書の効果は思わぬところに現れた。晋の朝廷が石苞を疑い始め、結局彼は自ら兵を引くことになる。
戦闘そのものは起こらなかったという珍妙な形での結末だった。
翌宝鼎四年(269年)の冬、丁奉は再び出陣し、徐塘に陣地を築いて穀陽を攻撃する。
だがそこに待っていたのは、住民はすでに逃げ去った空っぽの町だった。 戦もなければ略奪もなく期待された成果は霧散し、丁奉は何も得られぬまま帰還した。
怒りを爆発させた孫皓は、責任を問う形で先導将を斬首するが、丁奉自身には処罰を加えなかった。
最期と死後の悲劇
建衡三年(271年)、孫皓は皇帝自らが西へ出兵し、晋を攻めるという一大行軍を開始した。
だがこの出撃、寒波という敵を見誤った。牛渚から進軍した軍は大雪に見舞われ、兵たちは凍え、飢え、耐え、ついには不満が蔓延し、謀反の気配すら立ち込めた。孫皓は進軍を断念し撤退を命じた。
このとき丁奉は、右丞相の万彧、左将軍の留平と密かに相談し、先んじて帰還することを決める。
この常識的判断も、猜疑の権化・孫皓には通じなかった。
密談は露見し、三人の行動は報告される。
孫皓は怒りを押し殺し、「重臣ゆえに赦す」と言ったが、そんな生ぬるい温情があるはずもない。 鳳皇元年(272年)、宴会の席で万彧に毒酒を振る舞い、薬の量が少なかったため即死は免れたが、万彧はその後、自ら命を絶った。 留平にも同じく毒が注がれたが、彼はその異変に気づき、事前に用意していた解毒薬を服用して難を逃れたが、一ヶ月後、彼は病に伏し、そのまま世を去った。 次は丁奉か?という前に丁奉は病に倒れ、世を去った。
しかし死んでも安らげなかった。孫皓は過去の穀陽出兵の失敗を蒸し返し、丁奉の罪を改めて掘り返したのである。
そしてその報復は息子へと向けられ、丁奉の子・丁温は処刑され、一族は臨川へ流された。
生前の功績も、忠義も、血も汗も骨も肉も孫皓にとっては、すべて「昨日の味噌汁」ほどの意味もなかった。
丁奉の評価
丁奉は最初こそ槍一本で前線を駆け抜けた武人だったが、時とともに政変の謀を断じる知将へと進化した。
張布は彼を「文事には通じぬが、計略に長け、大事を断ずるに足る」と評し、この言葉がそのまま孫綝討伐の根拠となっている。
『三國志』の陳寿は、丁奉を程普・黄蓋・周泰・甘寧らと並べ、「江表の虎臣」と称した。
彼らはただの「勇士」ではない。孫呉という国そのものを、命をかけて支えた十二の柱。
そして丁奉はその最古参にして最後の生き残りだった。
文人・陸遜の孫の陸機は「丁奉と鐘離斐は剛毅の士である」と記している。武をもって身を立て、困難な局面で決断を下し、最後まで国のために尽くした者への敬意が、その一文には込められていた。
戦場でも政変でも、丁奉は一度としてその使命から逃げることはなかった。
功に報いられず、最後は理不尽な仕打ちを受けながらも、その生涯が末期の呉を支えた事実は誰にも消せない。
参考文献
- 三國志 : 呉書十 : 丁奉傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書三 : 孫休傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書三 : 孫皓傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書十九 : 孫綝傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書十九 : 濮陽興傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書十六 : 陸凱伝 – 中國哲學書電子化計劃
- 資治通鑑/巻077 – 维基文库,自由的图书馆
- 資治通鑑/巻078 – 维基文库,自由的图书馆
- 資治通鑑/巻079 – 维基文库,自由的图书馆
- 晉書 : 列傳第三 王祥 王覽 鄭沖 何曾 石苞 – 中國哲學書電子化計劃
- 参考URL:丁奉 – Wikipedia
丁奉のFAQ
丁奉の字(あざな)は?
丁奉の字は承淵(しょうえん)です。
丁奉はどんな人物?
若い頃は甘寧、陸遜、潘璋といった武将のもとで活躍し、晩年は武勇だけでなく計略と決断に優れた将です。孫綝誅殺でも周到な策を立てています。
丁奉の最後はどうなった?
建衡三年(271年)に病没しました。死後、孫皓が過去の穀陽出兵の責任を追及し、一族は臨川に流されました。
丁奉は誰に仕えた?
孫権・孫亮・孫休・孫皓に仕えました。
丁奉にまつわるエピソードは?
建興元年(252年)の東興の戦いで、大雪の中、重甲を脱ぎ兜鍪のみを戴いて短兵で前営を急襲し、魏軍を破ったことがよく知られています。
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