1分でわかる忙しい人のための鄭宝(ていほう)の紹介
鄭宝(ていほう)、字は不詳、出身は揚州、生没年(?~199年)
※正しくは鄭寶
後漢末期の乱世に巣湖一帯で勢力を築いた豪傑である。
中原が乱れる中、各豪族が兵を集めたが、その中でも鄭宝は抜群の勇気と才力を誇り、一万人以上を率いて巣湖を拠点とした。
彼は肥沃な地を占め、廬江の士人らも彼に帰属したため、一時は地方を制する強者として恐れられた。
しかし、やがて劉曄を利用して江東を奪おうとする野望を抱く。これを察した劉曄は曹操の使者を機に謀をめぐらし、鄭宝を宴席で討ち取った。
その後、劉曄は鄭宝の残兵を降伏させ、廬江太守劉勳に部曲を引き渡したことで、巣湖勢力は終焉を迎えた。
鄭宝を徹底解説!巣湖を拠点に一万を率いた揚州の雄と劉曄と魯粛の関係
巣湖を拠点に勢力を築いた鄭宝
後漢末、天下が乱れ「誰が勝つか」より「誰が生き残るか」が問題となる時代で、揚州でも、鄭宝・張多・許乾などが自らの旗を掲げ、各地で私兵を募って勢力を築きはじめた。
なかでも鄭宝は、勇猛かつ才力に富み、他の豪族を凌駕する存在となっていた。 彼が選んだ拠点は、巣湖という水と田が豊かな土地である。
その豊かな地の利を背に、兵糧を絶やさず、兵を養い、部隊を拡大した。やがて鄭宝の軍勢は一万人を超え、周囲の郡県を圧するほどの威を保った。
地方官や名家の士人たちでさえ、彼の顔を見れば背筋を正し、近づくことをためらったという。
劉曄の帰属と鄭宝の野望
巣湖を手中に収め、兵一万、地の利と富もそろえば、次に欲しくなるのは「名」である。
鄭宝が狙いをつけたのは、名門の出で才名高い劉曄だった。
ただの巣湖の地主で終わる気など毛頭ない鄭宝は、劉曄を大義の看板に担ぎ上げ、江東進出の道を探っていた。
だが、才知ある劉曄といえど、巣湖一帯を実効支配する鄭宝のもとでは軽々しく動けなかった。
刀を抜くには時が早く、辞して去るには機が足りない。
彼は牙を隠したまま、時勢が変わるのを待つほかなかった。
魯粛伝には、劉曄は魯粛に対して手紙を送っている。 「今、天下に群雄が割拠し、君のような人材を各地のボスたちが求めている。中でも巣湖の鄭宝は万の兵を擁し、土地は肥え、人心は厚い。まさに仕官チャンス到来だ」
劉曄による鄭宝の急襲と滅亡
建安四年(199年)ごろ、司空曹操が揚州の情勢を探るために派遣した使者が、廬江の士人・劉曄の邸を訪れた。 劉曄は時局について彼に語り、数日間もてなした。この時点で、何かが動き始めていた。
満面の笑みと満載の贈り物を引っ提げた鄭宝。
牛に酒、そして従者を連れて劉曄邸に現れたが、その先には自分用の「死の席」が待っていた。
劉曄は鄭宝だけを中門に招き入れ、その他大勢は外で待たせるという、きれいに分断してしまう。
行酒を合図に刺客が動くはずだったが、鄭宝は酒を嫌い、常に周囲に目を配っていた。刺客たちは臆して手を出せず、膠着したが、劉曄は無言で佩刀を抜き鄭宝を一刀のもとに斬り殺した。
そしてその首を掲げ、「曹公の命に背く者、鄭宝と同罪なり」と一喝すると、かつての部下たちは恐慌し、陣に逃げ帰る。
その勢いのまま、劉曄は鄭宝の馬を奪取して、わずかな家僮を連れて敵陣へ向かう。 そして頭目たちに現実を突きつける。「どうする? 次は君らか?」すると彼らは、即土下座し門を開けて降伏した。すべてが終わったあと、劉曄は軍勢をそのまま劉勳に引き渡す。 巣湖を本拠とし、万を超える兵を抱えた鄭宝の勢力は、こうして一夜で瓦解した。 数日の策謀と刀一振りによって幕を閉じたのである。
彼にあったのは万の兵、なかったのは、たった一人の参謀だった。
参考文献
- 三國志 : 魏書十四 : 劉曄傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書九 : 魯肅傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 資治通鑑/巻063 – 维基文库,自由的图书馆
- 参考URL:鄭寶 – Wikipedia
鄭宝のFAQ
鄭宝の字(あざな)は?
鄭宝の字は史書に記載がなく、不詳です。
鄭宝はどんな人物?
勇猛で才力に優れ、巣湖を拠点に一万人を率いた豪傑でした。
鄭宝の最後はどうなった?
曹操の使者来訪の機会に、劉曄の謀略により宴席で斬殺されました。
鄭宝は誰に仕えた?
後漢末期の乱世において自ら勢力を築いた独立勢力でした。
鄭宝にまつわるエピソードは?
彼は劉曄を利用して江東を奪おうとしたが、逆に劉曄の手により討たれるという結末を迎えました。
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