【1分でわかる】鄭冑:遼東遠征、地方反乱鎮圧、謎に包まれた晩年【徹底解説】

一般文官4

1分でわかる忙しい人のための鄭冑の紹介

鄭冑(ていちゅう)、字は敬先(けいせん)、出身は沛国、生没年(?~?)

後漢末から三国時代にかけて呉に仕えた将領である。父は鄭札で文武に通じた才を備え、若年の頃より名声を博した。孫権の政権下で地方官に任じられ、建安太守を務めた。

法を重んじる性格から呂壹の門客を処刑したことにより讒言を受け、一時は孫権の怒りを買い投獄されたが、潘濬や陳表の弁護によって釈放され、宣信校尉に任じられた。赤烏二年(239年)、遼東遠征に従軍し、魏軍を破って功を立て、帰還後に執金吾へ昇進した。太平二年(257年)には地方叛乱の鎮圧に従事したが、その後の記録はなく消息は不明である。

鄭冑は法に厳しく、公正な姿勢を持ちながらも軍事面でも活躍した人物であり、呉における法執行者としての側面と将軍としての武勲の両面を持ち合わせていた。

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鄭冑を徹底解説!呉の法執行から遼東遠征・地方叛乱鎮圧まで

鄭冑の出自と建安太守

鄭冑は鄭札の少子として生まれた。父の鄭札は孫権に仕えて驃騎将軍・従事中郎となり、張昭・孫邵・滕胤と並んで朝儀を定めた重臣であった。
鄭冑自身が文武に秀で、若い頃から実力で評判を築いていた。

その評価の結果、鄭冑は建安太守に任じられている。父が築いた功績と、自らの名声の両方を背負って職務に臨んだ鄭冑は、権力に負けない責任感が刻まれていたといえる。

呂壹との対立と投獄からの解放

孫権の側近として権勢を振るっていた呂壱。その門客が法を破る事件が発生すると、鄭冑は情勢に流されることなく厳正に処断を下した。
結果、門客は命を落とす。法律に照らせば当然の処置であったが、呂壱にとっては「自分の顔を潰された」に等しく、深い恨みを抱かせることとなった。

その後、呂壱は孫権に対して鄭冑を繰り返し讒言し、彼の行動を意図的に歪めて伝える。
これを信じた孫権は激怒し、鄭冑を獄に下した。当時の呂壱は、讒言を巧みに使って政敵を排除しており、鄭冑もまたその犠牲となったのである。

しかし、事態を見過ごさなかった者たちがいた。潘濬と陳表である。
二人は声を上げ、鄭冑の処置が法に則った正義の行動であったことを力強く訴えた。彼らの直言はついに孫権の耳に届き、鄭冑は釈放される。

その後、鄭冑は宣信校尉に任じられ、名誉を回復。
一度は冤罪に落とされた男が、正義の支援によって再び立ち上がることとなった。

公孫淵討伐における遠征軍

景初二年(238年)、魏の皇帝・曹叡は、遼東で独立宣言した公孫淵を討つべく、司馬懿に出兵を命じた。追い詰められた公孫淵は、遠い呉の孫権に救援を要請する。

これを受け、翌年の赤烏二年(239年)三月、孫権は羊衜・鄭冑・孫怡を将とし、大軍を編成して遼東へ遠征軍を派遣した。
魏と呉、燕(遼東)を巡る三国の利害が交差する大規模な軍事行動となるはずだった。

しかし、司馬懿の進軍があまりに迅速であった。 呉軍が現地に到着した時、公孫淵はすでに滅び去っていたのである。せっかく遠征した呉軍は手ぶらで帰るわけにもいかず、進軍を続け、魏軍の張持・高慮を撃破した。多数の住民を俘虜とし、それなりの成果を持ち帰る。

この出兵は、本来の目的を果たすことはなかったものの、呉軍の作戦行動としては及第点の成果を残した。帰還後、鄭冑はその働きを評価され、執金吾へと昇進する。

地方叛乱の鎮圧と晩年

太平二年(257年)八月、呉の各地で一斉に叛乱が発生する。
まず会稽南部では都尉を殺害し、続いて鄱陽・新都でも民が暴徒化する局地的な内乱状態となった。

この非常事態に、呉朝廷は廷尉の丁密(丁固)・将軍鍾離牧、そして歩兵校尉の鄭冑を討伐軍として派遣する。
鄭冑にとっては、遼東遠征以来の出番であった。 ただ、叛乱鎮圧の詳しい経過は記録に残されておらず、敗れたのか、戦死したのか、はたまた処罰を受けたのか。 その答えは歴史に残っていない。
鄭冑自身もこの事件を最後に、史書から姿を消えている。

参考文献

鄭冑のFAQ

鄭冑の字(あざな)は?

鄭冑の字は敬先です。

鄭冑はどんな人物?

鄭冑は文武に優れ、若年の頃から名声を得ていました。法を重んじ、正義を貫く性格で、時には権力者と対立することもありました。

鄭冑の最後はどうなった?

太平二年(257年)に地方叛乱の鎮圧に従軍した記録を最後に消息が途絶え、その後の経歴や死没年は不明です。

鄭冑は誰に仕えた?

鄭冑は呉の孫権に仕え、建安太守・宣信校尉・執金吾・歩兵校尉などの官職を歴任しました。

鄭冑にまつわるエピソードは?

呂壱の門客が法を犯した際、鄭冑は法に従い刑罰を執行しましたが、その結果呂壹の讒言で孫権に投獄されました。その後、潘濬や陳表の弁護により釈放され、再び官職に復しました。

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