1分でわかる忙しい人のための朱然の紹介
朱然(しゅぜん)、字は義封(ぎほう)、出身は揚州丹陽郡故鄣、生没年(182年~249年) 朱然は呉の名将であり、孫権の学友でもあった人物である。もとは施氏の子であったが、朱治の養子となり孫策に迎えられ、やがて孫権の片腕となって出世した。 若年より地方統治で才能を発揮し、臨川の賊徒を平定した後、関羽討伐に従軍して功を立て、西安郷侯に封じられた。 江陵の戦いでは曹魏の大軍に六ヶ月間包囲されながらも持ちこたえ、呉の名を高める。 さらに劉備の大軍を陸遜と共に退け、征北将軍・永安侯に任ぜられた。晩年も柤中の戦いで奇襲に成功し、大都督に昇進するなど武功を重ねた。 孫権からの信頼は厚く、病床に伏した際も厚遇を受け、死後は孫権が素服を着て弔った。 小柄ながら沈着冷静な将軍であり、その統率力は呉の軍事を支えた。
朱然を徹底解説!江陵の戦いや関羽討伐等、数々の戦場を駆け抜けた生涯
少年期:朱治の養子となる
朱然は呉の重臣・朱治の姉の子として生まれた。十三歳の時、実子のいなかった朱治の養子となることが決まり、孫策に願い出て養子を迎えることを許された。
その際、丹陽郡守が羊や酒を携えて、施然を招き、形式を整えた上で呉郡へ移った。孫策は彼を厚くもてなし、以後「朱然」と名を改めることになった。
こうして朱然は朱家の一員となり、孫権と共に学問を学ぶ仲間となった。同じ書を読み、同じ師に学びながら築かれた友情は、後に血と鉄の戦場を共に生き抜くための支柱となった。/p>
初任地での才能発揮
建安五年(200年)、十九歳の朱然は余姚長に任じられ、地方行政の最前線に立った。 続いて山陰令となり、折衝校尉を加えられて五県を統べる立場となる。 ここで孫権は彼の処理能力を見て、「これは使える」と判断する。 丹陽を分割して臨川郡を新設、朱然を太守に据え、二千の兵を付与した。
当時の臨川は賊徒が跳梁し、統治は滅茶苦茶だった。朱然はただちに出兵し、約一月で反乱勢力を鎮圧した。 その手早さと手腕に「若いのに侮れぬ」と多くの人が思ったに違いない。 統率と実行力を兼ね備えた「地味に怖いタイプの将」として、朱然の抜擢が始まったのである。
濡須口防衛と関羽討伐の活躍
建安二十三年(217年)、曹操軍が濡須口に迫るとの情報が呉を騒がせる。
朱然は、大塢や三関といった要地を固めて布陣を敷き、防衛線を構築する役割を担った。
この時に、彼は偏将軍に任じられ、正式に将軍としての肩書を得ることになる。
ところが舞台裏ではちょっとした人間模様があった。朱然や徐盛は「なんで俺たちが周泰の下につくんだ」と不満をもらす。
これに対して孫権は実に鮮やかな裁きを見せた。周泰の体に刻まれた無数の傷跡を一つひとつ数え、そのたびに酒を注ぐ。酒の杯が進むにつれ、諸将は言葉を失い、最後には「これほどの功臣に従わぬわけにはいかぬ」と納得した。もしかしたら、裸のまま延々と飲み続けた事への敬意だったのかもしれない。
建安二十四年(219年)、朱然は呂蒙に従って関羽討伐に参戦する。 潘璋が臨沮で関羽を捕え、歴史に残る大戦果を挙げたが、その陰で朱然も確かな働きを見せた。 功績を認められ、昭武将軍へと昇進し、西安郷侯に封じられる。
呂蒙の後任と夷陵の戦い:名将の誕生
呂蒙が病に伏したとき、孫権は真剣な面持ちで後継者を問うた。「誰が江陵を守れるのか」。その問いに、呂蒙は迷わず朱然の名を挙げた。「彼には胆力があり、守りにおいても力を発揮できる」と。やがて呂蒙は世を去り、その遺言のような推挙どおり、朱然が江陵の守りを託されることとなった。
黄武元年(222年)、劉備が大軍を率いて宜都方面から押し寄せてきた。世に名高い夷陵の戦いである。朱然の手元にある兵はわずか五千。だが彼は臆さず、陸遜と力を合わせて果敢に防戦した。朱然は別働隊を率いて劉備軍の前鋒を撃ち破り、さらには退路を断つという離れ業をやってのけた。
大軍の退路を断たれた劉備は混乱に陥り、やがて敗走する。呉軍は歴史的な大勝を収め、その功績により朱然は征北将軍に昇進、永安侯の位を授けられた。
呂蒙の「後を託すに足る男」という言葉は、見事に現実となったのである。
江陵の戦いでの堅守
黄武二年(223年)、魏が三方向から同時に軍を進めてきた。その一角を担ったのが曹真・夏侯尚・張郃の連合軍で、江陵を包囲する。しかも曹丕まで宛城に陣を敷いて後方支援する念の入れようだった。
孫権は孫盛に一万の兵を与え、州に塁を築かせて援軍とした。だが張郃に襲われ、孫盛はあっさり退却。張郃が州を占領したことで江陵は孤立無援となった。ここで派遣された潘璋と楊粲も解囲に失敗し、朱然は文字通り「城に取り残された将軍」となった。
城内の状況は悲惨を極めた。病気が蔓延し、戦える兵は五千人ほど。魏軍は土山を築き、地道を掘り、楼櫓を建て、矢を雨のように降らせてくる。 そんな中、朱然はいささかも動ぜず、士卒を励まして守りを固めた。
しかも隙を見て反撃に出て、魏軍の二つの陣営をぶち破る。兵力差を考えれば、これはほとんど奇跡のような戦果だった。
ここで内部からの裏切りまで発生する。江陵令の姚泰が魏と通じ、北門を開こうとしたが事前に発覚し、朱然は毅然として処刑する。
結局、魏軍は六か月間も攻め続けながら落城させられず、しぶしぶ撤退していった。朱然の名声は一気に魏にまで響き渡り、その功績により当陽侯に封じられた。
江陵防衛の英雄として中堅将軍の地位を確かなものとしたのである。
孫権を補佐する将軍としての活躍
黄武五年(226年)、孫権が石陽を攻めた帰り道で、その途中、潘璋の部隊が夜の闇に紛れて混乱し、敵の追撃を受けてしまう。その報を聞くと、朱然は引き返して救援に駆けつけ、前軍が安全圏に入るのを確認してから、部下を率いて落ち着いた撤退を決めた。
黄龍元年(229年)、朱然は車騎将軍・右護軍に昇進し、さらに兗州牧を兼ねることになった。ところが兗州は蜀の領土と決まっていたため、すぐに解任。肩書きだけの短命ポストに終わった。まるで一瞬の花火のような兗州牧であった。
嘉禾三年(234年)、蜀が五丈原に軍を進め、呉も呼応して合肥新城を攻める計画が立てられた。このとき朱然と全琮は斧鉞を与えられ、それぞれ左右の督として大軍を統率する。いかにも大役らしい肩書きだが、現実は厳しい。魏の満寵が奮闘して持ちこたえ、さらに呉軍の内部では病が蔓延。結局、大した戦果もなく撤退せざるをえなかった。
呂壱事件時の朱然の立ち位置
赤烏元年(238年)、孫権の寵愛を受けた呂壱の悪行が露見し処刑された時、中書郎の袁禮を諸将のもとに遣わし、「何か不満があるなら、今こそ遠慮なく言ってほしい」と伝えさせた。 袁禮が戻ると、孫権は諸葛瑾・歩隲・朱然・呂岱の意見を聞いた。長年の戦友であり、呉政権を支える柱である彼らの答えは、しかし意外なほど腰が引けていた。「民政は自分たちの担当ではありませんので…」と、一歩退いて責任を避けたのだ。
孫権は四人に「聖人でさえ過ちを犯す。ましてや私のような者が、間違いをせずに済むものか。だからこそ、これからは遠慮なく言ってくれ。我々は共に汗を流してきた仲間じゃないか」と詔書を送っている。
朱然は、武官としての立場を崩さず沈黙を選んでいたが、孫権に「もっと言ってほしい」と叱咤される格好となったのである。
最後まで戦い続け大都督に任命
赤烏四年(241年)、呉は魏への大攻勢を仕掛けた。朱然は樊城を、諸葛瑾は柤中を、全琮は淮南を、諸葛恪は六安を攻めるという大規模作戦である。朱然は呂拠・朱異とともに樊城を包囲し、外郭を破壊して追い詰めた。だが、その最中に孫権の世子・孫登が急死。国の空気が一変し、撤退を余儀なくされた。戦場の勝敗は時の流れにさえ左右されるのだ。
赤烏五年(242年)、呉は再び柤中へ出兵する。魏の将軍・蒲忠と胡質が数千の兵を率いて援軍に現れ、蒲忠は険しい地形を利用して呉軍の退路を断とうとした。進軍中にこの情報を得た朱然は迷わない。自軍から八百人を抜き出し、即座に逆襲を敢行する。
この一撃で蒲忠は劣勢となり、胡質は戦わずに退却。朱然の即断即決と大胆さが、軍全体を危機から救った。
赤烏九年(246年)、朱然は再び柤中に兵を進める。魏の李興らは「朱然が深入りしている」と聞きつけ、歩騎六千を率いて退路を断った。絶体絶命と思われたが、朱然は夜襲を仕掛け、魏軍を逆に打ち破ってしまう。
この出征に先立ち、降将の馬茂が裏切りを企んでいたことが発覚し、処刑される事件まであった。孫権は烈火のごとく怒っていたが、朱然は平然と上表して「必ず敵を破り、捕虜を得て、江河をふさぐほどの戦果を挙げてみせる」と誓った。
孫権は当初、この大言壮語めいた上表を公にしなかった。しかし朱然の勝利の報が届くと、群臣とともに酒宴を開き、その文書を取り出す。「最初は難しいと思ったが、彼は言葉通りに成し遂げた。まさに先見の明があった」と声を高らかに称えたのだ。見事な手のひらを返しである。
こうして朱然は左大司馬・右軍師に任じられ、ついには呉軍最高の地位である大都督にまで昇りつめた。壮年を過ぎてもなお戦い続けた男の姿は、まさに呉の軍神と呼ぶにふさわしい。
朱然の最期と孫権の厚遇
諸葛瑾の子・諸葛融、歩騭の子・歩協が父の跡を継いで任官しても、朱然はなお総督として軍を統括した。陸遜が亡き後、もはや彼に並ぶ者はいなかった。
しかし、やがて朱然は病に倒れ、二年にわたって床に臥すことになる。病は日ごとに重くなり、孫権の心配は深まるばかりだった。昼は食欲がなく、夜は眠れず。あまりの心配ぶりに、医薬や食物を届ける使者を何度も何度も出すので、道中で使者同士が鉢合わせして「またお前もか」と顔を見合わせるほどだった。
朱然が病状を上表すれば、孫権は必ず自ら呼び出して問いただし、訪ねてくれば酒食を与え、帰り際には布帛を持たせた。ここまで気を遣われる将は数少ない。孫権が病床の功臣に寄せた厚遇のうち、呂蒙と凌統が最も重く、その次が朱然であったという。
赤烏十一年(248年)、朱然は病中ででありながらも江陵に要塞を築いた。そして翌年三月、赤烏十二年(249年)、六十八歳で世を去る。
孫権は素服をまとって喪に服し、深い悲しみを示した。
学び舎で机を並べた友が、やがて呉を代表する将となり、最後は病床に伏しながらも城を築いた。栄光も重責も、孫権と共に歩んだ人生である。
彼の死に孫権が流した涙は、単なる主従を超え、同じ青春を過ごした仲間を失う痛みにほかならなかった。
戦場に鳴り響いた彼の軍鼓の音は途絶えたが、呉の歴史に長く刻まれたのである。
人物像と逸話
朱然の背丈は七尺に満たなかったが、顔立ちは整っており、人柄も清らかで誠実だった。身の回りの装飾は軍の装備だけで、普段の生活は質素そのものであった。
彼は常に戦場に身を置き、急な事態に直面しても冷静さを失わなかった。平時でも朝夕に軍鼓を鳴らし、兵士に甲冑を着せて整列させることで、敵に常に警戒を強いた。
こうした習慣が、朱然の戦での数々の勝利につながったのである。
朱然の子である施績もまた、呉の重臣として活躍し、上大将軍・都護督にまで昇った。父の遺志を継ぎ、軍事の中枢を担ったのである。
朱然の評価
朱然については、同時代から後世に至るまで多くの評価が残されている。
孫権は「朱然の予見は正しく、明於見事(物事を見抜く力がある)」と称賛した。
『三國志』を著した陳寿は、朱然と朱桓を「勇烈で名を知られた将」とし、その胆力と冷静さを高く評価した。
衛臻は「呉の勇将」と評し、孫登は忠臣の一人として名を挙げている。さらに傅玄・陸機・章如愚ら歴代の史家も、朱然を呉の代表的な名将の一人として位置づけた。
朱熹は「古の名将は皆慎重で周密であり、朱然もその典型」と評し、郝経もまた「敵国に対峙する古の大将の風格を備えていた」と称賛した。
こうした記録から、朱然は単なる一武将にとどまらず、呉を支える柱石と見なされていたことがうかがえる。勇敢さと冷静さ、そして忠誠心を兼ね備えた将軍として、後世の史家からも高く評価され続けてきたのである。
参考文献
- 三國志 : 呉書十一 : 朱然伝 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書十五 : 全琮伝 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書十一 : 朱桓伝 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書二 : 呉主傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 資治通鑑/巻070 – 维基文库,自由的图书馆
- 資治通鑑/巻074 – 维基文库,自由的图书馆
- 参考URL:朱然 – Wikipedia
朱然のFAQ
朱然の字(あざな)は?
朱然の字は義封(ぎほう)です。
朱然はどんな人物?
朱然は小柄ながらも沈着冷静で、戦場では大胆かつ果断に行動できる人物でした。
朱然の最後はどうなった?
朱然は赤烏十一年(248年)に病床にありながら江陵で要塞を築き、翌249年に六十八歳で亡くなりました。
朱然は誰に仕えた?
朱然は呉の孫権に仕え、重要な将軍として軍事を支えました。
朱然にまつわるエピソードは?
江陵の戦いで六か月に及ぶ包囲戦を耐え抜き、反逆を企てた姚泰を処刑して魏軍を退けた逸話が有名です。
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