1分でわかる忙しい人のための周泰(しゅうたい)の紹介
周泰(しゅうたい)、字は幼平(ようへい)、出身は揚州九江下蔡、生没年(?~222年頃)
後漢末から三国時代にかけて、孫策・孫権のもとで活躍した呉の猛将である。九江郡の同郷である蔣欽と共に孫策に従い、江東を平定する戦いに参加した。建安二年(197年)には宣城の戦いで孫権を守り抜き、全身十二か所に重傷を負いながらも戦い抜いたことで知られる。
その後も黄祖討伐や赤壁の戦いなど数々の戦で功を立て、曹操との濡須口の戦いでは大軍を退けて名を高めた。孫権からは特に深く信頼され、彼の傷跡を一つ一つ指して涙を流し、「卿は我が兄弟のために熊虎のように戦った」と称賛された逸話が残る。
最終的に奮威将軍・漢中太守に昇進し、陵陽侯に封ぜられた。忠義と勇気を兼ね備えた将として、後世には「江表の虎臣」の一人に数えられている。
周泰を徹底解説!孫策仕官から始まり、孫権を救い十二の傷を負った忠勇の将の生涯
孫策に仕えた若き周泰の勇将としての出発点
興平二年(195年)、周泰は同郷の戦友・蔣欽とともに、孫策のもとへ身を投じ、江東平定戦に参加した。周泰は、劉繇との交戦を皮切りに、各地の戦で血路を拓き、名を挙げた。
建安元年(196年)、孫策が呉郡の厳白虎や会稽の王朗を平定すると、彼を別部司馬に任命し、直属の兵を与える。
このとき、弟の孫権が目をつける。「こいつ、使えるぞ」と言ったかは定かでないが、孫策に願い出て、周泰を自分の側近として引き抜いた。
以来、周泰は孫権のボディガード、いや「命の盾」となり、その生涯を通じて君主を戦場で護る存在となる。
孫権を命懸けで守った宣城の戦い
建安二年(197年)、袁術があちこちの山賊を煽って丹陽・宣城一帯で反乱を起こさせた。
孫策は自ら出陣して祖郎を討ちに向かい、弟の孫権を宣城に残して守備を命じる。周泰はその護衛役として同行した。
だが、現地の兵は千人にも満たず、城の備えも不十分。
そこへ数千の賊が奇襲を仕掛けてきた。戦場は大混乱、孫権の馬の鞍が斬られるほどの接近戦になった。しかし、周泰は逃げずに剣を抜き、体を張り、ただ一人で孫権の前に立ちはだかった。
混乱していた兵たちも、彼の姿に奮い立ち、次第に態勢を立て直し、やがて賊は退却する。
この戦いで周泰は全身十二か所の深手を負って意識を失い、生死の境を彷徨ったが、奇跡的に蘇る。孫策はその働きに感服し、周泰を春穀長に任じた。
黄祖討伐と江東平定の戦歴
建安四年(199年)、袁術がくたばると、廬江太守・劉勲が勢力を広げ始める。
孫策はすかさず討伐に動き、周泰も皖城攻めに参戦し、見事に盧江郡を制圧した。
その後、孫策が黄祖を攻める際にも従軍し、江夏の沙羨で大勝を挙げた。
さらに豫章へ転戦して宜春県長となり、租税を集め、治安も整え、文官も顔負けの手際で地域を安定させた。
建安八年(203年)には、再び孫権に従って黄祖戦へ出陣する。
黄祖の水軍を前に善戦したが、各地で山賊が湧いたため、城は落とせず撤退する。
帰路孫権は各地に対処部隊を派遣する。
呂範は鄱陽、程普は楽安、太史慈は海昏、そして治安最悪のエリアには、県の長官として周泰・韓当・呂蒙がそれぞれ放り込まれた。
建安十三年(208年)、孫権は総力をもって江夏を攻め、黄祖を討ち取った。周泰もこの最終決戦に従軍し、功績を挙げた。
赤壁の戦いと南郡攻略への従軍
建安十三年(208年)、赤壁の火蓋が切られ、孫権は周瑜・程普らを前線に送り出し、曹操の大軍を迎え撃つ。周泰も当然この一戦に加わり、指揮官の下で曹操軍を防いだ。
赤壁の大火のあと、周泰はすぐさま南郡戦へ転戦し、周瑜に従い曹仁を攻撃して南郡を攻略した。
荊州が平定されると、周泰は涔(岑)に駐屯した。
攻めに回れば先鋒、守りに回れば防壁、与えられた任務を黙々と遂行し、勝ちに必要な男としての評価を固めていく。
濡須口防衛戦と「傷の勲章」
翌建安二十三年(217年)、曹操が再び大軍で濡須口に襲来してくる。
孫権は呂蒙を総指揮官に、蔣欽を副将に任命して応戦体制を敷く。 そこに周泰も加勢して追撃をかけ、ついに曹操軍を撤退へと追いやった。
戦後、周泰は濡須督に任命され、平虜将軍へと昇進する。
だが、この昇進にはひと悶着があった。朱然、徐盛は、周泰が寒門出身(平民出身)であることを理由に、内心では快く思っていなかった。孫権は空気を察知し、直接現地へ乗り込む。砦に諸将を集め、宴を開く。
そして、宴の最中に孫権は周泰の上衣を脱がせ、肌をさらすと、そこには無数の傷痕。
孫権はひとつひとつ指さしながら尋ねた。
「これはどこで受けた?」
「これは?」
「これは・・・」
周泰は一つひとつ、淡々と答えていく。宣城。南郡。江夏。涔、そのたびに、戦と血と命の話が続く。孫権は最後に周泰の手を取った。そして涙をこぼし、こう言った。
「幼平。お前は孤の兄弟のために熊虎のごとく戦い、体には数十の傷。肌はもはや刻まれた石のようだ。孤にとって、お前は血族だ。呉の勲臣、その名に恥じぬ。」
その場で孫権は、御幘青縑蓋(青い絹で作られた蓋付きの冠)を賜り、鼓角を鳴らして退場を命じた。朱然と徐盛らはこれを見て深く感服し、この日から、誰も周泰の「格」を疑う者はいなくなった。
彼の体に刻まれたのは、ただの傷ではなく、呉という国そのものの戦歴だった。
関羽討伐と荊州奪還の戦い
建安二十四年(219年)、関羽が北上し、曹操軍の樊城・襄陽を包囲する。
孫権に呂蒙の策を実行し、呂蒙・陸遜・蔣欽・周泰・朱然らを動員して、荊州を奪い返す戦へ踏み出す。
このとき用いられたのが「白衣渡江」で呂蒙が軍装を脱ぎ、商人のふりをして静かに長江を渡り、関羽の背後を奇襲するという策だった。
周泰もこの作戦に参加し、関羽は敗走し討たれている。
戦後、孫権は蜀への備えとして周泰を奮威将軍・漢中太守に任命し、さらに陵陽侯に封じた。
功臣としての晩年と子孫の継承
黄武年間(222年前後)に周泰は没し、戦場で生き、戦場に死なず、その生涯を終えた。
その志は子へと継がれ、長男・周邵は騎都尉として軍を率い、濡須で曹仁と戦って戦功を立てる。
のちに石亭の戦いで曹休軍相手に功績を上げ、裨将軍に昇進するが、黄龍二年(230年)、周邵もまた世を去る。
陵陽侯の位は弟・周承が継ぎ、再び一族の旗は掲げられた。
父・周泰の背中を見て育った子らが、戦いの中に名を刻んでいく。それが、周泰という男の遺言だったのかもしれない。
後世の評価「創痍数十、膚は彫刻の如し」
周泰の全身に刻まれた傷、それは呉のために流した血の記録だった。
孫権は宴席でその痕を一つひとつ確認し、ついには手を取り涙をこぼした。
「幼平、卿は孤の兄弟のために熊虎のように戦った。孤は卿を骨肉のように思う。卿は呉の功臣である。」
その場で与えられた御幘青縑蓋は、名誉以上の恩義の象徴だった。
史家たちもこの忠勇を見逃していない。
『三國志』の陳寿は、周泰らを「江表の虎臣」と称し、孫家の信頼を一身に受けた存在と評した。
陸機もまた、「蔣欽・周泰らはその力を宣べた」とし、戦のたびに勇を示した事実を記す。
さらに時代を越え、明代の思想家・李贄は「呉の周泰は魏の許褚、蜀の趙雲にも劣らぬ」と断言し、三国を代表する勇将の一人に数えた。
参考文献
- 参考URL:周泰 – Wikipedia
- 三國志 : 呉書二 : 呉主傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書十 : 周泰傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書九 : 呂蒙傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 資治通鑑/巻068 – 维基文库,自由的图书馆
周泰のFAQ
周泰の字(あざな)は?
周泰の字は幼平(ようへい)です。
周泰はどんな人物?
勇猛果敢で忠義に厚く、主君孫権を命がけで守ったことで知られます。
その冷静さと胆力は群を抜いていました。
周泰の最後はどうなった?
黄武年間(222年前後)に没しました。
周泰は誰に仕えた?
孫策と孫権の両主君に仕えました。特に孫権からの信任は厚く、濡須督として重責を担いました。
周泰にまつわるエピソードは?
濡須口の戦いの後、孫権が彼の身体に残る数多の傷を指しながら涙を流し、「創痍数十、膚は彫刻の如し」と称えた逸話が有名です。
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