【1分でわかる】朱儁:黄巾の乱から董卓暗殺後まで戦い続けた後漢の名将【徹底解説】

朱儁

1分でわかる忙しい人のための朱儁の紹介

朱儁(しゅしゅん)、字は公偉(こうい)、出身は会稽郡上虞、生没年(?〜195年)
後漢末期に活躍した武将で、交趾の反乱鎮圧や黄巾の乱の平定で名を馳せた人物。
若年にして父を失い、貧困の中で母を支えながらも頭角を現し、次々に郡県の官職を歴任。
やがて交趾刺史として南方の大反乱を制圧し、黄巾の乱では皇甫嵩・曹操と共闘して潁川・南陽の諸地を転戦。
剛直な性格ゆえに董卓政権とたびたび衝突し、最期は郭汜に人質とされた屈辱から病没した。

👉 もっと知りたい方は続きをご覧ください

朱儁を徹底解説!黄巾平定と董卓政権への反抗、そして人質となった最期

若き朱儁、母を支えた門下書佐時代

朱儁のスタート地点は「人並み以下」だった。
父は早くに亡くなり、母が繒(絹布)を売って一家の生活を支える。どこにでもある貧困家庭の話だが、朱儁はここで諦めなかった。
彼は母への孝養ぶりで近所に名が知られ、やがて地元・上虞県の書佐(しょさ)として役場勤めを始める。
いまで言えば”市役所の若手職員”といったところだが、そこから這い上がる。

朱儁の転機は、県長・度尚に才能を見出されたことだ。
「こいつは使える」と確信した度尚は、上司の会稽太守・韋毅に彼を推薦。朱儁は郡の役人へと引き上げられる。
その後も新任の太守・尹端に主簿として起用され、さらに次の太守・徐珪には「孝廉」に挙げられ、ランクアップが続く。
そしてついに蘭陵の県令という独立した行政官のポジションにまで上り詰めた。

周囲のコネ持ちや裕福な家系を横目に、朱儁はひたすら能力と人望だけで道を切り拓いていく。

交趾の反乱を鎮圧せよ!七郡をまとめた軍事戦略

光和元年(178年)交趾、合浦の烏滸蠻が叛乱を起こし、九真や日南まで巻き込んで広域暴動に発展。
南海太守の孔芝までもが反旗を翻し、梁龍と組んで8万人の兵で郡県を攻め落とす。
もはや現地官吏には手も足も出ず、情勢は「南方完全崩壊」といった有様だった。

そこで白羽の矢が立ったのが朱儁である。
彼は交趾刺史として任命され、地元・会稽郡から兵を募り、総勢5千人で南方へ向かう。
数では圧倒的に劣るものの、朱儁はここで”軍略”を見せた。
二手に分かれて慎重に進軍し、交州境に着いてもすぐには攻めない。
まず間者を送り、敵情と民心を探り、同時に「朝廷が見てるぞ」と圧をかける心理戦。
これが功を奏し、民衆の動揺を引き起こす。

そして頃合いを見て、七郡の軍と合流し、一気に総攻撃。
梁龍を討ち取り、数万を降伏させるという劇的勝利を収める。
反乱はあっという間に鎮圧された。ついでに3年後の光和四年(181年)には、残党の烏滸蠻までも平定。
朝廷もこれには大喜びで、朱儁を都亭侯に封じ、中央に呼び戻して諫議大夫に任命する。
地方の叩き上げが、一気に中央政界へ飛び込んだ瞬間である。

黄巾の乱、潁川の波才との死闘

中平元年(184年)、中国史上でも最も有名な内乱の一つ、「黄巾の乱」が勃発する。
朝廷は血眼になって人材を探し、ここで朱儁に白羽の矢が立つ。
「持節・右中郎将」として任命され、左中郎将・皇甫嵩とタッグを組んで、潁川の黄巾軍に出陣。
後世から見れば安心のタッグチームだが、相手は数万の宗教暴徒である。

朱儁は初戦で波才に敗れる。だが、それで引き下がるような男ではなかった。
調子づいた波才はそのまま皇甫嵩の籠もる長社を包囲。だが、皇甫嵩はここで”火攻め”を敢行。
夜空を焦がす火の海に、黄巾軍は大混乱。そこへ朱儁と駆けつけた曹操が挟撃、波才軍は壊滅する。
この戦いで敵兵数万を斬り、朱儁は西鄉侯に封じられ、鎮賊中郎將に昇進した。

戦いは終わらない。朱儁はそのまま皇甫嵩とともに陽翟、西華へ転戦。
汝南・陳国に逃げ込んだ黄巾残党を一掃し、三郡に平穏をもたらす。
反乱の最前線を駆け抜けた朱儁は、文字通り”乱世の火消し役”として名を上げた。

南陽攻防戦:張曼成の残党、趙弘・韓忠との戦い

潁川の戦いで一躍名を挙げた朱儁に、次の任務が下る。今度の舞台は南陽。
黄巾軍の残党がまたぞろ頭をもたげ、宛城でうごめいていた。
きっかけは南陽太守・秦頡が張曼成を討ち取ったこと。その結果、残党が結集して趙弘を擁立、宛城に立て籠もったというわけだ。

朱儁は荊州刺史・徐璆、そして件の秦頡と組んで城を包囲。
だが二ヶ月経っても一向に落ちる気配がない。
朝廷内では「朱儁をもう引き上げさせたら?」という意見まで出る始末。
それを止めたのが司空・張温。彼だけは信じていた、「あの男、やるときはやる」と。

その言葉通り、朱儁は一気に攻勢を強めた。
まず趙弘を急襲して討ち取ると、今度は韓忠が後釜に座って抵抗継続。
朱儁はここで華麗な孫氏の兵法の”声東撃西”を披露する。


包囲を広げ、土山を築いて中を偵察しつつ、太鼓を鳴らして「西南攻めるぞ」と陽動。
だが実際は、彼自身が精鋭五千を率いて、城の東北側から電撃突入。
韓忠は戦意を喪失して、ついに降伏を申し出る。

戦後処理の信念:「降伏は許さぬ」朱儁の硬骨

韓忠が「やっぱムリっす。降伏させてください」と申し出たとき、朱儁の部下たちは一様に胸をなでおろした。
徐璆、秦頡、張超といった諸将は、降伏を受け入れて戦を終わらせようと前のめり。
だが、朱儁の言葉は真逆だった。
「調子がいい時は侵略し、負けそうになったら降伏?そんな都合のいい話が通るか。なあなあで受け入れたら、また立ち上がるだけだ」

敵は勝っても負けても厄介、ということだ。
だから彼は、敢えて力で叩き潰す選択をした。
だが、城内の黄巾軍は、降伏もできず、逃げることもできず、ならばと一致団結して死に物狂いの徹底抗戦を選ぶことになる。

朱儁は苦しんだ。攻めても落ちない。ならば一度、包囲を解いてみよう。
その瞬間を狙って飛び出してきた韓忠を、朱儁は逃さなかった。
油断した敵軍をバラバラに切り裂き、追撃数十里、戦死者は一万超え。
だが、それでも終わらなかった。

韓忠は捕まえたが、秦頡が「こいつ裏切るかも」と勝手に斬ってしまった。
そのせいで「降伏しても殺されるじゃん」と残党はパニック。
この集団ヒステリーの中で孫夏が新たな頭領として現れ、宛城の占拠は四代目を就任する。
しかしここまで来ると、朱儁も手慣れたもの。
185年1月11日、再度城を落とし、逃げた孫夏を西鄂の精山で討ち取り、残党もろとも一掃。
南陽の地に、ついに静寂が戻った。

黒山賊・張燕を退け、洛陽を守る河内太守時代

中平二年(185年)、南陽の乱平定の功績が認められ、朱儁は右車騎将軍に昇進、封爵は銭唐侯となり、特進の位も加えられる。
しかし、母が死去したため一時退官することになる。

その後に復帰し将作大匠・少府・太僕と内廷の官職を歴任しつつ、次なる修羅場に呼ばれる。
黒山賊・張燕が河内郡に進攻、さらに京師を脅かす動きを見せたのだ。
この局面で朱儁は河内太守に任命され、自らの家兵を率いて応戦。見事に張燕の進撃を退けた。

その後も朱儁のキャリアは続く。光禄大夫、屯騎校尉、城門校尉、河南尹と次々に官位を移しながら、都城防衛と内務に関与し、後漢官界のエリートコースを歩む。

董卓との暗闘:遷都阻止に動いた忠臣

初平元年(190年)、董卓が洛陽の実権を握ると、関東の諸侯が次々に挙兵。
「これはまずい」とビビった董卓は、長安への遷都を公卿たちに諮る。
だが、そこに真っ向から異を唱えたのが朱儁だった。
「天子の都を敵が怖いから逃げる? そんなのは前代未聞」

朱儁は繰り返し諫言し、遷都案を阻止しようとした。
その誠実さと名声は董卓の神経を逆撫でするが、一方でそれを利用しようと画策。
太僕に任命しようとするも、朱儁の”ガチ拒否”の姿勢に董卓も諦めざるを得なかった。

結局、董卓は遷都を強行。朱儁は洛陽に残り、関東の反董卓軍と内応を図るが、危険を感じて荊州へ逃れる。
その後、董卓が楊懿を河南尹に任命すると、朱儁は進軍してこれを追い出し、洛陽を奪還した。

だが都は荒れ果て、兵を維持できない。中牟に駐屯し、諸州に支援を要請。
陶謙らが応じ、朱儁は車騎将軍に推されて再び討董軍を起こす。
しかし董卓が派遣した李傕・郭汜に敗れ、中牟にとどまったまま動けなくなった。

諸侯の推戴、太師朱儁の復活劇

初平三年(192年)、董卓が王允らに討たれると、怒り狂った李傕・郭汜が長安を襲撃。
王允を殺害し、再び朝廷を手中に収めた。混乱の中、長安は再び修羅の都と化す。

その頃、朱儁は中牟にいた。
董卓討伐に失敗して以来、半ば隠棲状態だった彼を、再び推し上げたのが陶謙ら地方諸侯だった。
「名声あり、功績あり、そして董卓のシンパではない」と判断した彼らは、朱儁を太師に担ぎ出し、檄文(李傕ら逆臣を誅し、天子を救おう!)を諸州に飛ばす。

一方の李傕陣営も黙ってはいない。
太尉・周忠と軍師・賈詡の策で、逆に朱儁を朝廷に招こうとする。
名士を懐柔し、朝廷の正統性を装う戦術だ。
この招きに、朱儁の部下たちは「絶対罠ですって!」と大反対。
陶謙らの軍に合流しようという声も上がる。

だが朱儁は断じて言う。「天子の詔に背くわけにはいかぬ」
君臣の義を重んじると同時に、李傕ら内部の対立を突いて、逆転を狙っていた可能性もある。
朱儁はついに決断を下す。
陶謙の推戴を断り、詔に従って長安に入城。太僕に復任し、表舞台に返り咲く。

李傕・郭汜の内乱、人質としての屈辱、そして病死

初平四年(193年)、朱儁は周忠の後任として太尉に就任し、尚書の実務も掌握。
しかし翌年、日蝕を理由に罷免され、代わって驃騎将軍として関東鎮撫を命じられる。
だが、その矢先だった。

興平二年(195年)、李傕がかつての同志・樊稠を殺害。
これを契機に郭汜が疑心を爆発させ、両者は内戦状態に突入する。
長安は再び火の海と化し、出発を控えていた朱儁は身動きが取れず、大司農に留まるしかなかった。

混乱の収拾を図るべく、漢献帝は朱儁や楊彪ら十数名を郭汜のもとに派遣。
「せめて話し合いで解決を」と説得を試みるが、郭汜は聞く耳を持たず、なんと一行を人質にとる。
中でも、朱儁の受けた屈辱は甚大だった。

忠義の士として名を馳せた朱儁にとって、これは最大の辱めだった。
「己の信念を貫いてきたが、この結末か」
耐えがたい屈辱は、まさに命を削る毒だったのだろう。
その日のうちに体調を崩し、朱儁は静かに息を引き取った。

朱儁という人物像:義を重んじ、損して得を取る男

朱儁は、ただ戦で功を立てた武将ではない。
彼の人生の根幹には、義理と情があった。
それは口先の正義感ではなく、現実の損得を超えた”行動の倫理”だった。

たとえば、同郡人・周規が出世前に借金を抱えた時、朱儁は家の生計を支える織物を売ってまでその返済を肩代わりした。
当然、母親は激怒。だが彼はこう返す。「小さな損失は、大きな得の前段階。今は貧しくとも、いずれ豊かになるさ」と。

また、かつて仕えた上司・尹端が失政で死罪となった時、朱儁は密かに都へ赴き、官吏に金を贈って奏文を書き換えさせた。
結果、尹端は処刑を免れ、減俸で済んだ。だが尹端本人にはその事実すら知らせなかったという。

こうした「バレない義理」は記録に残りにくい。
だが朱儁の名が、ただの将軍ではなく”名臣”として語り継がれる理由は、まさにここにある。
地味で、損な役回りを引き受け、黙って誰かを助けていく。
朱儁とは、そんな静かで重い「徳の人」だった。

参考文献

関連記事

コメント

タイトルとURLをコピーしました