【1分でわかる】朱拠:呂壱事件と二宮の変、政争に翻弄された忠臣【徹底解説】

朱拠

1分でわかる忙しい人のための朱拠(朱據)の紹介

朱拠(しゅきょ)、字は子範(しはん)、出身は呉郡呉県、生没年は194年〜250年。
朱據と書くが、ここでは読みやすい朱拠で統一する。
呉の将軍・政治家で、文武に優れた人物として孫権に信任され、孫権の娘・孫魯育を妻に迎える。
隠蕃を推薦したことにより一時失脚するも、後に名誉を回復。呂壱の誣告により再び失脚しかけるが、潔白が証明された。太子孫和を支持したことで孫権の怒りを買い、最終的には孫弘の讒言によって処刑された。

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朱拠の徹底解説:戦場と宮廷を渡り歩いた忠臣の悲運

朱拠の若き日と武官としての登用

黄武年間、朱拠は五官郎中・侍御史を歴任し、朝廷の文武行政に携わるようになる。
こうした経歴は、彼が均衡感覚を持ち合わせた官人であったことを物語っている。
その後、孫権は呂蒙・張温ら才幹のあった臣の後継として朱拠に目を留め、彼を建義校尉に任命。
湖孰に駐屯させるという任を託したのだった。
つまり、朱拠は「文にも武にも通じる人材」としての信頼を得ていたのである。

孫権の娘と結婚し、寵愛を受ける

黄龍元年(229年)、孫権が皇帝を称し都を建業に移すと、三女・孫魯育を朱拠に嫁がせ、左将軍に任じ、雲陽侯の爵位を与えた。 これは彼への厚い信任を示す措置と言える。
ここで名実ともに「身内枠」の一角を占めるに至り、出世レースで勝ち組に載ったはずだった。 しかし翌年(230年)、魏からの亡命者・隠蕃を朱拠が繰り返し推薦したが、隠蕃が政変を企て失敗する事件が発生する。 朱拠に対して朝廷出禁という、きつい処分が下された。
一方、共同推薦者の廷尉・郝普は責を感じて自殺したという経緯がある。
その後、この禁令は解除されたが、朱拠にとっては一時的な失脚と寒い扱いを経験することとなった。

呂壱による誣告事件と朱拠の潔白

嘉禾五年(236年)、呉で大銭の鋳造が進められていた最中、工人の王遂が、朱拠の部隊に支給されるはずだった三万緡の大銭を盗んだ。
だが、この不祥事の矛先は、意外にも朱拠に向けられることになる。典校郎の呂壱が「着服したに違いない」と断じたのだ。
しかも呂壱は、朱拠の配下の責任者を捕らえて拷問し、死に至らしめてしまう。
朱拠はその死を深く悼み、自ら墓を建てて丁重に葬った。だが、呂壱はこれを逆手に取り、「わざわざ弔うとは、やましいからではないか」と言い募り、誣告を強める材料にしたのである。

孫権は朱拠に何度も問いただしたが、弁明せず自ら潔白を信じて拘禁を申し出た。裁きを待つ静かな姿勢は、いわば彼なりの抗議だったのかもしれない。
やがて典軍吏の劉助が真相を暴き、孫権に報告。ようやく冤罪が晴れたが、孫権の口から出たのは、「朱拠ですら誣告されるのなら、他の官僚や庶民がどうなるというのだ」という遅すぎる嘆きだった。

呂壱はこの事件をきっかけに処罰されたが、それだけでは終わらない。この一件が象徴するのは、呂壱の暴走とそれを許した空気、そして何より、鵜呑みにして判断を誤った孫権自身の責任だった。
朱拠の沈黙は、結果としてその矛盾を照らす静かな告発だったとも言える。

二宮の変における太子擁護と最期の諫言

赤烏九年(246年)、朱拠は驃騎将軍に昇進し、さらに翌年には丞相代行に任じられ、政権の頂に近づいた。
だがその頃、呉の宮廷は穏やかではなかった。太子・孫和と魯王・孫覇の後継争い、いわゆる「二宮の変」が進行していたからである。

朱拠はこの争いにおいて、一貫して太子・孫和を支持した。政道の正統を重んじ、感情に流されず、ただまっすぐに職責を果たそうとしただけである。
彼は諫言を重ねて太子の廃立に反対し続けた。進言の内容は熱意と誠意にあふれていたが、孫権の耳には届かず、むしろ逆鱗に触れる結果となった。

赤烏十二年(249年)、孫和は廃され、孫覇も自害へと追い込まれる。
翌250年、朱拠は諫言の責を問われ、新都郡の丞へと左遷される。
この一連の流れは、もはや「どちらの派閥が正しかったか」という次元ではない。
明らかに問題だったのは、孫権が政局を制御できず、忠臣の進言を退け続けた点にある。

無念の死と一族の悲劇

建衡二年(250年)、朱拠は新都郡丞へ左遷されることになったが、まだ赴任前の段階だった。
そんな彼に引導を渡したのが中書令・孫弘である。孫権が病に臥せっていたことを利用して、彼は独断で詔を起草し、朱拠に自死を命じた。
天子の名を借り、忠臣を葬る。そこにはもはや政治の正義など存在せず、あるのは権力と私怨だけだった。
享年五十六。あまりに誠実に生きた結果が、これである。

だが、この悲劇は朱拠一人にとどまらなかった。
長男の朱熊は虎林督として兵を預かっていたが、孫亮の代に全公主の讒言によって処刑された。
次男の朱損もまた、孫峻の妹と婚姻関係にあったにもかかわらず、同様の理由で命を落とす。
政治の信頼が崩れたとき、忠臣の家系は保護されるどころか、粛清の対象となる。

かろうじて生き残ったのは娘の朱皇后であった。孫休の皇后となり、名は後世に残ったが、それが果たして幸福だったかは誰にもわからない。
朱拠という人物は、まっすぐな忠義と清廉さゆえに命を落とし、その血縁すらも政争に飲み込まれた。
正義が政治の都合によって葬られるとき、忠臣の死は国そのものの病巣を暴く鏡となる。
その鏡を、孫権は正面から見つめることができただろうか。

参考文献

FAQ

朱拠の字(あざな)は?

朱拠の字は子範です。

朱拠はどんな人物?

孫権に重用された文武兼備の武官で、寛仁で冷静な政治姿勢を貫いた人物です。

朱拠の最後はどうなった?

250年頃、二宮の変で太子支持を理由に誣告され、病中の孫権の詔により処刑されました。

朱拠は誰に仕えた?

主に呉の君主・孫権に仕えました。

朱拠にまつわるエピソードは?

部下への不当な誣告事件で潔白を訴え続け、最終的に事件の真相が判明したことが知られています。

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