【1分でわかる】朱桓:曹仁を退け、石亭で魏軍粉砕した孫呉の勇将【徹底解説】

朱桓

1分でわかる忙しい人のための朱桓の紹介

朱桓(しゅかん)、字は休穆(きゅうぼく)、出身は呉郡呉県、生没年(177年~238年)

朱桓は東漢末から三国時代にかけて孫呉に仕えた勇将である。若くして孫権に従い、山賊討伐や治安維持で功績を立て、後に濡須の戦いで曹仁の大軍を撃退して名を高めた。
さらに石亭の戦いでは陸遜や全琮と協力し、曹休の大軍を破るなど、魏の侵攻を幾度も防ぎ呉の防衛を担った。

その武勇は「勇烈」で知られ、部下や民に恩情を注ぎ、軽財重義の人物として尊敬を集めた。
反面、気性が激しく、他人の指揮下に置かれることを嫌った。
前将軍まで昇進し、青州牧を兼任したが、家には財を残さず清貧のまま没した。
死後、孫権が葬儀を援助したことはその人柄を示している。子の朱異が爵位を継ぎ、後に呉の将として活動した。

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朱桓を徹底解説!曹仁撃退から石亭大勝という表の顔と、苛烈と仁愛を併せ持ち強識の記憶力を誇る裏の顔

朱桓の家系と孫権政権下での山賊討伐の初任務

朱桓は呉郡呉県出身で、地方豪族として若くから軍務に関わることになった。 孫権が曹操により討虜将軍とされた頃、朱桓はその麾下で仕官した。
彼はまず余姚県長に任命され、田舎の役人からスタート、田舎の役人からスタート、これが後に「勇烈」と呼ばれる武将の最初の肩書きである。 やがて蕩寇校尉に昇進し、二千の兵を預けられると、散り散りになっていた兵士を呉郡と会稽でかき集め、気づけば一年で一万を超える兵力を揃えるに至った。
その後、丹陽や鄱陽の地で山賊が好き放題に暴れ、城を襲って官吏を殺すほどの混乱が広がっていたが、朱桓はそんな彼らを片っ端から討ち倒して平定してしまう。
これらの功績によって裨将軍に昇進し、新城亭侯の爵位までついてきた。

濡須の戦いで曹仁を撃退

朱桓の最大の見せ場のひとつが、濡須の戦いである。 周泰の後を継ぎ濡須督となった彼は、兵力わずか一万で曹仁の大軍を迎え撃つことになった。 曹仁は数万の兵を率い、大司馬として威風堂々と進軍する。正面から見れば勝ち目などない状況だった。
しかも曹仁は「東を攻めるぞ」と声高に叫びつつ、羨溪へ別動隊を動かした。朱桓は油断なく五千を派遣して防がせたが、直後に本隊が濡須城を襲うとの報が届く。 五千を戻そうと急使を走らせたが、間に合わず、ただでさえ兵力に差がある中、残ったのは五千の兵のみで、城は半数の兵で守ることになった。

普通なら絶望的な状況だが、朱桓は平然と兵を集めて言い放つ。 曹仁など勇もなく、兵は疲れている。こちらは城を頼り、大江と山陵を背にしている。曹丕が来ても恐るるに足らず。まして曹仁ごとき、何を憂えることがある!」と。ようは「数なんて関係ない、あっちがザコだ」と豪語した。
絶望を希望に変えたこの言葉で、兵たちは気迫に押され、一気に士気が高まった。

朱桓はさらに策を弄した。城の旗を倒し、太鼓も鳴らさず、外から見れば守りが緩んでいるように見せかけたのである。 曹仁はこれを見て「好機」とばかりに息子の曹泰を差し向け、常雕・諸葛虔・王双らも油船で濡須中洲を襲わせた。 そこには呉兵の家族が避難しており、曹仁は心を揺さぶろうとしたのだ。
だが朱桓は曹泰を迎撃し、厳圭と駱統を差し向けて常雕や諸葛虔を討ち、王双を捕らえる。

さらに朱桓は火攻を仕掛け、敵陣を焼き払い、曹仁の軍は大混乱に陥り、数千もの兵が江に落ちて溺死する。 もはや支えきれず、曹仁は軍をまとめて退却した。
この勝利により朱桓は名声を大いに高め、嘉興侯に封じられ、奮武将軍に昇進し、さらに彭城相を兼任することになった。

石亭の戦いと魏大軍撃破

濡須で名を挙げた朱桓に、もうひとつ大舞台が用意されていた。
黄初七年(228年)の石亭の戦いである。 きっかけは鄱陽太守・周魴の「偽りの降伏」だった。彼は曹魏に寝返るふりをして曹休を誘い出す。案の定、曹休はまんまと罠にかかり、十万の大軍を率いて皖城へと乗り込んできた。
呉側は陸遜が全軍を統べ、朱桓と全琮がそれぞれ三万を率いて並び立った。兵数でいえば魏の方が圧倒的に多い。だが、数が多ければ勝つというほど戦は甘くないことを、朱桓は誰よりも知っていた。

朱桓は「夾石と挂居に兵を伏せ、曹休を一気に捕らえるべし。そうすれば寿春も手に入り、淮南を掌中に収められる」と進言した。 だが陸遜は慎重で、この奇襲案を却下した。朱桓の胸の内には「惜しい」という思いが渦巻いたに違いない。

結局、呉軍は陸遜、朱桓、全琮の三路に分かれて、魏軍を徹底的に打ち破る。 結果、討ち取られた兵は一万を超え、牛馬や車、軍資器械までも根こそぎ奪われた。
曹休は面子を潰され、十万の大軍は敗走。朱桓の進言どおりに動いていれば、歴史はさらに劇的に変わっていたかもしれない。それでもこの勝利が呉の国力を大いに支えたのは間違いない。

濡須の戦いと石亭の戦いは、朱桓の強みである、大胆な奇策を提案する智と度胸、そして実際の戦場で魏軍を粉砕する武勇を披露した。 その両方を兼ね備えていたからこそ、彼は「勇烈」の二字で記録に残ったのである。

廬江遠征と魏軍との対峙

朱桓は前将軍へと昇進し、さらに青州牧を兼任して節を授けられた。 名実ともに呉の中核を担う将軍の一人として、その地位を不動のものとした。そんな彼の次の舞台は廬江である。

嘉禾六年(237年)、魏の廬江主簿・呂習が内応を約し、「城門を開けて迎え入れる」という計画を持ち込んだ。 孫権は色めき立ち、全琮を大将に大軍を派遣し、朱桓もこれに同行した。 だが、この計画は露見し、呉軍は城を得るどころか撤退を余儀なくされた。

撤退中、渓流を渡る場面で魏の廬江太守・李膺が軍を率いて待ち構えていた。 しかし殿軍を務めていたのが朱桓であると知るや、李膺はその名と気迫に気圧され、攻撃を仕掛けることなく退いた。 朱桓の存在そのものが、一軍の防壁となったのである。

だが、この遠征では彼の苛烈な性格が露わになる。 孫権は偏将軍の胡綜を派遣して軍務に口を出させ、さらに全琮は戦果を得ようと各将に兵を割り当てて周辺を襲撃させようとした。 すでに全琮の指揮下に置かれることに苛立っていた朱桓は、この計画を耳にして怒りを抑えきれなくなる。
やばいと思った全琮は「これは胡綜の提案だ」と言い訳したが、それが逆効果となった。 朱桓は胡綜を呼びつけたが、部下が軍営の前で彼を止めてしまう。 胡綜が現れなかったことで、朱桓はその部下が通報したと決めつけ、怒りに任せて殺してしまった。 さらに補佐官が諫めると、その者までも斬り捨ててしまう。
事件の後、朱桓は「発狂した」と託けて建業に戻り療養した。孫権はその功績を考慮し、ついに罪を問わなかった。戦場では無敵の猛将であっても、組織の中では手に余る存在だったのである。

晩年と死

朱桓の生涯は、戦場での華々しい勝利と、組織の中での苛烈さが交錯するものであった。その終幕は意外なほど静かだった。
赤烏元年(238年)、彼は病に伏し、そのまま62歳で世を去った。勝利に次ぐ勝利を積み重ねた猛将にしては、あっけない最期である。

だが彼の家には財産がほとんど残されていなかった。戦場では「勇烈」の二字で名を轟かせながら、私生活は清貧のままだったのだ。
この状況に心を動かされたのが孫権である。彼は塩五千斛を下賜し、葬儀を援助した。 戦場で大功を挙げた将軍が、自らの葬儀をも整えられぬほど財を持たなかったという事実は、朱桓という人物の一面を鮮やかに物語っている。

死後、その爵位は子の朱異が継いだ。父が切り拓いた名声を背負い、彼もまた孫呉の将として歩むことになる。

人物像と性格

朱桓の人物像を語るなら、まず彼の「人への優しさ」を外すことはできない。
余姚県長の時代には疫病が流行し、穀価が高騰して民が苦しんだ。朱桓は良吏を派遣し、薬と食料を直接民に届けさせた。兵士に対しても同じで、俸禄や財産を彼らやその家族と分け合い、生活を支えた。病に倒れたとき、多くの部下やその親族が心から悲しんだのも当然である。

また彼は「強識」と評されるほどの記憶力を持っていた。数万人に及ぶ部下の妻子まで顔を忘れないという異常なまでの記憶力は、ほとんど怪物的ですらある。
加えて、財を軽んじ義を重んじる姿勢は徹底しており、晩年に家に財を残さなかったこともその証拠といえる。

一方で、朱桓の「苛烈さ」もまた彼を形づくる要素である。彼は他人の指揮下に置かれることを極端に嫌い、戦場で自由に軍を動かせないことに憤った。廬江遠征で全琮や胡綜と対立したときの暴発は、その象徴である。
つまり、戦場では大軍を飲み込む度量を見せながら、組織の規律に縛られると爆発してしまう、矛盾した気質を持っていたのだ。

朱桓は「民を救う仁者」「戦場で猛り狂う将」「規律を嫌う反骨者」という三つの顔をあわせ持った、実に複雑な人物であった。

後世の評価

『三国志』の著者・陳寿は「朱桓は性において前を護り、人の下に立つことを恥じ、自由を奪われると憤激した。しかし軽財貴義であり、記憶力は尋常ならざるものがあった」と評している。つまり、扱いづらい性格を認めつつも、その人間的な厚みを肯定したのである。

西晋の文人・陸機は朱桓を周瑜・呂蒙・魯粛らと並べ、孫呉を支えた腹心の一人に数えた。 彼にとって朱桓は、国を守るため威を振るう猛将の代表格だった。
また南宋の学者・張栻は「自古より長江の險に拠った者は、江南にあっても江北で勝利を得てきた。朱桓が偏将でありながら曹仁の全軍を退けたのは、その好例である」と述べ、濡須での戦功を特に高く評価している。

参考文献

朱桓のFAQ

朱桓の字(あざな)は?

朱桓の字は休穆(きゅうぼく)です。

朱桓はどんな人物?

朱桓は勇烈で知られる武将であり、部下や民を大切にし、軽財重義を重んじた人物です。

朱桓の最後はどうなった?

赤烏年間に病没し、享年62歳でした。財を残さず清貧で没したため、孫権が葬儀を援助しました。

朱桓は誰に仕えた?

朱桓は孫権に仕え、孫呉の将軍として活動しました。

朱桓にまつわるエピソードは?

濡須の戦いで曹仁の大軍を少数で迎撃し、火攻で大勝したことが代表的な武勇譚です。

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