【1分でわかる】朱異:朱桓の子で文才と武功を誇った悲劇の末路【徹底解説】

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1分でわかる忙しい人のための朱異の紹介

朱異(しゅい)、字は季文(きぶん)、出身は呉郡呉県、生没年(?~257年) 三国時代の呉に仕えた将軍である。父は前将軍の朱桓で、幼い頃から張純や張儼と並び文才を称賛された。父の病没後に嘉興侯を継承し、やがて偏将軍・揚武将軍・鎮南将軍と累進していった。魏との戦いでは赤烏四年(241年)に樊城外囲を破り、また廬江太守文欽の七屯を撃破するなど武勇を示した。赤烏十三年(250年)には文欽の偽りの降伏を看破し、国境防備に功があった。建興元年(252年)には東興の戦いで水軍を率い、魏軍を大破したことでも知られる。だが太平二年(257年)、諸葛誕の寿春反乱を救援する際に連敗を喫し、撤退を主張して孫綝の命に逆らったため、九月に殺害された。呉の将軍として才を示しながら、時運に恵まれず悲劇的な最期を迎えた人物である。

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朱異を徹底解説!文才と戦功を誇った呉の将軍、東興の勝利から寿春の悲劇まで

文才を持つ若き武将の登場

朱異は、父・朱桓の任を受けて郎官に任じられた。 若年にして名を知られたのは、武ではなく文によってである。張純・張儼と並び称され、文章の才は一時代の若手知識人の象徴でもあった。

あるとき、驃騎将軍・朱拠のもとを三人が訪れた。朱拠はその名声を聞き、即興の詩を詠ませて才を試した。朱異らが筆を走らせると、朱拠は目を見開き、「なるほど、言葉に才が宿っている」と喜んだ。 武将の道に進む者にとって、筆が立つことは意外に思えるかもしれないが、呉の世ではそれが評価につながった。

嘉禾六年(237年)、父・朱桓が病のため建業で療養を受けることとなり、朱異は騎都尉としてその軍を代行する。
翌嘉禾七年(238年)、朱桓が死去すると、朱異は父の爵位である嘉興侯を継いだ。 こうして朱異は、父の名声と功績を背負いつつ、将軍としての道を歩み始めることとなる。

魏との戦いと初期の功績

赤烏四年(241年)、朱異は呂拠とともに朱然の指揮下に入り、魏の樊城を攻撃。外囲を突破するという成果を挙げた。 この功績により、朱異は偏将軍に任命され、軍中での評価はさらに高まっていった。

だが、戦は続く。魏の廬江太守・文欽は六安に陣を張り、多くの屯営を設け、亡命者や反乱者を吸い寄せる厄介な存在となっていた。 ここで朱異が動く。二千の兵を率い、要道に設置した七つのうち全ての屯営を破り、数百の敵兵を斬るという鮮やかな戦果を挙げた。 この一撃で、揚武将軍へと昇進し、朱異の名はさらに高く掲げられる。

やがて孫権との戦略会談の場が設けられる。朱異は持論を展開し、孫権の意を見事に射抜いた。 これには孫権も感心し、朱据にこう漏らしたという。「季文には胆力ありと聞いていたが、会ってみたら、それどころではなかった」 評判以上、それが朱異の登場だった。

文欽の偽降を看破する

赤烏十三年(250年)、魏の将軍・文欽が呉に降伏を装い、朱異に「自ら迎えに来てほしい」と密書を送ってきた。
まるで芝居じみた招待状だったが、朱異はこの裏を見抜いた。
密書を受け取るやいなや、「これは計略」と直感し、ただちに孫権へ報告する。
孫権は慎重な対応を選んだ。「もし誠意ある降伏なら受け入れよう。ただし疑わしきは備えを怠るな」と述べ、朱異と呂據に兵二万を与えて国境に布陣させた。
結果として、文欽は降伏せず、朱異の見通しの的確さが証明された。

見た目の穏やかさに惑わされず、冷静に真偽を見極める。 朱異の剣は刃よりも先に、相手の胸中を切り裂いていた。

東興の戦いと合肥新城の戦い

建興元年(252年)、朱異は鎮南将軍に昇進し、呉の南方防衛を担う立場となった。

その年、魏の胡遵・諸葛誕らが大軍を率い、東興に迫る。呉は太傅・諸葛恪が四万の兵を率いて迎え撃った。
大軍を頼った魏軍が油断している中、丁奉は軽装で奇襲を断行し、敵陣はたちまち崩れ、呂拠らの追撃と水軍担当・朱異の浮橋攻撃が続いて、魏軍は大混乱に陥る。
やがて魏軍が撤退を図ったとき、兵の重みで浮橋は崩れ、水面には甲冑のままもがく魏兵が溢れた。 敵の大半が溺れ、軍勢は総崩れとなった。
この戦で朱異は大きな戦功を挙げ、名声は一気に高まった。

だが、次なる戦いは異なる結末を迎えることとなる。建興二年(253年)、朱異は諸葛恪の北伐に従い、合肥新城を包囲する。
しかし堅城は落ちず、朱異は進言した。「豫章へ兵を返し、石頭城を急襲すれば数日で勝利できましょう」

しかし、諸葛恪はこの意見を退け、書を送って諭すが、朱異はその書を地に投げ捨て、「私の策を捨てて、つまらぬ者の言を用いるとは!」と憤慨した。
この反発に激怒した諸葛恪は、朱異の兵権を剥奪し、建業へ帰還させた。

東興では勝利の波に乗った将が、合肥の陣では波打つ激情に足を取られた。
戦上手であっても、上を見誤れば、剣は自らを傷つけるのであった。

寿春の諸葛誕支援と悲劇の最期

太平二年(257年)、魏の征東大将軍諸葛誕が寿春で反乱を起こし、呉に援軍を求めて人質を送ってきた。
孫綝はこの知らせを喜び、朱異を大都督に任じ、丁奉らとともに兵を率いて救援に向かわせた。
しかし朱異は安豊で州泰に敗北し、さらに再び丁奉らと出撃するも、石苞・州泰らの軍に撃破される。魏の太山太守胡烈は都陸を襲撃し、呉軍の糧秣を尽く焼き払った。
朱異の軍は食糧を失い、やむなく葛の葉を食べて飢えをしのぐほど困窮した。撤退を余儀なくされたが、孫綝はなお三万の兵を与え、再度死戦を命じた。朱異はこれを拒んだため、太平二年九月己巳の日(257年9月26日)、孫綝の怒りを買い処刑された。朱異はここに非業の死を遂げたのである。

戦場で命を懸けた将軍が、結局は同じ陣営の専横によって命を奪われる。名将朱桓の名に恥じない活躍を見せながらも、父譲りの誇り高さが、最後の悲劇を招いてしまった。

参考文献

朱異のFAQ

朱異の字(あざな)は?

朱異の字は季文(きぶん)です。

朱異はどんな人物?

朱異は幼少より文才に優れ、戦場では果断な判断力を発揮する将でした。

朱異の最後はどうなった?

太平二年(257年)、寿春の諸葛誕を救援中に敗戦し、孫綝の命令に従わなかったため処刑されました。

朱異は誰に仕えた?

朱異は呉の孫権・孫亮の時代に仕えました。

朱異にまつわるエピソードは?

赤烏十三年(250年)、魏の文欽の偽降を見抜き、孫権に報告して国境を守りました。

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