【1分でわかる】鍾離牧:「真の忠臣」が出世できなかった呉後期の政情【徹底解説】

鍾離牧

1分でわかる忙しい人のための鍾離牧の紹介

【鍾離牧(しょうりぼく)、字は子幹(しがん)、出身は会稽郡山陰県、生没年(?~?)

三国時代の呉に仕えた将軍で、清廉と勇略を兼ね、反乱討伐で武勲を立てた人物である。
若い頃から清廉さで名を知られ、永興県で農耕をしていた際に土地を横取りされても争わずに譲り、逆に罪人を赦すように求めたことで名声を高めた。
その後、郎中として仕官し、太子孫和の太子輔義都尉となり、南海太守に任じられると盗賊を討伐し、十余年活動していた集団をも招安した。
太平二年(257年)、会稽南部や鄱陽・新都で山越が反乱すると監軍使者として討伐にあたり平定し、功績によって秦亭侯に封じられ、越騎校尉となった。
蜀の滅亡後、平魏将軍・武陵太守となり五谿夷の反乱を鎮圧した。
その後も公安督・濡須督を歴任し、再び武陵太守を務めたが任地で没した。死後、家には財産が残らず、士民から惜しまれた。

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鍾離牧を徹底解説!反乱討伐の立役者。盗賊討伐から山越反乱平定・武陵守備の功績

若き日の清廉な行いと名声の始まり

鍾離牧は、後漢の魯相・鍾離意の七代目の子孫である。父の鍾離緒は楼船都尉、兄の鍾離駰は上計吏を務め、謝讃や顧譚と並んで評価された名士であった。家柄と血筋は申し分ないが、幼い頃は無口で愚鈍と評され、人々の目には光るものがなかった。

ただし兄だけは違った。「牧は必ず私を超える。軽んじてはならない」と断言していた。多くの人々が疑いながらも、時が証明することになる。

若き日の鍾離牧は永興に移り、二十余畝の荒地を自らの手で開墾し、稲を育てた。やがて収穫を迎えた頃、一人の県民が現れ、その土地は自分のものだと主張した。牧は争わず、「荒地を耕しただけです」と言って収穫物を譲った。

この話を知った県令は加害者を捕らえ、法により処断しようとした。だが鍾離牧はこれを止めてくれるよう願い出る。 しかし、県令は「あなたは義を行おうとしているが、私は法によって民を導かねばならない。」と諭した。 鍾離牧は「私はこの地に好意で迎え入れられた者です。わずかな稲のことで人命が奪われるのなら、私はここにとどまることはできません」と言い、荷をまとめて立ち去ろうとした。

これに慌てた県令は自ら鍾離牧を引き留め、県民を赦免した。恥じ入ったその県民は妻子とともに六十斛の米を搗き、それを返しに来たが、鍾離牧は門を閉じて受け取らなかった。その米は道端に置かれたが、誰も手をつけなかったという。

この出来事は「譲る者の徳」として人々に語られ、鍾離牧牧の名は知られるようになる。儒者の徐衆は「牧の行動は立派ではあるが、仁義そのものとは違う」と評した。つまり、行いは規範的でも、その真意に疑問が残るという。しかしこの清廉さと節義は、多くの人々に強い印象を残した。

南海太守として盗賊討伐

赤烏五年(242年)、鍾離牧は郎中から太子輔義都尉に任命され、太子孫和の補佐を務めた。その後、南海太守に昇進し、南方統治という「お荷物最前線」を預かることになる。
南海郡は古くから盗賊が盛んで、民を悩ませていた。鍾離牧は着任早々、治安維持が始まった。

『会稽典録』によれば、高涼県に拠る盗賊・仍弩らが官民を害していたが、鍾離牧は郡境を越えて出兵し、わずか十日で降伏させた。また、揭陽県の賊・曾夏ら数千人は十年以上活動を続け、歴代の太守が侯爵位や絹千匹を懸賞にしても捕らえられなかった。
しかし鍾離牧、彼は拳を固めて戦う男ではなかった。使者を遣わして「ここで暮らせば糧もあり、役も名誉も与えよう」と言葉で説得した。これに応じて曾夏らは皆帰順し、以後は反乱を起こすことはなかった。力と恩信を兼ね備えた統治で、南方は大いに安定した。

この功績は同僚の間でも称えられた。始興太守の羊衜は太常の滕胤に宛て、「鍾離牧をなめていた。彼は南海で威信と恩を兼ねた将だ。智勇清廉、その佇まいは古人そのもの」と書き送っている。
鍾離牧は南海太守として四年ほど南海にいた牧は、やがて病により職を辞し、中央に戻る。丞相長史、司直、中書令といった要職を歴任し、政務の海に漕ぎ出す。

南部、鄱陽、新都の乱平定

太平二年(257年)、会稽郡南部、鄱陽、新都にて山越人が大規模な反乱を起こした。
「反乱といえば鍾離牧」と、朝廷は鍾離牧を監軍使者に任命し、廷尉・丁密と歩兵校尉・鄭冑と共に出陣する。

さっさと反乱を鎮めると、首領である黄乱と常俱は「我ら、鍾離牧に敵せず」と呉に服属を近い、部隊を差し出し、兵役に充てられた。

この戦功により、鍾離牧は秦亭侯に封じられ、越騎校尉の任を受ける。

蜀滅亡後の五谿の乱

永安六年(263年)、蜀漢が魏によって滅ぼされると、呉と蜀の境界にあたる武陵郡にまで動揺の波が押し寄せた。
中でも、五谿に居住する夷族は「魏に寝返るのでは」と疑われ、急ぎ鎮圧と安撫が求められた。そこで白羽の矢が立ったのが、我らが鍾離牧。平魏将軍・武陵太守に任じられ、またも辺境の火消しへと派遣される。

先手を打っていたのは魏である。漢葭県長・郭純を勝手に「武陵太守」と名乗らせ、住民を赤沙に移し、五谿夷を誘導した。結果、夷族の一部が酉陽県を襲撃する事件が起き郡内は震え上がった。

鍾離牧は朝廷の役人に「さて、どうすべきか」と尋ねた。すると役人ら、机の前で難しい顔を作ってこう言った。「夷族は武装しており、地の利もある。下手に刺激せず、教化で和らげましょう。」
それを聞いた鍾離牧は「すでに火事が起きているのに説教は効かぬ」と一言。さらに続けて、「今ここで焼け広がれば、火消しも教化も手遅れだ」と述べ、「従わぬ者は軍法あり」と軍律を掲げて全軍を動かした。

撫夷将軍・高尚が「かつて潘太常(潘濬)は五万の兵で戦った。今、三千では危険だ」と慎重論を唱えると、鍾離牧は「非常の時に旧例を持ち出すな」と却下し、決意を曲げなかった。

軍は昼夜兼行で二千里を踏破、険阻をものともせず塞上に侵入した。百余名の首領と党与を討ち取り、郭純の部隊は瓦解し、五谿の乱はあっさりと平定された。

力と胆、決断と速さ。鍾離牧は「遅れることこそ最大の失策」と知っていた。五谿の煙は彼の一陣の風で吹き消され、呉の境界は再び静寂を取り戻した。

濡須督・朱育と沈黙する策士の対話

五谿の乱を平定した後、鍾離牧は公安督・揚武将軍に昇進、都郷侯に封じられた。そして今度は濡須督。呉と魏がにらみ合う、まさに火薬庫のど真ん中に座ることになった。
『会稽典録』によれば、この時すでに鍾離牧は胸中に進攻策を秘めていたが、朝廷には一言も漏らさず沈黙を貫いていたという。

ある日の酒席、侍中・東観令の朱育が盃を片手に語りかけた。
「あなたの功績は他に比類なし。邑を越え、さらに侯に進まれて然るべきでしょう」

鍾離牧は、笑いながらこう返す。
「功は薄く、恩は厚い。不足を恨むことではない。ただ、国は私をよく知らず、朝廷には私を快く思わぬ声がある。だから私は黙しているのだ。
本来ならば策を立て、進撃して恩に報いたい。しかし今は沈黙が最良の忠義なのだ」

さらに鍾離牧は、杯を掲げつつ自嘲めいた比喩を口にした。
「事を成すより、賢者を得るほうが難しい。得たところで、用いねば意味がない。今の国家が私を知るのは、秦の昭王が白起を知ったほどではない。私を妨げる者は、范睢以上の切れ者さ」

かつて陸遜も潘濬と共に、数千の兵を率いて戦った経験を引き合いに出し「それは国家の威光があったからこそ。私の手柄など大仰に語るものではない」と静かに言う。
誇らず、語らず。策を口にすれば、敗北の責を負う。だからこそ、言葉ではなく沈黙で忠を尽くす。それが、鍾離牧の矜持だった。

最期と後世の評価

その後、鍾離牧は前将軍に任じられ、節を仮されて再び武陵太守として任地に赴いた。国境の険に向き合いながら、その政を執っていたが、任務のさなか病に倒れ、そのまま在任中に没した。
その遺宅に財産はほとんど残らず、士民はその清廉さと治績を偲び、口々に惜しんだという。

子の鍾離褘が爵位を継ぎ、軍を率いて父の跡を継いだ。次子の鍾離盛もまた慎み深く礼を重んじ、尚書郎として仕えた。
弟の鍾離徇は偏将軍として西陵を守ったが、監軍使者・唐盛と築城地をめぐって意見が割れ、その策は採用されなかった。
やがて晋が信陵に城を築き、呉が滅亡へと向かう時勢のなか、鍾離徇は水軍督として最後の戦に出陣し、力尽きて戦死した。

人柄について、陳寿は『三国志』で「蹈長者之規(古の賢人の道にかなっていた)」と評し、兄の鍾離駰は「牧は必ず我に勝る」とかつて語っていた。
始興太守・羊衜も「威と恩を兼ね、智勇明らかで、操行は清く、古人の風格がある」とその徳を称えた。
一方で蕭常は「功を矯激して名を取るところもあったが、その志は尚ぶべきものがある」と、やや辛口に評している。

彼は名誉でも金でもなく、やるべきことを黙々とやる。もう少し早く時代に登場していればと思う人物であった。

参考文献

鍾離牧のFAQ

鍾離牧の字(あざな)は?

鍾離牧の字は子幹(しがん)です。

鍾離牧はどんな人物?

鍾離牧は清廉で剛毅な人物であり、若い頃から義を重んじ、武将としては智勇兼備と評されました。

鍾離牧の最後はどうなった?

鍾離牧は再び武陵太守を務めている任期中に没し、家には財産を残さなかったため士民から惜しまれました。

鍾離牧は誰に仕えた?

鍾離牧は呉に仕え、孫権の時代から太子孫和の補佐、さらには南海太守や武陵太守を歴任しました。

鍾離牧にまつわるエピソードは?

若い頃、稲を横取りされた際に自ら譲り、加害者をも赦すよう請うたことがあり、この清廉な行為によって名声を高めました。

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