1分でわかる忙しい人のための向寵の紹介
向寵(しょうちょう)、字は不明、出身は襄陽宜城、生没年(?~240年)
蜀の将軍・向寵は、諸葛亮が《出師表》で後主に推薦した数少ない人物のひとりである。
劉備が敗れた夷陵の戦いでは、壊滅的な状況の中、彼の部隊だけが秩序を保って撤退し、その統率力を高く評価された。
その後も中都督、中領軍と要職を歴任し、軍の宿衛を預かる立場として重用され続けたが、最期は漢嘉郡の反乱討伐で戦死。
光ある戦果より、地に足のついた軍務の遂行で信を得た、堅実な武将の生涯だった。
向寵を徹底解説!信頼された宿衛の要
劉備の敗戦を支えた男:夷陵から見えた向寵の底力
向寵(こうちょう)、字は不明、出身は襄陽宜城、生没年(?~240年)
建安二十四年(219年)、劉備が関羽の死をきっかけに、呉にブチ切れて攻め込んで、逆に火だるまにされたという「夷陵の戦い」で、戦場には全滅寸前の部隊と、逃げる兵と、そして整然と撤退する謎の部隊があった。
その謎の部隊こそが、向寵の率いる部隊である。
炎に包まれ、指揮系統が混乱し、友軍すら敵のように錯綜する戦場において、彼の隊のみが冷静だった。
これはもはや武勇というより、訓練の賜物である。誰よりも部下を律し、隊をまとめ、動揺を抑える能力があったということだ。
この整然とした撤退を目にした劉備が「能」と評したのも頷ける話で、地味だが確実な戦功が、向寵という男の本質を物語っている。
多くの将が派手に敗れ去るなか、一人だけ静かに「次」を見据えていたような、そんな堅牢さを感じさせる場面だった。
諸葛亮も後継者に推した「軍事に明るい名将」
建興元年(223年)、劉禅が即位すると、向寵は中都督に任命され、都亭侯に封じられる。
形式だけの称号ではなく、実際に皇帝の身辺を守る宿衛軍を預かる役職であり、政権中枢の軍事を担っていた。
このころ、諸葛亮が漢中へ出陣する際にしたためた《出師表》の中で、向寵は「性行淑均、曉暢軍事」「事無大小、悉以咨之(彼は品性が穏やかで公平なので、軍の大小の事柄すべてを彼に相談せよ)」と推挙されている。諸葛亮からの信用が限界突破している。
そこには私情はなく、ただ「現場を任せられる者は誰か」という実務的な視点があった。
どれだけ立派な戦略があっても、地に足のついた部隊運用がなければ戦は成り立たない。
向寵はまさに、そうした“実働部隊”を裏から支えることのできる稀少な人材だった。
しかし延熙三年(240年)、漢嘉郡で起きた外族の反乱鎮圧に派遣された際、彼はそこで命を落とす。
高位にありながら前線に出たこと、指揮だけでなく自身も矢面に立とうとしたこと、それが彼の美点でもあり、最期でもあった。
記録は少ないが、静かに、正確に、責務を果たす者がいたこと。
向寵の存在は、そんな“語られぬ柱”のような重さを持って、三国志の舞台に刻まれている。
参考文献
- 参考URL:向寵 – Wikipedia
- 《三國志·蜀書·向朗傳》
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