1分でわかる忙しい人のための邵悌の紹介
邵悌(しょうてい)、字は元伯(げんぱく)、出身は陽平(現在の河北省大名県東)、生没年は不詳。
魏の西曹属として司馬昭に仕えた官僚で、蜀征伐や鄧艾の粛清といった重大局面で進言を行った。
鍾会に十万の兵を預けることの危険性を訴え、また鄧艾の粛清に対しても代案を示したが、いずれも司馬昭には退けられた。
結果的に鍾会は反乱を起こして自滅するが、その経緯を通じて、史書は司馬昭の見識を際立たせ、邵悌の忠言をあくまで引き立て役として描いている。
邵悌を徹底解説!冷静な進言で鍾会の反乱を予見したが、司馬昭の引き立て役になった男
鍾会の蜀征伐を巡る進言:邵悌の懸念と司馬昭の意図
(263年)、司馬昭は鍾会に十万以上の兵を預けて蜀を討たせようとした。
邵悌は「彼には家族がなく、後顧の憂いがない。謀反の恐れがあるので他の者を使うべきだ」と進言した。
しかし司馬昭は、「それは承知している」としながらも、蜀は繰り返し魏の辺境を荒らしてきたため今こそ討つ好機と述べた。
そして「鍾会は私と考えが同じだ」と強調し、仮に反乱を起こしても、蜀の遺民は震え、魏の将兵は帰国を望んでいて協力者は出ない、どうせ自滅に終わると言い切った。
このやり取りは「他言無用」とされ、会話自体が司馬昭の先見性と胆力を強調する材料として、史書に記録された形となっている。
鄧艾の粛清を巡る再進言:司馬昭の信義と演出された余裕
鍾会が鄧艾の謀反を訴え、司馬昭が自ら長安に赴こうとすると、邵悌は再び進言した。
「鍾会の兵力は鄧艾の五〜六倍もある。命じれば足りるはずで、司馬公が直々に行く必要はない」と述べた。
だが司馬昭は、こう言って切り返した。
「君は我々が以前に話したことを忘れたのか?今になって、私が行かなくていいなどと言うのか?」 そして「この会話は他言してはならぬ」と釘を刺した上で、「私は本来、信義をもって人に接するべきだ。相手がまだ私に背いていないのに、どうして先に疑うことができようか。少し前、護軍の賈充が私に『鍾会を疑っていますか?』と尋ねた。
私はこう答えた。『今、君を長安に派遣しているのに、君を疑っているとでも思うのか?』
賈充もそれに反論できなかった。私が長安に到着すれば、すべて自然に収束するだろう。」
こうして司馬昭は、外見上は動じることなく、出陣を決行した。
予見された結末:鍾会の死と引き立て役となった邵悌
司馬昭が長安に到着した時、鍾会はすでに反乱を起こし、そして失敗して死亡していた。
反乱の動機も、経緯も、すべてが事前の邵悌の警告通りであった。
だが史書の筆は、この出来事を「司馬昭の思惑通り」として記している。
実際、鍾会は鄧艾を捕らえて排除した後、自らの野心を露わにし反乱を企てたが、故郷に帰りたい魏の将兵の支持を得られずに失敗し、最期を迎えている。
邵悌は、二度にわたり冷静かつ論理的な進言を行ったが、いずれも退けられた。
そしてその結果が予言通りとなったにもかかわらず、史書のなかで彼は「当たったけど採用されなかった意見を言った人」として処理されている。
邵悌は記録の少ない人物ではあるが、この二度の進言だけでも、彼の冷静な判断力と先見性は明らかである。
参考文献
- 参考URL:邵悌 – Wikipedia
- 《三國志・鍾会伝》
- 《資治通鑑 巻七十八》
- 《咸熙元年百官名》
FAQ
邵悌の字(あざな)は?
邵悌の字は元伯(げんぱく)です。
邵悌はどんな人物?
魏の司馬昭に仕えた官僚で、鍾会の起用と鄧艾の粛清を巡って冷静な進言を行いました。
邵悌の最後はどうなった?
彼の死についての記録はなく、生没年ともに不詳です。
邵悌は誰に仕えた?
魏の司馬昭に仕えました。
邵悌にまつわるエピソードは?
鍾会が反乱を起こすことを予見し、2度にわたり司馬昭に進言しました。
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