諸葛融:諸葛瑾の末子、兄・諸葛恪と共に滅んだ悲劇の将【すぐわかる要約付き】

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1分でわかる忙しい人のための諸葛融(しょかつゆう)の紹介

諸葛融(しょかつゆう)、字は叔長(しゅくちょう)、出身は琅邪郡陽都、生没年(?~253年)

諸葛融は三国時代・呉の将であり、大将軍諸葛瑾の三男にあたる。兄は太傅諸葛恪、そして諸葛喬である。
名門の家に生まれたが、若くして驕りやすく、享楽を好む性格であったと記される。一方で性格は寛容で多才、章句の学問を愛し、多くの技芸に通じていた。
父の死後、宛陵侯の爵位を継ぎ、公安の守備を担った。軍の将兵は彼を親しみ、従ったという。
正始十一年(250年)の王昶討伐では、朱績との連携に失敗して敗北を招き、孫権に叱責されたものの、兄諸葛恪の地位ゆえに処罰を免れた。
孫権死後は奮威将軍に任じられ、兄の淮南征伐に同行するはずであったが、孫峻の政変により諸葛恪が誅殺され、諸葛融も包囲を受けて毒をあおり自決した。三子も連座して誅され、諸葛一門は滅亡した。

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諸葛融の生涯を徹底解説!父の遺業を継ぎ公安を守るも、政変に散った呉の名門

諸葛融とは?名将・諸葛瑾の末子として生まれる

諸葛融(しょかつ・ゆう)は、名将諸葛瑾の三男として誕生した。兄に太傅となった諸葛恪、もう一人の兄には諸葛喬がおり、三男坊らしい自由さをそのままに育った。
名門中の名門に生まれたが、性格はというと、少々お調子者気質で享楽的で、学問は章句を一通りなぞるものの、「通じる」というよりは「かすった」程度であった。
ただし人当たりは柔らかく、さまざまな技芸をそつなくこなすあたり、器用さには天賦の才があったようだ。若いころには、平民の衣をまとって朝廷に顔を出すなど、身分を気にせず出しゃばる大胆さもあった。周囲が驚いても、本人は「楽しかったから」で済ませていたのかもしれない。

父の建昌侯を継ぎ公安を守る

赤烏年間、政務に疲れた新都都尉の陳表が病に倒れてそのまま没する。 後任に諸葛融が抜擢された。 赤烏四年(241年)に父・諸葛瑾が死去すると、兄・諸葛恪がすでに封侯していたため、彼が宛陵侯の爵位を継承。ついでに父の軍もまるっと引き継ぎ、公安に駐屯して兵を率いることとなった。

部曲の吏士たちは諸葛融をこよなく慕い、暇さえあれば彼のもとに集まっては、さながら「公安サロン」のようなにぎわいを見せた。
戦が少なかったことをいいことに、秋冬には「実戦は少ないが議論は熱い」武芸談義、春夏には「宴会こそ政務の一環」とばかりに賓客を招いて盛大な催しを開いた。
宴の余興には奕棋・樗蒲・投壺・弓弾といった知力・技量・運の総合格闘技がそろい踏みし、諸葛融は酒杯片手に来客のあいだを悠々と巡回、真剣勝負を一日中眺めてもまったく飽きる様子はなかったという。
その出で立ちは常に錦罽や文繍の絢爛たる衣装で、質素を旨とした父・諸葛瑾や、武骨を地で行く兄・諸葛恪とは見事に正反対であった。だが、そんな派手さすらも彼の人柄の一部と受け止められたのか、兵も賓客も不思議と彼に心を許していた。

王昶追撃戦での失策と孫権の怒り

赤烏十三年(250年)、魏の徵南将軍王昶が大軍を率いて江陵を攻撃するも、攻略できずに退却した。
この好機をとらえようと、施績(朱績)は諸葛融に書信を送り、「王昶は遠征で馬も疲れ、食糧も底をついている。これは天の助けだ。今こそ追え。私は前で破る、君は後ろから追撃せよ。これは一人の功績ではなく、断金の交わりを結ぶべき時だ」と熱く語った。
諸葛融もその言葉に頷いた。が、実際には軍を進めなかった。つまり「よし、行こう」と言って動かなかった。

施績は兵を率いて王昶を追撃し、江陵南方三十里の地点・紀南で交戦。初戦では施績が勝利をあげたが、援軍を得られず追撃できなかった。追撃がない分「勝てるはずだったのに」という悔恨だけが残った。
帝・孫権はこの戦いの後、施績の働きを深く称え、諸葛融を厳しく叱責した。だが、兄・諸葛恪が朝中で高位にあったため、諸葛融の官位は奪われずに済んだ。
この事件をきっかけに、元からくすぶっていた施績と諸葛兄弟の仲は決定的に険悪となった。宴の遊戯では笑いを誘った諸葛融であったが、戦場では笑えぬ疎外もまた招いたというわけである。

兄の死と悲劇的な最期

孫権の死後、諸葛融は奮威将軍に任じられた。
建興二年(253年)、兄の諸葛恪が国政を掌握すると、淮南への大規模な出兵を企てた。当初は朱績にも同行を求めたが、途中で方針を変え、施績を半州に留め置き、その代わりに諸葛融へ假節を授けて軍を率いさせた。
諸葛融は沔水方面の守備と魏軍の牽制を命じられ、兄の威令のもと、久々に戦の前線に立つこととなった。

しかし魏の守将・張特の策略により攻城は失敗、さらに夏の疫病が軍を襲い、呉軍は大損害を被った。
諸葛恪は退却を余儀なくされ、軍の士気は地に落ち、退路では文欽の追撃を受けて潰走した。
朝廷では恪への怨嗟が渦巻き、孫峻が政変を起こし、兄・諸葛恪はついに誅殺された。

その報せが届くや、諸葛融の運命もまた動き出した。
孫峻は無難督・施寬に命じ、施績・孫壹・全煕らを率いて諸葛融を討たせた。
敵軍の接近を聞いた諸葛融は、迷いと恐怖のあまり、決断を下せずにいた。城は包囲され、援軍の望みもなく毒をあおって命を絶った。
その三子もまた連座して処刑され、かつて呉の名門と謳われた諸葛一門は、ここに滅んだ。

《江表伝》は別の話を伝える。公安に霊鼉(巨大なワニ)が鳴き、「白鼉鳴けば亀背平らに、南郡の人長生す」との童謡が流行ったという。
諸葛融はこの歌を聞き、金龜印を削って、それを飲んで命を絶ったという。

参考文献

諸葛融のFAQ

諸葛融の字(あざな)は?

諸葛融の字は叔長(しゅくちょう)です。

諸葛融はどんな人物?

驕りやすく享楽を好む一方で、寛容で多才な人物でした。学問を好みましたが、深くは通じなかったと記されています。

諸葛融の最後はどうなった?

建興二年(253年)、孫峻の政変で兄諸葛恪が殺害されると、諸葛融も公安で包囲を受け、毒をあおって自殺しました。

諸葛融は誰に仕えた?

孫権のもとで騎都尉・奮威将軍を務めました。

諸葛融にまつわるエピソードは?

王昶討伐の際、朱績(施績)との連携を欠いたため敗北を招き、孫権の怒りを買いました。兄諸葛恪の権勢により処罰は免れましたが、この事件が後の不和の火種となりました。

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