1分でわかる忙しい人のための諸葛瞻の紹介
諸葛瞻(しょかつせん)、字は思遠(しえん)、出身は琅邪郡陽都、生没年(227年~263年)。
諸葛亮の長子として生まれ、父が晩年にようやく得た子であったため、特別に愛されて育てられた。父は『誡子書』を与え、学問と節度を厳しく戒めた。
十七歳で劉禅の娘を妻に迎え、騎都尉に任じられたのを皮切りに羽林中郎将・射声校尉・侍中・尚書僕射加軍師将軍と昇進し、衛将軍に至った。蜀人は父の遺徳を慕い、善政をしばしば諸葛瞻の功とした。
姜維との対立もあり、右将軍の阎宇を推して交代を求めた記録が残る。景元四年(263年)、司馬昭の大規模侵攻で涪城に留まった後、綿竹で抗戦。鄧艾の降伏勧告を拒否して使者を斬り、子の諸葛尚と共に奮戦して戦死した。死義を貫いた姿は、敵将からも敬意を払われた。
諸葛瞻の生涯を徹底解説
幼少期と諸葛亮からの期待
諸葛瞻は、諸葛亮が晩年になってようやく授かった待望の長子である。父は軍務に追われながらも、この子を溺愛しつつ、同時に厳しく評価した。
建興十二年(234年)、諸葛亮は兄の諸葛瑾に宛てた手紙で「瞻は八歳となり聡明で可愛らしい。だが、あまりに早熟で大器にならぬのではと心配している」と率直に記している。褒め言葉と同時に突きつけられた不安は、親の愛情と期待の裏返しであった。
さらに諸葛瞻が送った書状の字が稚拙であったため、「学問に励まずば器量も限られる」と叱責された。酒についても『誡子書』を与え、「礼に沿う程度で嗜むのはよいが、迷乱に至ってはならない」と戒めている。国を背負った父は、家庭でも同じように妥協を許さなかったのである。
蜀漢公主との婚姻と初期の官職
諸葛瞻は十七歳のとき、蜀の皇帝劉禅の娘である公主を妻に迎えた。政略色の濃い縁組であり、丞相家と皇室の結びつきを強める意味を持っていた。
その際に騎都尉に任じられ、翌年には羽林中郎将に昇進し、宮中の警備にあたった。さらに射声校尉・侍中・尚書僕射加軍師将軍と昇進を重ね、最終的には衛将軍となる。父を偲ぶ蜀人の思慕もあって、善政があると「葛侯の功績だ」と囁かれ、美名は実を越えて広まった。これは本人にとって幸運であると同時に重荷でもあった。
朝廷での地位上昇と人々の期待
諸葛瞻は書や絵に巧みで、記憶力も優れていたため、才気ある人物と広く見られていた。だが、それ以上に蜀人の「諸葛亮ロス」は深刻で、政権が良政を行えば「葛侯の功績だ」と噂される始末だった。
正史の編者・陳寿は冷静に「美声溢誉、有過其實(誉れが過ぎて実が伴わない)」と記し、実力以上の評価が一人歩きしていたと断じた。名前だけは大将級だが、実態はまだ課長クラスといったところであった。それでも周囲は「そこにいてくれるだけでいい」と過剰に優しい。これで伸びろという方が酷である。
こうして諸葛瞻は、評価されすぎた存在として、期待と現実の落差に押し潰されていく。背中には常に「英才の息子」という看板が貼り付けられ、それが後の悲劇の序章となったのである。
姜維との対立と人事の上奏
蜀の後期、軍政の主導権は大将軍・姜維に集中していた。諸葛瞻はその専権を好まず、上表して右将軍の閻宇を推挙し、姜維と交代させるべきだと訴えた。これは単なる名門の子としての発言ではなく、政治的意志を示した行動であった。
しかし、この上奏は採用されず、姜維の軍事支配は揺るがなかった。諸葛瞻の意見は響かず、軍の路線は変わらなかった。
一方で、政権内部を混乱させていたのが宦官・黄皓である。黄皓は劉禅に取り入り、宮中で専横を極めた。だが諸葛瞻にはこれを抑える力も行動も記録されていない。結果として、黄皓の影響力は許容され、政治は内側から蝕まれ続けた。
こうして蜀は、外では姜維が軍を握り、内では黄皓が権力を振るうという二重の構造に支配された。諸葛瞻はそのどちらにも手を打てず、結果的に埋没していったのである。
魏の大軍侵攻と涪城でのためらい
景元四年(263年)、蜀漢の寿命はすでに尽きかけていた。曹魏の司馬昭がついに“終局の一手”を放つ。鄧艾・鍾会・諸葛緒という魏の精鋭を動員し、蜀を一気に飲み込もうとしたのである。
作戦は三方向からの挟撃だった。鍾会は十余万を率いて漢中へ、諸葛緒は三万余を率いて姜維の退路を断ち、さらに鄧艾が三万を率いて奇襲に出る。そして監軍には衛瓘。全方位を抑える、まさに必勝の布陣であった。
蜀の防衛線を支えていたのは、かつて諸葛亮の副将として仕えた姜維である。彼は鍾会と対峙して剣閣に立てこもり、必死に持久戦を試みた。だが、鄧艾は誰も通らぬ陰平小道を越え、山の背後から現れるという“反則技”に出た。戦場の非常識こそが勝敗を決める。鄧艾は江油に到達し、守将・馬邈はあっさり投降。蜀の守りは、音を立てて崩れ落ちた。
この報が届いたとき、諸葛瞻は涪城にいた。しかし彼の足取りは鈍く、決断できなかった。ぬるま湯育ちの将軍に、即断即決の胆力を求めるのは酷かもしれない。だが、この場面で迷えば国が終わる。黄崇は涙ながらに「急ぎ要害を押さえるべきだ」と諫めたが、諸葛瞻は動かない。敵は平地に降りてしまい、蜀は防衛の最後のチャンスを失った。
綿竹での最期と父子の殉死
鄧艾の軍は綿竹へ殺到した。ここで諸葛瞻は自らを責める。「内では黄皓を除けず、外では姜維を抑えられず、江油も守れなかった。三つの罪を犯した私は、もう帰る顔がない」と。彼は失敗の責任をすべて背負い込んだ。
鄧艾は降伏を勧告する。「投降すれば、皇帝に上表して琅邪王に封じよう」と。生き残る道はあった。だが、諸葛瞻は激怒し、使者を斬ってその道を断った。ここに至って、彼の選択肢はただ一つ。戦って死ぬことだけであった。
綿竹は、蜀漢最後の砦となった。黄崇は奮戦し、やがて討たれる。諸葛瞻も子の諸葛尚とともに剣を取り、最後まで抵抗したが、父子ともに戦死した。血筋も未来も、この戦場で絶えたのである。
敵将・鄧艾はこの最期に心を動かされた。彼は戦没者を祀る京観を築き、親子の忠義に礼を尽くしたという。敵にさえ敬意を抱かせる死にざまは、皮肉にも彼の人生で最も輝いた瞬間だった。
やがて鄧艾は成都に入り、劉禅は降伏。蜀漢はここに滅び、諸葛瞻父子の命と引き換えに、その幕を閉じたのである。
諸葛瞻に対する歴代の評価
父の諸葛亮は、わが子に早くから疑いの目を向けていた。「聡明で可愛らしいが、早熟すぎて大器にはならぬ」と。誉め言葉に見えて、実際は将来を案じたダメ出しである。親からすら無条件の信頼を得られなかったのは、諸葛瞻にとって重い宿命だった。
さらに後世の史家・陳寿も厳しかった。「才敏であったが虚名が実力を超えていた」と冷徹に断じ、評価の過剰さを指摘した。生まれの看板だけが大きく、実力が伴わなかったという評である。
これに対し、敵将の鍾会は思いがけず温かい言葉を残している。「諸葛思遠は我が気類なり」と。敵でありながら同類の知性を感じ取り、親近感を抱いたのだ。外部の敵からの評価の方が身内より好意的というのは、歴史の皮肉である。
晋代の干宝は「智勇は足りないが忠孝は備わっていた」と評し、司馬炎も「父は心力を尽くし、子は死をもって義を全うした」と称賛した。能力では不足しても、忠義を守り抜いた姿に価値を見いだしたのである。
そして後世、羅貫中は『三国志通俗演義』で「智謀は主を救えなかったが、忠義は武侯に続いた」と詩にうたった。物語作家にとって、諸葛瞻は“忠義の継承者”として描くにふさわしい存在だったのである。
結局、諸葛瞻の評価は大きく割れている。実力不足を批判する声と、忠義を称える声。そのどちらも否定できず、後世の読者は二つの像を同時に見ざるを得ないのである。
参考文献
- 参考URL:諸葛瞻 – Wikipedia
- 《三國志·蜀書·諸葛亮傳》 陳壽著、裴松之注
- 《資治通鑑》
- 《華陽國志》
諸葛瞻のFAQ
諸葛瞻の字(あざな)は?
字は思遠です。
諸葛瞻はどんな人物?
諸葛亮の長子で、蜀後期を支えた重臣です。書や絵に通じ、記憶力も優れていましたが、父の名声に比べて実力以上に評価されることが多く、期待と現実の落差に苦しんだ人物でした。
諸葛瞻の最後はどうなった?
景元四年(263年)、鄧艾の降伏勧告を拒み、綿竹で子の諸葛尚とともに奮戦して戦死しました。
諸葛瞻は誰に仕えた?
蜀の皇帝・劉禅に仕えました。
諸葛瞻にまつわるエピソードは?
諸葛亮から『誡子書』を与えられた逸話が有名です。大将軍姜維の専権に不満を示し、更迭を求めたことも知られています。さらに宦官黄皓の専横を抑えられず、自らその責任を認めたことも伝わっています。
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