1分でわかる忙しい人のための諸葛瑾(しょかつきん)の紹介
諸葛瑾(しょかつきん)、字は子瑜(しゆ)、出身は琅邪陽都、生没年(174~241年) 後漢末から三国時代の呉に仕えた政治家・武将である。弟は蜀の丞相諸葛亮、族弟は魏の諸葛誕で、一門三国に仕えた稀有な家系として知られる。
経学を修めた名門出身で、『毛詩』『尚書』『左氏春秋』に通じ、礼を重んじる儒者肌の人物であった。孫策没後、孫権の姉婿・弘咨に見出され、魯粛と並んで孫権に重用された。以後、長史・中司馬を歴任し、外交や内政で活躍した。
関羽討伐、荊州交渉、江陵救援などに参加し、やがて大将軍・左都護・豫州牧に昇進。温厚で柔らかな進言をもって孫権の信任を得、「死生不易の誓い」を交わすほどの絆を築いた。赤烏四年(241年)、六十八歳で没し、遺命により簡素な葬儀が行われた。
諸葛瑾の生涯を徹底解説!呉を支えた理性派の大将軍で孫権の信頼を勝ち得た諸葛亮の兄
諸葛瑾とは?出自と教養
諸葛瑾は琅邪陽都の生まれで、学問を尊ぶ家柄に育った。家の方針は「知より礼」、つまり賢くなるより先に、まず人に対しての節度を守れというものだったらしい。『呉書』によれば、もとは葛氏だったが、後に諸葛氏を名乗ったという。
幼いころの諸葛瑾は書物を手放さず、『毛詩』『尚書』『左氏春秋』などを読み漁った。学問を嗜む少年が礼を学ぶと、だいたい堅物か聖人の道を歩むのが定番だが、彼は理屈をわきまえた上で人の痛みを感じ取るような、そんな柔らかい賢さを持っていたのだ。
母の死に際しては礼に則り、泣くことさえ節度を持って行ったという。さらに、継母に対しても変わらず恭しく接し、家族の和を乱さなかった。つまり、あの諸葛亮の兄でありながら、家ではむしろ調整役だったのである。
こうした誠実さと教養が評判を呼び、若くして郷里の人々から敬われるようになった。後に呉に仕えたときの温厚な性格や、筋道を通す判断力は、この若き日の修養にあったのだろう。
孫権政権へ参画
後漢末期、戦乱にあえぐ世の中で、命の値段は駄菓子以下であった。 琅邪陽都の住人だった諸葛瑾も、当然のようにその余波をくらい、ここには住めたもんじゃないと引っ越す羽目になる。
一族を連れて辿り着いたのが南方の江東で、当時この地では孫策が勢力を伸ばしていたが、本人は早々に世を去り、弟の孫権がその跡を継いだ。
諸葛瑾は移住当初こそ無官だったものの、その穏やかな人柄と深い教養がじわじわと地元の関心を集めるようになる。
やがて孫権の姉婿・弘咨が「この男は使える」と目をつけ、「国を導く器」として孫権に推薦した。
孫権はそれを受けて、諸葛瑾を賓客として迎え入れた。ちょうどその頃、儒学で知られる魯粛も登用されており、ふたりは学識で政権を支える存在として並び立つことになる。
この時期の呉は、孫策を失ったばかりで、政権の骨組みすら怪しい状態だった。若い孫権を取り巻くのは功を焦る将軍と利を狙う豪族たち。
そのなかで諸葛瑾は、感情を煽らず理を通す話しぶりで信頼を積み重ねていった。
その後、彼は長史に任ぜられ、中司馬へと昇進。政治と外交の双方で実務を担い、魯粛とともに孫権政権の初期を支える要となった。
柔らかな諫言と孫権の信頼
諸葛瑾は、何があっても声を荒らげることがなかった。
主君が感情を高ぶらせていても、自分まで熱くなっては意味がないと心得ていたのか、ひとまず別の話題にそらし、少し冷却期間を置いてから、それとなく似た話を持ち出して理屈を通す。
話しているうちに相手のほうから「もしかして俺、間違ってる?」と気づくよう仕向ける、知的な罠のようでもあった。
あるとき、孫権が呉郡太守の朱治に腹を立て、どうにも怒りが収まらなかったことがある。
ここで「まあまあ落ち着いて」と正面から言ったら火に油、そう読んだ諸葛瑾は書状を一通したためた。中身は、正面からの批判でもなく、取り繕いでもなく、ただ理を淡々と綴ったもの。
それを読んだ孫権は思わず笑って、「孤意解矣(心がほどけた)」と呟いたという。
また別のとき、校尉の殷模が罪を犯して処罰されようとした。周囲が「まあまあ」と弁護する中、諸葛瑾だけは一言も発さなかった。
理由を尋ねられると、「殷模も私も、共に国を失い流浪した身。恩を受けたのに救えなかったのは私の過ち。今さら口を出す資格などありません」とだけ答えた。
この一言に孫権は心を打たれ、処罰を思いとどまったという。
諸葛瑾の言葉には理屈だけではなく、情も含まれていた。だからこそ、主君の怒りを買うことなく、それどころか心の芯にまで届いたのだろう。
声を張らずとも相手の足を止める、そのやり方こそ、孫権が彼を信頼し続けた理由だった。
蜀との交渉と弟・諸葛亮との再会
荊州をめぐって呉と蜀がいがみ合い、呂蒙は荊州の三郡(長沙・零陵・桂陽)を制圧した。 劉備側も関羽に軍を率いさせて反撃に動き、一触即発の状態となったが、魯粛と関羽の「単刀赴会」、さらには曹操による漢中の張魯への侵攻も重なり、劉備は和議を求めてきた。
建安二十年(215年)、孫権は諸葛瑾を使者として蜀へ派遣する。任されたのは、領土交渉という爆発物のような案件と、劉備との友好関係の維持というバランス芸であったが、諸葛瑾は荊州の東西を分ける形で停戦を成立させている。
しかしこの使節には、もうひとつ注目すべき場面があった。
それは、蜀の陣営にいる諸葛亮との再会である。兄弟でありながら、今は敵対する国に仕えている二人が、公式の場で顔を合わせるという妙な構図が生まれた。
ふつうならここで「久しぶりに酒でも」となるところだが、そうはならなかった。
兄の諸葛瑾も、弟の諸葛亮も、公務の場以外では会おうとせず、あくまで「忠義優先」で線を引いた。再会の場では私情を挟まず、顔を合わせても国のことしか話さない。感情を交わすどころか、むしろ感情を徹底的に仕舞い込むという徹底ぶりだった。
この徹底的な「よそよそしさ」は、逆に兄弟の信念の強さを示しているとも言える。
帰国後も、諸葛瑾は弟と直接会うことなく、たまに書簡で安否を尋ねるだけであった。年賀状のような距離感で兄弟関係を保つという、高度な精神的バランス感覚が要求される関係だった。
関羽討伐と荊州統治
建安二十四年(219年)、呉は関羽を討つべく軍を動かし、諸葛瑾もその一員として従軍した。
このとき主導したのは呂蒙で、関羽が麦城で敗れると、荊州の地は呉の支配下に入る。
この一件は、関羽がうっかり背中を見せてしまった結果という説もあるが、戦というのは一度こけると、それまでの英雄譚もあっという間に地に落ちる。
戦後、諸葛瑾は宣城侯に封じられ、綏南将軍に任命された。さらに呂蒙の後を継ぎ、南郡太守も兼ねることとなる。
駐屯地に選ばれたのは公安で、魏にも蜀にも近い交通と軍事の要所であった。
国境警備と行政の両方を任される場所に送られた時点で、軍事に対する信頼度はかなり高かったと見ていい。
諸葛瑾はそこで治安を整え、民心を慰撫する政治に力を尽くしたとされる。
派手な戦果ではなく、地味な整備と信頼回復の積み重ね。誰も褒めないし誰も注目しないが、結局はこういう人が現場を支えていた。
劉備への書簡と天下大義の訴え
黄初二年(221年)、関羽を失った劉備は怒りに身を任せ、呉を討つべく軍を動かした。
孫権は開戦を避けるため、和平の使者として諸葛瑾を選び、劉備に宛てた書簡を託した。
その手紙は、言葉こそ丁寧ながら内容はかなり攻めていた。
「関羽を討たれた恨みは深いでしょうが、それに突き動かされて戦を始めるのは、全体を見ず末節にとらわれるものです」と切り出し、
「荊州と天下全土、どちらが大切か。関羽の恩と漢室の恩、どちらが重いか。怒りを優先して呉を討つことが、本当に王道と言えるのか」と畳みかける。
まるで「いま怒ってるのは筋違いでは」と言わんばかりの内容で、冷静な忠告というよりも、怒りを理屈で封じにかかる書だった。
文末には「これらを正しく計れば、もはや群臣に問う必要もありません」と記し、主君の決断を理性に委ねようとした。
だがこの書簡は、完全に空振りだった。
裴松之は「劉備の怒りは骨の髄にまで達しており、このような遠回しな理屈で止まるものではなかった」と断じている。
関羽は劉備にとって単なる部下ではなく、片腕そのもの。理屈で割り切れと言われても、「腕を斬られたら怒るだろ」と返されて終わる話だった。
結果として、諸葛瑾の手紙は何も変えられなかった。
それでもこの一通には、使者としての忠義と、儒者としての信念が刻まれていた。
讒言と孫権の信頼
劉備との交渉を終えたあと、呉の内部では妙な噂が流れ始めた。
「諸葛瑾は蜀と通じているらしい」「やはり弟があれだからな」
蜀との交渉を担っていたうえに、あの諸葛亮の兄であるというだけで、まるで既成事実のように疑いが膨らんでいった。
この讒言は孫権の耳にも届いた。だが、そこで疑念を抱くどころか、彼はきっぱりと言い切った。
「孤と子瑜(諸葛瑾)には、死生を共にする誓いがある。子瑜が孤を裏切ることはないし、孤もまた子瑜を裏切ることはない」と。
信頼というより、ほとんど心中同盟である。
さらに陸遜も上奏して、「諸葛瑾に二心などあるわけがない」とかばった。
すると孫権は、かつて諸葛亮が呉を訪れたときのエピソードを語り出す。
「弟を呉に留めて仕えさせてはどうか」と持ちかけたところ、諸葛瑾は「弟にはすでに主君がいます。義を重んじる者が、二つの君に仕えるわけにはいきません」と言ってきたという。
この一言に、「この人物こそが義の人だ」と孫権は感服した。
こうして讒言は跳ね返され、むしろ疑われたことで、孫権との主従関係はより強く固まった。
魏の大規模侵攻、江陵救援戦
孫権は一時的に魏と通じる姿勢を示した。表面上は魏に臣従する意を示し、夷陵の戦いに臨んだ。 黄武元年(222年)、孫権は夷陵で劉備を退けたのち、魏との関係で軋みが生じた。
表向きには臣従の姿勢を見せていたものの、人質の派遣を拒否したことで、魏から「あれ、話が違う」と思われたらしい。
そして秋になると、魏は怒りを行動に変える。
曹休・張遼・臧覇が洞口を、曹仁が濡須を、曹真・夏侯尚・張郃・徐晃が南郡を狙い、三方から呉に圧をかけた。
孫権はこの包囲に対抗するため、呂範ら五軍を組織し、水軍を率いて迎撃を命じる。
諸葛瑾には潘璋・楊粲とともに南郡の防衛を任せ、本人は左将軍・督公安に任じられ、宛陵侯に封じられて出陣した。
ただし諸葛瑾の進軍は、いつもながら慎重そのものだった。
守りは堅かったが動きは鈍く、敵との睨み合いが続き、戦局は膠着した。孫権も「もうちょっと何とかならんか」と感じていたようである。
局面が動いたのは翌年、長江の水位が上昇してからだった。
潘璋らが上流に「水城」を築き、火攻めの準備を進めると、諸葛瑾も浮橋の攻撃に出て呼応した。この連動が功を奏し、魏軍はついに撤退する。
戦果は決して華々しいものではなかったが、呉軍は一兵たりとも崩れず、国境を守り抜いた。
諸葛瑾の指揮は、豪胆さこそ乏しいものの、盤石さにおいては一級品だったと言える。
魏政情の分析と孫権への進言
黄武五年(226年)、魏の皇帝・曹丕が崩じたという知らせが呉に届くと、孫権は「今こそ動くとき」とばかりに北へ進軍する決断を下した。
八月、諸葛瑾には左将軍として襄陽を攻めさせた。狙いは、皇帝交代直後の魏に揺さぶりをかけることである。
諸葛瑾の軍は司馬懿に敗れ、部将の張覇を失うという痛手を被る。
さらに、別働隊も尋陽で曹休に押し返されており、最終的にこの戦役は、呉側の敗北に終わった。
敗戦のあと、孫権は諸葛瑾を呼び寄せて語り出す。
「伯言(陸遜)の報告によれば、魏は混乱もせず、民心も安定しているそうだ。忠臣を抜擢し、刑罰を緩め、恩を施して負担を軽くしているという。
だが、私はそうは思わぬ」と、言葉に力を込めた。
さらに彼は続けて、「曹操は威をもって統治し、曹丕は恩でつなぎとめた。どちらにも一本筋が通っていた。だが今の曹叡は幼く、重臣たちが勝手に振る舞っている。
威と柄が分かれれば、国は乱れる。張耳と陳餘も初めは親しかったが、いずれ争った。魏の中でも、いずれ同じような火種がくすぶり出すだろう」と見通しを語った。
そして最後にこう締めくくる。
「強い者が弱きを虐げ、弱き者が強き者に頼ろうとする。そこに秩序はなくなり、乱れが広がる。子瑜よ、よく聞いてくれ。伯言は計略に長けているが、この点だけは見誤っている」。
裴松之はこの場面を評して、「孫権の見立ては魏明帝の治世には当てはまらなかったが、のちに斉王(曹芳)の代になって現実となった」と記している。
戦に敗れても、彼らの議論には政局を見通す眼があった。
諸葛瑾の人望と虞翻救済
諸葛瑾は朝廷の中でも珍しく、あらゆる派閥と揉めずに付き合える稀有な存在だった。
宗室の孫皎とは親しく、江東の名門・張承とも交流があり、さらに同郷の歩隲や厳畯といった士人たちとも良好な関係を築いていた。
大都督・陸遜とも軋み一つなくやっており、しかもその娘は張承の後妻として嫁いでいる。
そんな諸葛瑾が「どうしても放っておけない」と動いたのが、虞翻である。
この虞翻、正論をど真ん中から投げてくる男で、主君・孫権でさえも容赦なく批判した。その結果、当然のように何度も怒りを買い、ついには遠方へ左遷される始末である。
普通なら「あいつは仕方ない」と割り切るところだが、何度も孫権に虞翻の赦免を願い出た。
後に虞翻は友人への手紙にこう記している。
「諸葛瑾は天のごとき仁を備え、人を生かすように救ってくれた。私はその公正な言葉によって、名分を失わずに済んだ」
この神のような評価は、単なるお世辞ではなく、本気で感謝しているからこそ出たものだった。
晩年と最期の遺命
黄龍元年(229年)、孫権が皇帝を名乗ると、諸葛瑾はもはや文句なしの重鎮となった。
大将軍、左都護、豫州牧と、肩書きが増えすぎて名刺がノートになったとしても、誰も驚かないレベルである。
晩年の彼は公安に腰を据え、地道に政務に励んでいた。
赤烏元年(238年)、かつて朝廷を私物化していた呂壱がようやく粛清されると、孫権は「これからはみんなで正しい政治をしよう」と言い出し、諸葛瑾にもその決意表明を求めた。
この場面、他の臣下なら下手に迎合して白々しくなるところだが、諸葛瑾は違った。
彼は理をもって語りつつ、礼を欠かさない文面で返信し、「まあ、今さらではありますが、お気持ちは汲み取りました」とでも言うような絶妙な距離感を示したのである。
赤烏四年(241年)、全琮が淮南に進軍し、諸葛恪は六安を攻め、朱然は樊城を包囲し、諸葛瑾は柤中を攻撃したが、全体を通して大した戦果を挙げことはなかった。
同年の赤烏四年(241年)、諸葛瑾は病に伏し、六十八年の生涯に幕を下ろした。
臨終の床で彼が家族に遺したのは、華やかな言葉でも、感動的な名言でもなかった。「棺は飾らず、服も平服でいい。礼も簡素に済ませよ」
この遺命は、彼が生涯通して貫いてきた節度と倹約を、そのまま死にまで持ち込んだ結果である。
諸葛一族の行方
彼の一族は三国の全陣営に人材を送り込んだ。 『世説新語』には、諸葛一族を評して「蜀はその龍を得、呉はその虎を得、魏はその狗を得」という有名な一句がある。 虎は諸葛瑾で、龍はは言わずと知れた弟の諸葛亮で、狗は族弟の諸葛誕で魏の将軍として活躍している。諸葛亮の他に諸葛均という弟もおり、こちらも蜀に仕えているがこちらは特に書くこともない。
そして息子には諸葛恪、諸葛喬、諸葛融がいて、とくに諸葛恪は若くして声望を集め、孫権からも一目置かれていたが、当の父・諸葛瑾だけは眉をひそめていたらしい。
「この子は、家を守る器ではない」と、父はひそかに懸念していたという。
懸念通り家督を継いだ諸葛恪は、父のような慎みを持たず、むしろ真逆の道を歩むことになる。
また諸葛瑾は、妻を亡くしたあとも再婚せず、妾の子を後継に立てることもなかった。
家内のことでも筋を通すという態度は、彼の清廉さを何よりもよく物語っている。
諸葛瑾の評価
『三國志』の著者・陳寿は、諸葛瑾と歩隲について「どちらも徳が高く、礼をわきまえ、当代の模範だった」と記している。
孫権に至っては、もっと情がこもっていた。「子瑜とは、苦も楽も共にしてきた。その恩は骨に染み、血に流れる」と述べており、さらに「子瑜とは生死を共にする」とまで言い切った。そこまで言われると、もう戦友を通り越して義兄弟か何かである。
太子の孫登もまた、上表文で諸葛瑾を持ち上げ、「忠義に厚く、政治にも通じた賢臣」として列挙している。
だが諸葛瑾の本質は、評価の高さよりも「逸脱しない」ことにあった。
野心もなければ暴走もせず、ただ礼を守って職を全うする。ひと言でいえば、常識という名の路線バスを時刻通りに走らせたような人物だった。
そういう人間が一人でも政権中枢にいると、全体の空気が締まる。
諸葛瑾はまさに、呉という国にとって「乱れを抑える秤」だったのである。
参考文献
- 三國志 : 呉書七 : 諸葛瑾傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書二 : 呉主傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書六 : 孫皎傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書十四 : 孫登傳 – 諸葛瑾 – 中國哲學書電子化計劃
- 資治通鑑/巻067 – 维基文库,自由的图书馆
- 資治通鑑/巻069 – 维基文库,自由的图书馆
- 資治通鑑/巻070 – 维基文库,自由的图书馆
- 資治通鑑/巻074 – 维基文库,自由的图书馆
- 世說新語 : 品藻 – 中國哲學書電子化計劃
- 参考URL:諸葛瑾 – Wikipedia
諸葛瑾のFAQ
諸葛瑾の字(あざな)は?
字は子瑜(しゆ)です。
諸葛瑾はどんな人物?
温厚で礼を重んじる政治家でした。進言は常に穏やかで理にかなっていました。
諸葛瑾の最後はどうなった?
赤烏四年(241年)に六十八歳で亡くなりました。
諸葛瑾は誰に仕えた?
呉の孫権に仕え、孫権の信頼厚く「死生不易の誓い」を交わされたほどです。
諸葛瑾にまつわるエピソードは?
蜀に通じていると讒言を受けても孫権が全く疑わなかった逸話は有名です。





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