1分でわかる忙しい人のための諸葛恪の紹介
諸葛恪(しょかつかく)、字は元遜(げんそん)、出身は琅邪陽都、生没年(203年~253年)
父は呉の重臣の諸葛瑾、叔父は蜀の丞相諸葛亮。
早くから才知と弁舌に優れ、群臣を論破するほどの頭脳を備えていた。孫権はその才を高く評価し、太子孫登の側近として学問や議論を共にさせ、若き日の諸葛恪は宮中で声望を高めていった。
丹陽山越の平定を志願し、強硬策と誠意を織り交ぜて降服を促した。最終的に大規模な投降を実現し、威北将軍に昇進、都郷侯に封じられた。さらに魏の司馬懿の脅威に対しては柴桑の守備を命じられ、領内を安定させるなど軍事面での功績も多かった。
やがて孫権が死去すると、太子孫亮を輔佐する太傅となった。関税廃止や減税を実施し、耳目官(監視・密告係)を廃止して民心を得るなど寛大な政治を行い、その人気は絶頂に達した。
しかし、東興の戦いで大勝して名声を高めた後、北伐において強引に二十万の兵を動員し、合肥新城を攻撃したが、守将張特の計略や疫病に苦しみ、大敗を喫した。
敗北後も強権的な姿勢を崩さず、官僚を罷免して親信を登用し続けたため、民心を急速に失っていった。最期は孫峻の宴席に招かれた際、伏兵により暗殺され、三族もろとも滅ぼされた。俊才にして雄弁、時に大胆な統治を見せた一方で、剛愎で独断的な性格が災いし、栄光と悲劇の双方を体現した人物である。
諸葛恪を徹底解説!呉の若き英才、東興の勝利と合肥の敗戦の末路
藍田の玉、早熟の英才
諸葛恪は幼いころから周囲の誰よりも光を放っていた。言葉は鋭く、機知に富み、並の大人では太刀打ちできぬ弁舌の持ち主だった。
誰もが彼を「ただ者ではない」と感じていた。
ある日、孫権がその少年を目にして、思わず嘆息する。「藍田生玉、まさにそれだ」。名門から宝玉が生まれるという故事がここで生まれたのだった。 『呉録』によれば、恪の姿もまた人目を引いた。身長七尺六寸、つまり現代で言えば180センチを超える長身。眉と髭は薄く、鼻筋はわずかに曲がり、額は広く、口は大きく、声は朗々と響き渡った。
その風貌と才気を併せ持つ様は、まさに「文武両道の器」。諸葛恪は少年のうちから、すでに一国の将器としての風格を備えていたのである。 222年、諸葛恪は弱冠(二十歳)で騎都尉に任命され、顧譚・張休らとともに太子・孫登に仕えて、道義や学問について講じ合い、太子の親しい友人となった。その後、中庶子の職を経て、左輔都尉に転任した。
孫権との交流で一目を置く
諸葛恪の英才の逸話は事欠かない。
ある日、孫権が宴の席に驢馬を引かせ、「これは諸葛子瑜(諸葛瑾)だ」と笑いを取った。場がどっと沸く中、息子の諸葛恪は膝をつき、「筆を賜りたい」と申し出る。
与えられた筆で諸葛恪が驢馬に書き加えたのは「之驢」。つまり「諸葛子瑜之驢(諸葛瑾の驢馬)」父を驢馬に見立てたつもりが、驢馬が父の所有物に早変わりしたのだった。
場はさらに湧き、孫権も大笑い。驢馬はそのまま諸葛恪に与えられた。
またある日、孫権は楽しげに問いを投げかけた。「父の諸葛瑾と叔父の諸葛亮、どちらが優秀だと思う?」などという、いかにも意地悪な質問を投げてみた。 諸葛恪は「父ですね」と即答し、さらには「父は仕える相手をわきまえています。叔父はわかっていない」と続けた。 孫権はそのひと言で腹を抱えて笑った。孫権はその率直さを面白がり、大笑して彼の才を喜んだ。
他にもある。酒宴の席での出来事。彼が張昭に酒を進めると、「老人を敬う心は大切です」と答え酒を辞退する。それに痺れを切らした孫権が「張公を言葉で説き伏せて飲ませてみよ」命じる。 そこで諸葛恪は、太公望・呂尚が九十で軍を指揮した話を引き合いに出し、「戦場では後方にいるべき老人が、宴席では前に座る。それこそ老いを敬えていないのでは」と静かに論じたのだった。張昭は詰め寄られて返す言葉なく、無念のように杯を傾けた。
こうした言葉の筋の通りっぷりが、孫権の目に「諸葛恪は将来を担う才士」として確固たる存在に仕立てあげた。
蜀の使者と孫権の場での諸葛恪の才覚
蜀からの使者がやって来た折、呉の宮廷には多くの群臣が集まっていた。孫権は場を和ませるように、わざと軽い冗談を投げる。「この諸葛恪は馬が好きだ。帰国したら諸葛亮に、甥のために良馬を選んで送ってやれ」と蜀の使者に言い渡したのである。
ところが諸葛恪はその場で立ち上がり、すぐさま跪いて感謝の礼をとった。驚いた孫権は怪訝に問いただす。「まだ馬は届いていないのに、どうして礼を言うのか」。普通なら「気が早い」と笑われても仕方のない場面だった。
だが諸葛恪の答えは一味違った。「蜀は陛下の外にある馬小屋のようなもの。いま御命令があった以上、必ず良馬は届けられます。私が感謝せずにいられるでしょうか」。この機知に満ちた返答は、場にいた全員を唸らせ、孫権もまた大いに感心した。
丹陽山越平定を志願する諸葛恪
諸葛恪はただの才子ではなかった。彼には大胆さ、そのものが宿っていた。志願したのは、手強き山岳勢・山越の平定だ。丹陽は険しい山々に囲まれ、住民たちは自作の武器を携えて山を下り、盗賊と化したかと思えば朝廷軍の影を見て山に潜る、そんな難所である。
それでも諸葛恪は「この地で三年、四万の精鋭を集めて見せます」と言い切った。 しかし廷臣たちは一斉に否定する。「地は険阻、辺境への道は四方へと開けている。古来より中央の軍で制御できた例はない」 父・諸葛瑾でさえも、いささか疑念を込めて首を振ったのだった。
その時、諸葛瑾は厳しい言葉を息子に投げつけた。「諸葛恪、お前が家門を高めるのか、それとも血脈を切るのか。見せてもらおう。」その言葉には家の命運をかけた重みがあった。
それでも諸葛恪は引き下がらない。周囲の冷ややかさをものともしない確信と、現実をねじ伏せる力への信頼が、若さと共に彼を支えていた。失敗すれば破滅、成功すれば一族の栄光。あの決意こそが、彼を凡人から確かな英雄へと押し上げる第一歩だった。
丹陽太守としての活躍
嘉禾三年(234年)、諸葛恪は撫越将軍・丹陽太守に任じられ、乱れ続ける南方の地へと赴任した。険しい山と反抗的な山越族が支配する丹陽において、彼がまず実行したのは「堅壁清野」の策で、守りを固め、敵に一片の物資も与えぬ徹底した作戦である。
飢えと孤立に追い込まれた山越たちは、次第に降伏へと追い込まれていった。
そこで諸葛恪は、降伏してきた山越に対しては「決して疑うな、拘束するな」と命じ、信を以って治めた。しかし臼陽の長官・胡伉が降伏者の周遺を「悪党」として捕縛してしまう。
諸葛恪は即座に命令違反と断じ、胡伉を処刑。法を曲げぬ厳しさが、むしろ山越たちに「この者に従えば裏切られぬ」と確信させる結果となり、山越の民は雪崩を打って帰順し、地は静まり治世は成った。
この山越平定で、「不可能」と言われ続けた難題を突破し、武勇と才略の両面で朝廷にその名を轟かせる契機となった。
威北将軍としての功績と孫権の評価
孫権は山越平定の功績を大いに称え、諸葛恪を威北将軍に任じ、さらに都郷侯に封じた
その勢いをもって諸葛恪は丹陽からさらに北へと軍を進め、舒県を攻め落とした。続いて寿春への攻撃も構想したが、孫権は「成功の見込みは薄い」としてこれを止めた。彼の積極果敢さは時に先走りと映り、主君の判断で抑えられる場面もあったのである。
赤烏六年(243年)、魏の司馬懿が諸葛恪を攻めようと軍を起こした。孫権は救援の軍を出そうとしたが、占い師が「出兵すれば不利」と告げたため、方針を改めた。そこで諸葛恪を柴桑へ移して守らせることとし、大戦は回避され、軍事上の大きな衝突にはならなかった。
陸遜との関係と書簡往復
諸葛恪は丞相・陸遜から「上に立つ者への敬意を欠き、下の者を見下しておる。それでは徳の上に築くべき土台が崩れてしまう。」と忠告を受けている。
陸遜は諸葛恪の性格を強情で柔軟性に欠けると見なし、独断専行によって国政を乱すのではないかと懸念していた。
丞相の言葉とはいえ、諸葛恪にとってプライドが傷つけられる出来事であった。
そこで諸葛恪は書簡を送り、「たとえ聖人であっても、すべてが完璧だったわけではありません。孔子の弟子だって、三千人の中で光ったのはほんの一握りで、長所もあれば短所もあるのが人間です。まして今は、有能な人材が少なく、国を支える担い手すら足りない。多少の欠点があっても、それで全てを否定しては前に進めません。見るべきはその志と力。細かい粗探しばかりしていては、いずれこの国から真っ当な人間がいなくなってしまいます。」と弁明した。
弁明か、屁理屈か。
もし諸葛恪が陸遜の言葉を素直に受け止めていたなら、後の転落は避けられたかもしれない。
赤烏八年(245年)、二宮の変に巻き込まれて陸遜が没すると、翌年には諸葛恪はその後任として大将軍に昇進し、假節(皇帝の代理として軍事指揮権)を帯びて、武昌に駐屯した。
その後荊州の統治も引き継ぎ、国の要衝を担う存在となった。こうして諸葛恪は陸遜との対立を表面上では避けつつ、その死去によって権力を拡大することになったのである。
ちなみに、陸抗が去ったあとの武昌の駐屯地は建物も軍備もきちんと維持され、まるで新品のような状態だったという。
一方、諸葛恪の柴桑は見るも無惨な荒廃ぶりであり、この差を目の当たりにした諸葛恪は恥じ入ったという。言葉ではなく行動で示されると、さすがの諸葛恪も自尊心を揺さぶられたのである。
孫権臨終と輔政大臣への任命
孫権が病床につく。太子孫亮はまだ幼く、後見を必要としていた。このため諸葛恪は太子太傅に、中書令・孫弘は太子少傅に任じられた。
やがて神鳳元年(252年)、孫権が病に臥し、後事を誰に託すかが議論された。朝臣たちは皆、諸葛恪に期待を寄せていた。
散騎常侍の孫峻もまた「諸葛恪は大器であり、国政を支えるに足る」と推挙した。しかし孫権は彼を「頑固で人の意見を聞かず、自分の考えだけで突き進んでしまう」と評し、独断的な性格を危ぶんでいた。それでも孫峻が強く説き、他に適任がいないことから、孫権はついに諸葛恪を選んだ。臨終に際し、諸葛恪・孫弘・太常滕胤・蕩魏将軍呂據(呂拠)・侍中孫峻を召し、後の政務を委ねたのである。
翌日、孫権は死去した。孫弘は日頃から諸葛恪と不仲であり、以後は彼の下で動かされることを恐れて、孫権の死を隠し、矯詔を発して諸葛恪を排除しようとした。だがこの企みはすぐに露見し、諸葛恪は孫弘を誅殺して粛清した。そして正式に孫権の死を告げ、喪を執り行った。
太傅としての政治改革
孫亮が即位すると、諸葛恪は太傅に任じられ、政務の最高責任者となった。彼はまず民心を得るため、広く徳政を施した。 監視や密告を担う制度を廃止して耳目官(監視・密告係)を罷免し、滞納された税を免除し、さらに関税も撤廃した。 これらの措置はすべて百姓に利益をもたらし、人々は大いに喜んだ。諸葛恪が外出するたび、群衆はその姿を一目見ようと首を伸ばして集まったという。 諸葛恪の人気はまさに絶頂、輔政の座は彼にとって無双の舞台に見えたに違いない。
東興の戦いでの大勝利
建興元年(252年)十月、魏の大将軍・司馬師は、孫権の死を絶好の好機と見て、呉への侵攻を決意した。しかし諸葛恪は即座に防衛体制を整えた。二つの山の狭間に大堤を築き、その両端に城を築き、それぞれ全端と留略を配置し。守備魏軍の進撃経路を封じた。これこそが、後に語り草となる東興防衛の決定的布石であった。
同年十二月、司馬師は弟・司馬昭を監軍に任じ、王昶を南郡、毌丘倹は武昌に向け、胡遵・諸葛誕には七万の兵を預けて東興への総攻撃を命じた。魏軍は浮橋を架けて大堤の突破を狙う。
これに対し、諸葛恪は四万の兵を率いて緊急の救援へ向かった。冠軍将軍・丁奉、呂拠(呂據)、留贊、唐咨らを前鋒として先陣を切った。
なかでも丁奉はわずか三千の兵を率いて突き進み、二日で東興に到達し、徐塘に拠点を築く。その夜、大雪が降りしきる間、魏軍の胡遵らは油断して酒宴に興じていた。丁奉は軽装で奇襲を断行し、敵陣はたちまち崩れ、呂拠らの追撃と水軍担当・朱異の浮橋攻撃が続いて、魏軍は大混乱に陥る。
魏兵は我先にと浮橋を渡ろうとし、橋は耐えきれず崩落。多くの兵が川に転落し、身を踏まれて溺死。死屍は数え切れず、戦場を塞ぐほどだった。将軍・韓綜や桓嘉も溺死し、毌丘倹・王昶らは敗北を悟って、自軍の陣を焼き払って撤退する他なかった。
戦いは呉の圧勝に終わり、諸葛恪は大量の軍需物資とともに、諸葛恪は陽都侯に封じられ、揚州・荊州の州牧を兼ねさせ、さらには中外の諸軍を総督する立場にまで引き上げた。『建康実録』によれば、この時点で丞相にも任じられたという。
いずれにせよ、東興の大勝利は諸葛恪の威名を天下に轟かせたのは間違いないが、それが彼の命運を大きく狂わせる序章となるのだった。
勝利後の増長と北伐計画
東興の戦いで大勝を収めた諸葛恪は、ますます自信を強めた。
翌年の建興二年(253年)、すでに魏への北伐を計画し始めたのである。 諸葛恪は司馬季無を蜀に派遣して姜維に共に挙兵するよう促した。もちろん、北伐大好きな姜維はこれに同意した。 多くの臣下が戦いに疲弊した兵を休ませるべきだと諫めたが、諸葛恪はこれを聞き入れなかった。中散大夫の蔣延が固く反対すると、諸葛恪は彼を強引に退席させるほどであった。
さらに諸葛恪は天下の道理を説く文章を著し、「天下に二つの太陽はなく、地上に二人の皇帝はいない」と記した。戦国の覇者や曹操が時勢をつかんで勢力を拡大した事例を引き合いに出し、「魏を討つのは天命である」と強調したのである。これは彼が戦略よりも意志を優先し、正統性をもって大義を掲げようとした姿勢を示していた。
この時、丹陽太守の聶友が手紙を送り、「先帝も魏を防ぐ計画を抱いていたが実行しなかった。今は兵を休養させ、敵の隙を見て動くべきだ。今すぐの大軍出撃は天時に合わない」と諫めた。しかし諸葛恪は「君の言葉にも理はあるが、大局を見ていない」と返答し、聞き入れなかった。彼の姿勢は、忠告よりも己の決断を優先する剛愎さをはっきりと表していた。 ついでに、滕胤も反対しているが、無視されている。
ついに諸葛恪は二十万もの兵を動員して合肥への進軍を開始した。大規模な遠征に民は動揺し、国中は不安で揺れた。東興の勝利がもたらした名声は、ここで逆に彼を強引な進軍へと駆り立て、やがて悲劇的な結末への道を開くことになった。
合肥新城の戦いと大敗
二十万の大軍を率いて北上した諸葛恪は、淮南において軍威を示すため住民を追い立てようとした。だが将軍たちは「住民は必ず逃げ去り、兵が疲れるばかりで実利はない。むしろ合肥新城を包囲し、救援に来る敵を撃つべきだ」と進言した。諸葛恪はこの意見を容れて新城を囲んだ。
新城は落城寸前となったが、魏の守将張特は智略を用いた。彼は「国法により百日守れば降伏しても罪に問われない」と述べ、すでに九十余日を経たことを告げ、さらに官印を差し出して誠意を示した。諸葛恪はこれを信じ、攻撃を停止した。だが張特はその隙に城を修復し、「もはや死を覚悟する」と叫んで徹底抗戦に転じたのである。
怒りに燃えた諸葛恪は猛攻を仕掛けるも、新城はびくともしない。夏の酷暑の中で疫病が蔓延し、兵は次々倒れたが、諸葛恪は「病気など嘘」と高をくくり、報告する者を処罰しようとしたため、誰ももう報告できなくなった。 諸葛恪自身も内心では策の失敗を悟っていたが、城を落とせないことを恥じ、怒りを顔に表していた。
部下の朱異が意見を述べると、諸葛恪は激怒し兵権を剥奪。都尉・蔡林も助言を続けたが結果は同じ。蔡林は遂に馬に飛び乗り魏へ投降するに至った。
やがて魏軍が援軍を続々と送り込み、呉軍は退路を脅かされる。諸葛恪は七月になってようやく撤退を決意する。 しかし退却の途上、傷病兵を多く抱えた呉軍は秩序を失い、文欽の追撃を受けて大敗を喫し、一万を超える兵を失った。 戦いは惨憺たる結末に終わったが、諸葛恪はなお劣勢を意に介さず、尋陽で屯田を行う計画すら語った。 しかし朝廷からの召還命令が繰り返し届いたため、やむなく建業に帰還、その道すがら民衆から怨嗟の声が満ち溢れていた。
失策後の動揺と民心喪失
合肥の大敗から戻った諸葛恪は、なおも己の威を示そうとした。まず矛先を向けたのは中書令・孫嘿である。遠征中に何度も詔を送り帰還を促したことを責め立て、「なぜ余計な口出しをする」と叱咤した。孫嘿は恐れをなし、家に閉じこもって宮廷に姿を見せなくなった。
さらに諸葛恪は、自らの遠征中に任用された官僚を片っ端から罷免し、改めて人事をやり直した。旧臣たちは叱責を浴びせられ、信頼も地位も削ぎ落とされる。諸葛恪は新たに親衛を組み直し、軍備を整えて再び出征の構えを見せた。敗北の傷を覆い隠そうとするかのように、強引な振る舞いで自らの権威を保とうとしたのである。
だが人々の心はすでに彼から離れていた。兵を疲弊させ、民を怯えさせた将に、誰がついて行こうと望むのか。青州や徐州への新たな遠征計画は、むしろ恐怖と不安を広げただけだった。街には怨嗟の声が満ち、かつて諸葛恪の姿を見ようと首を伸ばした群衆は、今や陰でため息を漏らす群れに変わっていた。絶頂から転落へ、その坂道はもう始まっていた。
孫峻の陰謀と諸葛恪の不吉な兆候
専権を強める諸葛恪に対し、孫峻はその排除を企てた。彼は「諸葛恪が政変を起こそうとしている」と中傷を重ね、孫亮に酒宴を開かせることで粛清の舞台を用意した。表向きは饗応、裏では血を流す企みである。
建興二年(253年)の朝、諸葛恪の身に奇怪な前兆が立て続けに起こった。洗面の水は鼻を突くような悪臭を放ち、衣服を替えてもなお臭気は消えなかった。不快と憂鬱が胸に広がる。出立のときには、飼い犬が衣をくわえて放そうとせず、まるで「行くな」と懇願しているかのようであった。彼は犬を追わせ、強引に車へと乗り込んだが、不吉な影は背後にまとわりついて離れなかった。
その後、宮門に到着したが宮門前で車を止めた。孫峻はすでに帳中に兵を伏せていたが、諸葛恪が時間通りに入らないので、計画が漏れることを恐れ、自ら出迎えて「体調が優れぬなら入朝を控えてもよい」と言葉をかけた。しかし諸葛恪は「自らの力で参内すべきである」と応じて中へ入った。その途上、散騎常侍の張約・朱恩が密かに「本日の宴は異様、必ず警戒すべし」との書簡を届けたが、諸葛恪はそれを読んでそのまま進んだ。
門前で太常の滕胤に出会い、「急に腹痛が宴に行けそうにない」と告げた。滕胤は孫峻の陰謀を知らず、「主上は酒宴を設けて君を招いているのだから、欠席すべきでない」と勧めた。 『呉歴』によれば、張約・朱恩の密書を諸葛恪は滕胤に見せ、滕胤は帰るよう勧めたが、「孫峻の若造に何ができよう。ただ酒食に毒でも盛るのでは」と言って入殿した。 諸葛恪は迷いながらも再び宮中へと向かった。剣履を身につけ、ついに酒宴の場へと足を踏み入れたのである。そこにはすでに伏兵が潜み、運命の瞬間が迫っていた。
彼の足先が宴席の敷居を跨いだ瞬間、伏兵の気配がひそやかに息を殺していた。運命はもう引き返せぬところに至っていた。
孫亮と孫峻の宴席での暗殺
諸葛恪が宮中に入ると、そこには孫亮と孫峻が設けた酒宴が待っていた。 酒が供されるも、諸葛恪は疑念を抱いて口をつけなかった。すると孫峻が「君はまだ病が癒えていない。常用の薬酒があるはずだから、それを飲まれては」と言い、諸葛恪は安心して持参の薬酒を飲んだ。 酒が数巡した後、孫亮は内殿へ戻った。孫峻は席を立ち、長衣を脱いで短服に着替え、「詔により諸葛恪を逮捕する!」と叫んだ。 その合図に伏兵が一斉に飛び出した。諸葛恪は為す術なく討たれ、その首は切り落とされて都に晒された。
その後、諸葛恪の三族は誅滅され、彼の栄華は一瞬にして潰えた。
諸葛恪の死にまつわる民間の予兆
諸葛恪の死をめぐっては、民間で早くから不吉な予兆が語られていた。世に流布した童謡には「諸葛恪、蘆葦単衣篾鉤落、於何相求成子閤」と歌われていた。これは「諸葛恪は蘆葦の衣に包まれ、竹の篾で腰を縛られ、最終的に石子岡に葬られる」という意味を含んでいた。
「成子閤」とは石子岡の反語であり、建業の南にある墓地の名であった。「鉤落」は竹で作った飾り帯のことで、死者の屍を葦で包み、篾で腰を縛るさまを指す。童謡の内容は、諸葛恪の死のありさまを的確に暗示していたのである。
実際に諸葛恪は、葦席に包まれ、竹篾で腰を縛られて石子岡に投げ捨てられた。童謡は現実となり、民間で囁かれていた予言が恐ろしい形で的中したことを人々は深く記憶した。
人々がかつて彼の風采を一目見ようと群がった建業の街は、今や彼の名を恐怖と共に語り、晒された首は警世の象徴となった。諸葛恪の生涯は、まさに頂点から奈落へと転落した劇的な結末を迎えたのである。
諸葛恪の死後と評価
諸葛恪が孫峻の手により殺害された後、臨淮の臧均が上表して「今回の誅殺は、西漢の劉章や劉興居が諸呂を誅したことを超える義挙であり、諸葛恪父子の首が晒され人々が唾を吐くのは当然である。ただし項羽や韓信の例のように、葬礼だけは許すべきである」と述べた。孫亮と孫峻はこれに従い、諸葛恪の遺体を探させて埋葬させた。
その後、孫峻の後継である孫綝が誅滅されると、呉の景帝・孫休は諸葛恪ら、かつて孫峻・孫綝の専権で害を受けた者たちに対して平反を行った。諸葛恪も改葬され、祭祀が行われた。朝臣の中からは諸葛恪の功績を記念して碑を建てるべきだとの意見も出されたが、博士の盛冲は「諸葛恪は労あって功なく、託孤の重責を担いながら小臣に殺されたのは無智である」と反対した。孫休もこれに同意し、結局、碑は立てられなかった。
陳寿は「才気と幹略は人々に称えられたが、驕慢で謙虚さがなく、己を誇り人を侮ったために敗れた」と厳しく断じた。 諸葛亮は「性格が粗忽で、軍の糧食のような大事を任せるのは不安」と述べ、父の諸葛瑾も「家を興すどころか一族を滅ぼす」と予言していた。近親者の間でも懸念は根強かった。
一方でその才を高く買う声もあった。胡綜は「英才卓越」と称え、孫登も「才略広大で時を助ける器」と評価した。孫権自身も「藍田の玉のような逸材」と讃えている。
こうして諸葛恪は、かつての栄光とは裏腹に、無能・剛愎と評価される側面が強調されることとなった。英才としての若き姿と、悲劇的な最期との落差は、後世に大きな議論を残すことになったのである。
参考文献
- 三國志・呉書十九・諸葛恪伝 中國哲學書電子化計劃
- 三國志・呉書三・孫亮伝 中國哲學書電子化計劃
- 三國志・呉書十九・滕胤傳 中國哲學書電子化計劃
- 参考URL:諸葛恪 – Wikipedia
- 建康実録・巻二 中國哲學書電子化計劃
- 三國志・呉書十四・孫登傳 中國哲學書電子化計劃
- 資治通鑑・巻七十六
諸葛恪のFAQ
諸葛恪の字(あざな)は?
諸葛恪の字は元遜(げんそん)です。
諸葛恪はどんな人物?
諸葛恪は才覚に優れ、若年から群臣を圧倒しましたが、剛愎で独断専行が多く、功績と失策が入り混じる人物でした。
諸葛恪の最後はどうなった?
諸葛恪は孫峻の宴席で伏兵により殺害され、三族が誅滅されました。
諸葛恪は誰に仕えた?
呉の孫権、のちに孫亮に仕えました。
諸葛恪にまつわるエピソードは?
孫権と張昭の酒席で呂尚の故事を引用して論破した話、蜀使者の前で機知を示した話、驢馬にまつわる逸話などがあります。
コメント