1分でわかる忙しい人のための宗預(そうよ)の紹介
宗預(そうよ)、字は徳豔(とくえん)、出身は南陽安衆、生没年(?~264年)
宗預は蜀後期の重要な外交官であり、対呉関係の維持に大きな役割を果たした人物である。
建安十七年(212年)に張飛に随行して入蜀し、建興初には諸葛亮により主簿に抜擢された。
孫権との対話では堂々とした応答で高く評価され、鄧芝や費禕に次ぐ待遇を受けた。
延熙十年(247年)には屯騎校尉となり、呉へ再び赴いて孫権から涙ながらの別れを告げられるなど、二国関係において極めて重い責務を担った。
のちに征西大将軍・鎮軍大将軍へ進み、老いてなお節を貫いたが、咸熙元年(264年)に洛陽へ移送される途中に病死した。
宗預の生涯を徹底解説!諸葛亮亡き後、呉との外交を担い孫権の信頼を勝ち取り鎮軍大将軍まで就任した外交官
張飛に随行して入蜀する
建安十六年(211年)、劉備が益州牧・劉璋の招きに応じて入蜀した。名目上は漢中の張魯に備えるためだが、その実態は「招かれた客が居座る」という、後の展開を考えれば既定路線の始まりだった。
このとき劉備は葭萌に駐屯し、様子を窺いつつ内部の調整を進めていた。
建安十七年(212年)、劉備と劉璋の関係は完全に破綻し、対決は不可避となる。劉備は諸葛亮、張飛、そしてその他の腹心たちを呼び寄せ、いよいよ益州の掌握に動き出す。
宗預が歴史に姿を現すのはこのときで、張飛に随行して入蜀している。
建興初年(223年)、諸葛亮が政権を引き継ぐと、宗預は主簿に任命される。
その後は参軍、右中郎将と順当に昇進し、地道に働きながら着実に存在感を強めていった。
諸葛亮死後の孫権との舌戦
建興十二年(234年)八月、諸葛亮が北伐の陣中で没すると、蜀の威光は大きく揺らいだ。
それを見て呉は、魏の南下を警戒するふりをしつつ、巴丘の守兵を一万人に増強する。表向きは救援の準備だが、裏では「場合によっては蜀を切り取るのもアリ」という思惑が透けていた。
蜀も黙ってはいられず、永安の防備を固めて牽制に出る。この睨み合いの只中に放り込まれたのが宗預だった。彼は使者として呉へ赴き、孫権との謁見に臨む。
孫権は「東と西は本来、兄弟のようなもの。なのに蜀は白帝城の守りを固めた。これはどういうつもりか?」
という圧を含んだ質問を浴びせてくる。だが宗預はそれを真っ向から受け止めた。
「巴丘を固めたのは呉、白帝を強化したのは蜀。どちらも時勢を踏まえた当然の対応にすぎない。互いに非難しあう筋合いはない。」
まるで一撃必殺の反論で、柔らかい表現はひとつもない。これには孫権もたじろぐどころか、逆に大笑いし、その剛直さを手放しで称賛した。
宗預はこのやりとりで強い印象を残し、鄧芝や費禕に次ぐ厚遇を受けることとなる。やがて侍中となり、さらに尚書へと昇進。
あの場で一言でも濁していたら、歴史の中で彼の名がこれほど大きくなることはなかったかもしれない。
鄧芝との機知に富んだ応酬
延熙十年(247年)、宗預は屯騎校尉となった。
そんなとき、江州から戻ってきた車騎将軍・鄧芝が朝廷に顔を出す。武官としての実績こそあれど、その態度は鼻持ちならず、大将軍の費禕ですら関わりを避けるほどの傲慢さで知られていた。
だが、宗預だけは違った。
ある日、鄧芝が宗預に言い放つ。「礼に照らせば、六十を超えた者は兵を帯びぬもの。それなのにお前は今、兵を受けている。なぜだ」
年齢を盾にした、いかにも上から目線の言い草だが、宗預は臆さない。
「そなたは七十になっても兵を返していない。それなら私が六十で受けて何がいけないのか」
聞きようによってはただの事実指摘だが、立場をわきまえた老将の目線からすれば、相当に痛烈な一撃だった。
これについて、裴松之は「鄧芝が年齢を引き合いに出して宗預をからかうのは、まさに自分のことを顧みない愚かさである。とはいえ、宗預の返答もまた相手の痛点を突きすぎていて、史書に残すほどの価値は薄い」と評している。
孫権と最期の対面
宗預はふたたび呉へ赴き、孫権の前に立った。その立ち姿は変わらぬが、老いと病が進んでいた。
送別の場で、孫権は宗預の手を取り、目に涙を浮かべて語りかける。
「あなたはこれまで、呉と蜀の友好を保ってくれた。私も老い、あなたもまた年を重ねた。もはや、再び会うことはないかもしれぬ」
宗預もまた言葉を返す。「蜀は小国であり偏っているが、東と西が互いに支え合ってこそ成り立つ。呉にとって蜀は必要であり、蜀にとって呉もまた欠かせない。だが私は老い、病も多く、これが最後の拝顔となるかもしれない」
別れの予感に満ちたこのやり取りのあと、孫権は宗預の労をねぎらい、大珠一斛を贈ったという。
それは決して、外交の功績に対する対価ではない。信を結び、国を越えて言葉を交わした者同士が、もう会えぬかもしれないと悟ったときの、静かな敬意の証だった。
征西大将軍昇進と晩節
蜀に帰還した宗預は、後将軍に任じられ、永安の統括を任される。その後は征西大将軍へと昇進し、関内侯を授けられた。
景耀元年(258年)、病のためいったん成都に召還されたが、その後も鎮軍大将軍に就き、兗州刺史の名誉職を領するなど、政権の終わりまでその名は重職に連なっていた。
この頃、朝政の実権はすでに都護・諸葛瞻の手中にあり、若い将が政治の舵を握る時代へと移っていた。
ある日、廖化が宗預を訪ね、「一緒に諸葛瞻の屋敷に挨拶に行こう」と声をかける。老臣たちの礼儀訪問というわけだ。
だが宗預は、その誘いを断った。
「我らはもう七十を越えている。地位も名誉も、これまでの人生で嫌というほど得た。今はもう、死を待つだけの身だ。そんな年寄りが、若者の屋敷にわざわざ出向いて頭を下げるなど、何のために必要があるのか」
老臣として媚びず、慣れ合わず、ただ己の節を守り抜いた。
咸熙元年(264年)、劉禅は洛陽への移送を命じられた。
この時、董厥・郤正・張通・廖化・宗預・樊建・張紹らが従った。
しかし、廖化と宗預はその途上で病に倒れた。
宗預の評価
延熙十四年(251年)、蜀の校尉・樊建が呉へ派遣された際、孫権は重病に伏しており、直接の面会はかなわなかった。
だがその病床で、孫権は諸葛恪に問いかけている。「樊建は宗預と比べてどうか」
これに対して諸葛恪は、慎重に言葉を選んで答える。「才と識では宗預には及ばぬが、品の良さでは樊建のほうが勝っております」
どちらにも花を持たせつつ、宗預の格の高さを自然に際立たせた巧妙な返答である。
孫権にとって宗預は、外交官を測る際の基準として浮かぶほど評価が高かった。
『三国志』の陳寿も「宗預は孫権の厳しさを正面から受け止め、それに応える才と度量があった」と記している。
参考文献
- 三國志 : 蜀書十五 : 宗預傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 蜀書五 : 諸葛亮傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 華陽國志/巻七 – 维基文库,自由的图书馆
- 参考URL:宗預 – Wikipedia
宗預のFAQ
宗預の字(あざな)は?
宗預の字は徳豔(とくえん)です。
宗預はどんな人物?
宗預は外交に優れ、孫権に対しても堂々と物を言う剛直な人物でした。
呉との折衝において重要な役割を果たし、蜀の対外関係維持に大きく貢献しました。
宗預の最後はどうなった?
咸熙元年に廖化と共に洛陽へ移送される途上で病没しました。
宗預は誰に仕えた?
宗預は蜀の主に諸葛亮・費禕・諸葛瞻らの政権下で仕えました。
宗預にまつわるエピソードは?
孫権が宗預の手を取り涙で別れを惜しみ、大珠一斛を贈った逸話が特に有名です。
また、鄧芝との応酬もよく知られています。




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