曹爽:高平陵の変で魏の頂点から族滅へ転落した宗族【すぐわかる要約付き】

曹爽

1分でわかる忙しい人のための曹爽の紹介

曹爽(そうそう)、字は昭伯(しょうはく)、出身は沛国譙県、生没年(?~249年)

曹爽は魏の宗室出身で、曹真の子として生まれ、若いころから宮中に出入りし、太子時代の曹叡と深い関係を築いた人物である。
曹叡の即位後は寵臣として順調に昇進し、最終的には大将軍・録尚書事として政権の中枢を担った。
明帝曹叡の遺詔により司馬懿とともに幼帝曹芳を補佐する立場となったが、次第に側近を重用して司馬懿を政務から排除し、権力を独占するようになる。
正始五年(244年)には名声を求めて蜀漢遠征を主導したが、補給の失敗と蜀軍の防衛によって大敗し、国内に大きな損害を残した。
その後は奢侈と専横が激しくなり、朝廷の綱紀は乱れ、皇帝に匹敵する生活を送ったと記録されている。
正始十年(249年)、高平陵参拝の隙を突かれて司馬懿が政変を起こすと、最終的に降伏を選択し、帰洛後に一族ともども誅殺された。
曹爽の生涯は、魏後期における宗室政治の限界と、権力闘争の苛烈さを象徴するものであった。

曹爽の生涯を徹底解説!曹真の息子として、司馬懿を台頭させ魏を滅ぼす引き金となった宗族

明帝・曹叡との関係と異例の優遇

曹爽は、魏の名将・曹真の子として宗室に生まれた。
その出自はまさに宮中での将来を約束されたも同然で、若いころから自然と政権の中心に身を置くような立場にあった。
特に注目すべきは、太子であった曹叡との関係である。彼らはただの親戚ではなく、共に語り合い、笑い合うような間柄で、まるで書物を枕に夢を語る旧友のような深い絆で結ばれていた。

この信頼関係は、単なる血のつながり以上のものであり、日々の交流と誠実な姿勢が積み重なった結果と言えるだろう。
やがて曹叡が皇帝として即位すると、その信頼はすぐに人事に反映された。
曹爽は散騎侍郎に任命され、間を置かずに城門校尉、さらに散騎常侍、武衛将軍と、次々に要職へと抜擢されていった。
まるで綿密に組まれた設計図の通りに階段を上がっていくように、彼は着実に地位を築いていった。

これらはいずれも皇帝の身近に仕える重要な役職であり、若年の人物がこれほど短期間で昇進を重ねるのは極めて珍しい。
そして太和五年(231年)、父・曹真の死により、曹爽は召陵侯の爵位を継承した。
この時点で彼は、家柄に恥じぬ形で名実ともに宗室の中心人物としての地位を固めたのである。

明帝の遺言と司馬懿との共同政治体制

景初三年(239年)、明帝・曹叡は病に倒れ、ついに床から起き上がれなくなった。
その最期が近いことを悟った彼は、曹爽を内寝へと呼び寄せ、まるで皇位を手渡すように重要な任を託した。
曹爽はこの場で大将軍に任命され、さらに「節鉞」という、という最強カードを仮に授けられた。 これは「皇帝の代わりに軍を動かし、反乱を見たら問答無用で処刑OK」という、令状つきの斬鉄剣みたいな権限だった。

さらに彼は、中外の諸軍事を統括する地位を得て、尚書事をも兼ねることとなった。
だが、明帝はこの機体を完全に曹爽一人に託したわけではなかった。彼は太尉・司馬懿にも政権の鍵を預け、ふたりの共同体制によって国を導くよう命じたのである。

新たな皇太子・曹芳はまだ八歳の少年であり、国の舵取りを任されるにはあまりにも幼かった。
こうして魏の朝廷では、曹爽と司馬懿という二人の重臣が、事実上の摂政として政務と軍務を担う体制が築かれることになった。
この体制は表向きこそ「補佐役」に見えたが、実態としては皇帝のいない国を切り盛りする、極めて強力な共同政権であった。

曹芳即位後の権力集中

景初三年(239年)、明帝・曹叡が崩御し、皇太子の曹芳が即位した。
そしてこの瞬間から、曹爽の出世エンジンはフルスロットルで回り始める。
侍中の地位を加えられ、爵位も召陵侯から武安侯へと昇進した。
おまけに食邑一万二千戸を賜り、宗室内でも際立った待遇を受けるようになった。

さらに、曹爽には特別な礼遇が次々と与えられた。
剣を帯び、靴を履いたまま殿上へ上がることを許され、さらに朝廷では「早足で歩かなくていいよ」と指示され、謁見の際にも名を呼ばれないという待遇を受けた。
これらはいずれも皇帝に極めて近い人物にだけ許される特例であり、制度上も曹爽の権力が公然と認められたことを意味していた。
曹芳の即位によって、曹爽の地位と影響力はさらに強まり、政権内の権力は彼のもとに集中していった。

丁謐の策と司馬懿の実権剥奪

曹芳が即位した当初、曹爽は司馬懿を父のように敬い、政務においても一方的に決定を下すような姿勢は見せなかった。
そこへ現れたのが、知恵袋こと丁謐で、「見た目だけ昇進、実態は左遷」という策を進言し、曹爽はその案に従って皇帝に奏上した結果、司馬懿は太傅へと転任されることとなった。
太傅は名目上は高位の尊官ではあったが、実質的には政務の中枢から外れる配置であり、この人事には明らかな意図が含まれていた。

この異動によって、尚書が政務を奏上する際には、まず曹爽の陣営を経由する仕組みが確立された。
それにより、政策の決定権は曹爽に集中し、司馬懿には敬意を払っているフリをしつつ、「あなたのお仕事、今日から盆栽の水やりです」レベルに権限を削り、彼から実権を巧妙に奪うものであった。

曹爽政権を支えた側近集団

権力の座に上がった曹爽は、「気心の知れたメンバーで固めよう」とばかりに、何晏、鄧颺、丁謐、李勝、畢軌といった人物を自分の推しメンたちを次々と政権に招集した。
彼らはいずれも名声を持ち、学識や経歴でも知られていたが、明帝・曹叡の治世下では政界の表舞台から外れていた存在である。
曹爽の政権下で再び重用され、政務の実務を担う中核として浮上した。

また、曹爽は弟の曹羲を中領軍に任命して都の軍事を掌握させた。
他の弟たちにもそれぞれ官職を与え、宮中への出入りを常とさせたことで、曹一族による独自の権力基盤を築き上げた。
こうして、政務も軍事も家族と仲間で独占するという、まるで「俺たちの会社、国になりました」状態が完成した。

正始五年の蜀伐と興勢の敗退

正始五年(244年)、鄧颺は曹爽に華々しい武功を立てさせようと、蜀漢への遠征を提案した。
曹爽はこの策に同意し、六万から七万の兵を率いて西へ進軍し、まずは長安に到着した。
そこから駱谷を通って蜀の領土への侵入を図ったが、地形や補給の条件は厳しいものだった。

関中の山岳地帯と、羌族・氐族が居住する辺境地域に頼らざるを得ない補給体制でコンビニもガソリンスタンドもない旅に等しかった。 大軍の長距離行軍を支えられず、、兵士だけでなく現地の民衆までもが深刻な物資不足に直面し、遠征は早くも行き詰まった。
さらに蜀漢の大将軍・費禕が先に山嶺を占拠して陣を敷いたため、魏軍は進路を阻まれ、前進は不可能となった。

征西将軍の夏侯玄と参軍の楊偉は撤退を強く勧め、曹爽もこれを受け入れて退却を開始した。
しかし撤収途中、蜀軍の追撃を受け、多くの死傷者を出してしまう。
今回の遠征はド派手に出発、ボロボロで帰還という結果に終わり、関中の大地も兵も完全に疲弊してしまった。

司馬懿の病称退避と政局の歪み

蜀漢への遠征が失敗に終わった後、朝廷の政務は次第に曹爽陣営によって独占されるようになった。
政策の立案や決定において、司馬懿が関与する機会はほとんど失われ、彼の意見が求められることも稀となっていった。
もはや誰の意見を聞かず、長年築いてきたバランスは見事に崩壊した。

やがて司馬懿は「ちょっと体調が…」と仮病モードに入って出仕を控えるようになり、政務の場から徐々に退いていった。
これは単なる健康問題ではなく、政局から実質的に排除された末の決断であった。
この時点で、魏の政権は曹爽派によって掌握され、内部における政治構造の歪みが明確に浮かび上がった。

奢侈と専横による秩序の崩壊

司馬懿が政務から退くと、曹爽とその側近たちは完全に実権を握り、思うままに振る舞うようになった。
何晏たちは農地を分け合い、国の土地を勝手に「俺の畑」に書き換える始末で、湯沐地まで勝手に占拠した。
官物は横領され、各州郡への物資の要求にも、官僚たちは逆らえず従うしかなかった。

しかも気に入らない大臣がいれば、小さなミスを大問題に仕立てて即クビにされた。
廷尉の盧毓や傅嘏といったまともな官僚も、理不尽な理由であっさり追い出された。
この頃には、朝廷は名ばかりの存在となり、秩序は急速に崩れていった。

曹爽の私生活も、皇帝と区別がつかないほどに華美を極めた。
食事や衣服、車馬は皇帝に匹敵し、尚方から運び込まれた珍宝が邸宅を埋め尽くした。
挙げ句の果てに、先帝の側女まで「お持ち帰り」して、まるで後宮の一部を自宅に移転してしまった。

曹爽はまた、太楽の楽器や武器庫の兵器を無断で持ち出し、華美な窟室を築いた。
その場で何晏らと連日宴を開き、奢侈の限りを尽くしていた。
弟の曹羲は「兄上、それはさすがにやりすぎです」と何度も止めたが、曹爽は鼻で笑ってスルーした。

そのうえ曹爽兄弟は、洛陽を離れて遊行することも多くなった。
桓範は、政権と禁軍の両方を預かる身が都を空ければ、反撃の隙を与えると忠告したが、曹爽は「自分に逆らえる者などいない」と高をくくり、忠言を退けた。

明帝の陵墓参拝と高平陵の変の勃発

正始十年(249年)正月、曹芳の「お墓参り行くぞ!」宣言に合わせて、魏明帝の陵墓である高平陵ツアーが企画され、皇帝曹芳は車駕を発した。
曹爽は兄弟とともに皇帝に随行し、都を離れた。
かねてより曹爽兄弟が連れ立って外出することが多かったことから、桓範は顔を青くしながら「政務と禁軍を預かる者が全員で都を空けるって正気か!?城門閉められたらアウトですぞ」と全力でブレーキを踏んだ。

しかし曹爽は「一体誰がそんなことをするのか」とフラグを立てる。
そしてまさにその時、曹爽らが都を離れた隙を突いて、司馬懿は兵を動かし、まず武庫を制圧した。
さらに洛水の浮橋に軍を駐屯させ、洛陽の軍事の主導権を掌握した。

司馬懿は即座に上奏を行い、かつて遼東から帰還した際に先帝が自ら司馬懿を信任した経緯を語ったうえで、曹爽の専横を糾弾した。
曹爽が皇帝に似せた振る舞いを行い、禁軍を掌握し、要職を私党で固め、朝廷の秩序を乱していると非難した。

さらに司馬懿は、黄門の張当を使って皇帝を監視させ、皇位を狙う動きすら見せていると述べた。
二宮の不和を煽り、国家の根幹を揺るがす存在であると訴え、趙高の乱を引き合いに出して、今こそ断を下すべきと主張した。

この奏上に対して、太尉の蔣済や尚書令の高柔も同意し、皇太后は司馬懿に処置を命じた。
曹爽・曹羲・曹訓の兵権は即座に奪われ、邸宅へ戻るよう命じられ、ついでに「逆らったら軍法適用な」とダメ押しの一文まで添えられた。

司馬懿は病を押して自ら出陣し、洛水の浮橋に布陣した。
その途中、曹爽の邸宅前で人々が押し寄せ車の進行が妨げられたが、妻の劉氏が「何事!?」と飛び出し、部下は矢をつがえるが、孫謙が三度制止して修羅場は回避された。

こうして司馬懿は無事に武庫を通過し、洛陽の軍事・政権の主導権は完全に彼の手に渡った。
高平陵参拝は、自滅の引き金となり、曹爽政権はついに終焉のときを迎えた。

司馬懿への降伏判断

司馬懿の挙兵を知った曹爽は動揺し、上奏も既読無視されるようになったことで追い詰められ、方針を決めることができなかった。
皇帝の車駕を伊水の南に留め、自らは数千の兵を集めて防衛を図ったが、決定的な打開策を見出せなかった。
その間、司馬懿は穏健な姿勢を見せるため、皇帝に帳幕と食料を送るなど、表向きは配慮を示した。

大司農の桓範は太后の召しを無視し、偽の詔で門を開かせて武器を取り、曹爽のもとへ急行した。
司馬懿はこの動きを見て、「桓範は策を立てるが、曹爽はそれを活かせない」と冷静に評した。
桓範は「今こそ天子連れて許昌に行き、兵を集めましょう!」進言したが、曹爽兄弟は「ええと…それって成功するかな?」と決断できず、機会を逸した。

桓範は曹羲に、「匹夫でさえ人質を持てば生を望む。まして天子と行動を共にし、天下に命を下せば、従わぬ者がいようか」と説いたが、曹羲は応じなかった。
最終的に侍中の許允と尚書の陳泰が曹爽を説得し、曹爽は罪を認める方針に転じ、両名を司馬懿のもとに派遣した。
これにより、司馬懿との交渉がようやく再開された。

司馬懿は曹爽の信任厚かった尹大目を使い、「免官にとどめ、命は取らん。」と洛水を誓って伝えさせた。
曹爽はこの言葉を信じ、兵を解散した。
「これからは豪族として暮らしていければいい」とのんきに発言している。

桓範はこの様子に涙し、「父の曹真がいながら、なぜこのような結末に至るのか」と嘆いた。
まもなく曹爽兄弟は免官され、侯に格下げされて邸宅に戻った。

だが洛陽県は人夫八百人を動員し、邸宅の四方を囲んで高楼を築き、常に監視体制を敷いた。
不安にかられた曹爽が庭を歩けば、楼上からその行動が逐一叫ばれ、精神的に追い詰められていった。
そして最後には「米と肉が足りません…」と、まさかの食糧支援のお願い手紙を送ってしまう。

司馬懿はこの手紙を見て驚いた。
すでに完全に包囲されていながら、まだ自分の命は保証されていると信じ、食糧をねだった内容に、曹爽の現状認識の甘さを痛感した。
とはいえ司馬懿は、米や肉、塩などを送って応じた。

曹爽兄弟はこの対応から、まだ自分たちは助かるものと幻想を抱き安心した。
だがその油断こそが、一族に迫る破滅の始まりであった。

曹爽一族の最期

事件の発端は、張当が自ら選んだ才人(女性)の張氏や何氏を密かに曹爽に送り届けたことであった。
この行動が不正と見なされ、張当は逮捕されて取り調べを受けた。
その過程で張当は、「曹爽は何晏らとともに反乱を企てており、すでに兵を訓練しており、三月中に挙兵の予定であった」と供述した。

この証言により、何晏らも捕縛され、獄に下された。
公卿や朝臣たちは廷議を開き、『春秋』の義に照らして裁断を行った。
「君主の側近が兵を率いることは許されず、もしそれを犯せば誅罰を受けるのが道理」とされ、曹爽の行動は大逆不道と断じられた。

かくして、曹爽・曹羲・曹訓をはじめ、何晏・鄧颺・丁謐・畢軌・李勝・桓範・張当らもすべて捕えられ、処刑された。
連座により三族が皆殺しとなり、曹爽政権はここに完全な崩壊を迎えた。

その後、嘉平年間に蔣済の奏上により、曹真の族孫である曹熙が新昌亭侯に立てられ、ようやく曹氏の血統が存続する道が開かれた。

曹爽の評価

『三国志』で陳寿は、夏侯氏と曹氏の間に長く続いた婚姻関係により、夏侯惇や夏侯淵、曹仁らが親族として重用され、魏の建国と安定に貢献したと述べている。
しかし、その末裔である曹爽は、徳が伴わぬまま高位に登り、奢侈と驕慢に溺れたと批判する。
これは『易経』が戒め、道家思想が忌避する姿勢であり、王道政治とは相容れないものであった。

桓範は「父の曹真は立派な人物であったが、その子らはただの子牛にすぎぬ。良い人の子であるだけの肉塊に、何の価値があるか」と厳しく嘆いた。
辛憲英もまた、「曹爽は司馬懿と共に先帝の遺命を託されたにもかかわらず、権力を私し、奢侈に溺れ、忠義を欠いた」と非難した。

張昌蒲(鍾会の母)は、「奢侈に走る曹爽は常に不安を抱えていた。だが司馬懿は必ずそのような者を討つ」と予見し、
王廣もまた、曹爽の驕りと側近たちの虚飾を批判し、「制度と政令を乱し、民は従わず、滅んでも涙を流す者はいなかった」と総括した。

もし曹爽が宗室としての責任を真に理解し、謙虚にして賢明であったなら、
司馬氏が権力を握る機会は訪れず、魏の国家はより長く存続したかもしれない。
だが現実には、驕りと軽薄な政治が、自らの首を絞めただけでなく、魏そのものの運命をも狂わせた。

その意味で曹爽は、ただの失脚者ではない。
魏の屋台骨を内側から腐らせ、司馬懿という「次の担い手」を呼び寄せた、時代の転換点そのものである。
一族の没落は、すなわち王朝の没落の予兆であった。

参考文献

曹爽のFAQ

曹爽の字(あざな)は?

曹爽の字は昭伯(しょうはく)です。

曹爽はどんな人物?

宗室として寵愛を受けて出世しましたが、側近を重用し、次第に専横と奢侈を強めた人物です。

曹爽の最後はどうなった?

正始十年(249年)の高平陵の変後、司馬懿によって一族とともに誅殺されました。

曹爽は誰に仕えた?

魏の明帝曹叡および少帝曹芳に仕えました。

曹爽にまつわるエピソードは?

正始五年(244年)の蜀漢遠征で大軍を率いながら失敗し、国力を大きく消耗させたことが知られています。

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