【1分でわかる】曹休:石亭の戦いで失われた「千里駒」の輝き【徹底解説】

曹休

1分でわかる忙しい人のための曹休の紹介

曹休(そうきゅう)、字は文烈(ぶんれつ)、出身は沛国譙県、生没年(170年代~228年)

曹操の族子として養われ、若年時から「千里駒」と称されるほど将来を嘱望された武将である。
曹操に期待され、漢中の戦いでは張飛や呉蘭らの策を見事破り、曹魏の宿衛を担った。 魏王朝成立後は曹丕の信任を得て征東大将軍や揚州牧を歴任し、孫権との戦いにおいて呂範を破るなどの武勲を挙げた。
しかし太和二年(228年)、石亭の戦いで周魴の偽降に惑わされ、陸遜に大敗。退却時に賈逵の救援で命脈を保ったものの、敗戦の責を負って上表謝罪した。しかし賈逵との確執が彼の評価を一気に低下させることになった。同年、背中に腫瘍ができて病没する。諡号は壮侯。
宗族として特別に重用され、曹丕や曹叡から篤く遇された一方で、武略には欠けるとの評価も残されている。

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曹休を徹底解説!千里駒と称され、数々の戦歴で輝くも石亭での失敗が招いた末路

孤児から「千里駒」と呼ばれるまで

曹休が父を亡くしたのは、まだ十代の頃。母と共に呉郡へ移り住むことになった。
一見すればただの遺族の避難先だが、そこはかつて彼の祖父が太守を務めていた土地だった。

祖父の旧宅に住み、その肖像画を見つめて涙する少年。
この場面、いかにも作られたエピソードっぽく聞こえるが、目撃者はその孝心に深く感じ入り、周囲の評価は一気に好感度MAXへと跳ね上がった。

やがて中平六年、曹操が挙兵すると、ここで曹休は動いた。 自らの姓と名を隠し、密かに中原へ帰還して、曹操の陣営に合流した。

そして曹操、彼を見るなり一言。「これは我が家の千里駒だ」。
この称賛、ただの親戚贔屓にしては度が過ぎているが、曹操の言葉には妙に説得力があった。曹操には千里を駆ける名馬のような将来性が曹休に見えたのだろう。

その後、曹休は曹丕と同居を許され、ほぼ実子のような待遇を受けることになる。
さらに曹操の遠征にも随行し、虎豹騎という精鋭部隊を率いた。

曹洪軍の参軍として下弁を制す

建安二十四年(219年)、蜀の劉備がじわじわと勢力を拡げ、ついに将軍・呉蘭を下弁に駐屯させた。さらに張飛までが固山に布陣し、魏の背後を断とうと画策する。
この動きに、魏陣営はややざわついた。「うちの後ろ、守れてるよな……?」と。

ここで曹操は総指揮を曹洪を取らせ、その参軍に任じられたのが、期待の星の曹休である。
曹操が送り出すにあたり、「お前は肩書きこそ参軍だが、実際には将帥だ」と言い放った。
それを聞いた曹洪も、即座に態度を改め「じゃあ任せたよ」と、すべてを任せるスタイルに転換する。
いわばこの時点で、曹洪軍は曹休軍になっていた。

問題は張飛で、魏軍の後ろを伺うその存在に、兵たちはざわつく。
だが曹休は冷静に「もし本気で背後を断つつもりなら、あいつは伏兵を置く。今は威勢だけ見せて、実は何も仕掛けていない。なら、呉蘭を叩くのが先だ」と進言する。

この見立てはズバリ的中し、即座に呉蘭を攻め落とし、張飛はさっさと撤退した。 この戦功により、曹休は中領軍に任じられた。張飛を退かせたこの一戦が、彼の名を広める決定打となった。

曹丕の即位と領軍将軍への抜擢

黄初元年(220年)、魏王に即位した曹丕は、曹休を領軍将軍に任じ、功績を称えて東陽亭侯に封じた。
やがて夏侯惇が世を去ると、その後任に曹休を抜擢。鎮南将軍として假節を持ち、都督として軍を統べ、汝南に駐屯して孫権の南方圧力に備えさせた。

この時の別れが印象的だ。曹丕はわざわざ車を降り、曹休と手を取り合って別れを告げたという。形式的な儀礼を超えた厚遇ぶりで、血筋と信頼、その両方があってこその特別扱いである。

その信頼に応えるように、孫権は歴陽に軍を構えたが、曹休はこれを撃破し、さらに兵を渡江させて蕪湖の営を火攻で焼き払った。数千家に及ぶ大規模な焼討は、戦術というよりは威嚇のデモンストレーションにも見える。
それでも功績は功績。曹休は征東将軍・揚州刺史に昇進し、安陽郷侯に進封された。

この時点では確かに結果を残している。もっとも後の石亭の大敗を知る我々にとっては、この成功が余計に眩しく映る。

洞口の戦いと呂範撃破

黄初三年(222年)、魏は曹仁は儒須口、曹真が江陵、曹休は洞口の三方面から呉へ総攻撃を仕掛けた。 曹休は征東大将軍に任じられ、假黄鉞まで授けられ、張遼、臧霸、賈逵ら二十余軍を従え進軍する姿は、名実ともに東方面の主役である。
彼の上奏して「鋭卒をもって江を渡れば必勝。不測があっても問題ない」とあまりに勇ましい台詞を吐いたが、曹丕は首を横に振る。即答で却下されたのは当然だろう。

戦場で風が吹くのは珍しくない。だがこの時の暴風は呉将・呂範の船団をバラバラにし、船索を切って魏軍の目前に流されてしまう。 曹休は好機とみて、襲いかかり呂範軍を大敗させた。
臧霸も勢いに乗って徐陵を攻略し、数千の呉兵を斬った。だが流れは長続きせず、徐盛と全琮が反撃に転じ、魏将の尹礼(尹盧)が討ち取られ、数百の兵が斬獲された。臧霸は撤退し、勝利の余韻は一瞬でかき消えた。

さらに曹仁は濡須口で敗れ、曹真も江陵で成果なし。三方面作戦のうち輝いたのは曹休の初戦だけだった。結局、曹丕は撤兵を命じ、戦役は失敗に終わった。
とりあえず、初戦に勝てた曹休は揚州牧に任じられている。

魏明帝の即位と大司馬昇進

黄初七年(226年)、曹丕が崩御すると、曹休は陳群・曹真・司馬懿らと共に政務を支える立場に就く。

そして翌年、太和元年(227年)には、若き魏明帝・曹叡が即位。
曹休はその功績を認められ、長平侯へと進封される。新しい時代にふさわしい、新しい肩書きが彼に与えられた。
しかし肩書きだけで飯は食えない。現場もまた忙しかった。
呉の将・審徳が皖城に駐屯すると、曹休は即座に軍を率いて出陣し、これを討伐に向かい、審徳を斬首し、さらに韓綜や翟丹といった将たちの降伏も引き出した。

これにより封邑は一挙に400戸も加増され、合計2500戸になった。さらに名実ともに軍の頂点である大司馬に任命され、揚州都督も引き続き兼任する。いまや曹休は、南方防衛の第一人者で、魏の軍事中枢における看板として、その名が政権の安定を支えていた。

石亭の戦い

太和二年(228年)、魏が仕掛けた「南方二正面作戦」が始まる。
司馬懿が漢水に出陣し、もう一方の主力である曹休は尋陽へと進軍した。
大司馬自らが矛先を担い、これは一気に呉を崩せるかという空気が魏全体に漂っていた。

ここで、呉の周魴が「降伏する、信じて」という言葉を、曹休はあっさり信じてしまった。
歴戦の将にしては、あまりにも甘い。血糖値が心配になるレベルの判断ミスだった。

とにかく、軍をどんどん南へ進め、軍を石亭まで進め、まんまと敵の土俵に誘い込まれる。
そこへ待ち構えていたのが呉の名将・陸遜で、壊滅寸前の大敗を喫する。 数万の兵を失い、夜営は阿鼻叫喚、装備は投げ捨てられ、兵士たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
唯一の救いは賈逵の救援だった。間一髪で壊滅を免れたが、軍としての体裁は既にボロボロだった。

曹休はこの失態を自ら認め、上表して謝罪した。
魏明帝・曹叡は、彼を責めるどころか慰問の使者として楊暨を派遣し、厚く礼をもって迎えた。
敗戦で威信は失った。しかし宗室という血の後ろ盾は、彼の立場をギリギリのところで守ってくれた。

石亭敗戦後の責任と賈逵との確執

敗軍の将としての儀礼は果たしたが、問題はその後である。
敗軍の主将・曹休は、その怒りと屈辱を救援に駆けつけた賈逵に向け、「貴様の到着が遅かったから、こうなったのだ」と詰め寄る。
そして、戦場に落とした使節杖を拾ってこいと命じた。使節杖とは主将の権威を示す道具であり、戦場に捨てるなど本来なら屈辱的な事態だ。

だが、賈逵はひるまなかった。
「私は国家のために豫州刺史を任されている。拾い物など、私の役目ではない」と、堂々と拒絶し、そのまま軍を引いて帰還する。
この一連の行動は、曹休の面子を粉々に砕いた。
怒りの収まらぬ曹休は朝廷に訴え、賈逵も黙っておらず、両者は非難の応酬を繰り広げることとなった。

しかし、朝廷の対応は巧妙だった。
誰の目にも賈逵の言い分が道理にかなっているのは明らかだったが、宗室である曹休の顔を立てるため、結局、双方とも処罰はされなかった。
形だけは引き分けだが、実質的な勝者は明らかである。

その後も曹休は執念深く賈逵を陥れようとしたが、賈逵は一切の応答を控え、言葉ではなく沈黙で自身の正当性を貫いた。
こうして人々の評価は自然と賈逵へ傾き、曹休の威光も、もはや擁護の理由とはならなくなっていった。

かつて常勝将軍と称された男が、老いてから見せたのは、敗北を認めぬ未練と小さな見栄であった。
その姿は、威信を築くのに何十年もかかった者が、それを壊すのにたった数日しか要らなかったことを教えてくれる。

病没と諡号「壮侯」

間もなく曹休は背に腫瘍ができ、太和二年(228年)に病没した。諡は壮侯とされ、軍務における果断さを称える形式がとられた。

曹休の没後、その爵位は長子の曹肇が継いだ。曹肇は字を長思といい、魏で散騎常侍・屯騎校尉を務めた。正始年間に死去し、死後に衛将軍を追贈された。
また、少子の曹纂は字を徳思といい、魏文帝曹丕の時代に曹休の食邑三百戸を分け与えられ、列侯に封じられた。後に殄呉将軍となり、没後には前将軍を追贈された。

なお、没年については史料に異説がある。《満寵伝》は太和三年没とするが誤記と注され、《明帝紀》《資治通鑑》は太和二年九月庚子としているものの、当月に庚子日が存在しないためこれも誤りと指摘されている。
いずれにせよ、石亭の敗戦から間を置かず病没した点は各史料に共通している。

母の喪と曹丕の厚遇

曹休は生前から母を大事にしていた。

太和年間、曹休の母が亡くなった。曹休は深い悲しみに沈み、喪服を着て礼を尽くしていた。
しかし魏帝曹丕は、宗室である曹休に過度の悲嘆をさせまいと考え、侍中に命じてその喪服を奪わせ、酒と肉を口にさせた。
曹休は詔命に従ったが、かえって心身は憔悴していった。

やがて曹休は、故郷の譙県に母を葬ることを願い出た。
曹丕は越騎校尉・薛喬を派遣し、特別に帰郷を許したが、その詔には厳しい条件が付されていた。すなわち「一夜のみ滞在を許し、翌日には葬儀を終えて直ちに戻ること」というものである。

曹休は詔に従い、短い期間で母を葬ったのち、ただちに曹丕のもとへ参じた。
曹丕は自ら彼を慰撫し、厚遇を示した。この出来事は、曹丕が曹休を特に愛重していたことを物語っている。

曹休の評価

曹休は若い頃は曹操自身が「我が家の千里駒」と絶賛した。まるで未来を予見するかのようなこのセリフは、後に曹休を語る上で欠かせない「キャッチコピー」となる。 だが、褒める人がいれば、当然けなす人もいる。

陳寿は、曹氏と夏侯氏の婚姻関係によって繋がれた宗室のネットワークの中で、曹休はその血筋と立場を活かして重用されたとされる。
つまり、能力だけではなく、立ち位置が彼を押し上げたという冷静な評価である。

満寵は「曹休は頭の回転も早いし、決断力もある。だが軍略については心許ない」と指摘し、朱桓にいたっては「親戚だから使われただけ。智勇の名将ではない」とバッサリ斬っている。 名将だって負けるときはあるし、曹操も赤壁で黄蓋の詐降に引っかかったのだから仕方がない。 敗北よりも賈逵との対立が評価の転換点となった。 まるで天気のように、晴れたり曇ったり。そして石亭で雷雨に変わった。

子孫の行方と爵位の継承

参考文献

曹休のFAQ

曹休の字(あざな)は?

曹休の字は文烈(ぶんれつ)です。

曹休はどんな人物?

曹休は宗族として特に重用され、忠実で孝心に厚い人物でしたが、用兵には巧みさを欠くと評されました。

曹休の最後はどうなった?

石亭の戦いで陸遜に大敗し、その後発背疽を患って太和二年(228年)に没しました。

曹休は誰に仕えた?

曹休は曹操に仕えて出世し、のちに魏の曹丕・曹叡に仕えました。

曹休にまつわるエピソードは?

曹操が若き曹休を見て「此吾家千里駒也」と称した逸話が有名です。また、母の葬儀の際には曹丕が特別な配慮を示しました。

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