【1分でわかる】孫峻:諸葛恪を討ち、孫亮を操った男の情けない最後【徹底解説】

孫峻

1分でわかる忙しい人のための孫峻の紹介

孫峻(そんしゅん)、字は子遠(しえん)、出身は呉郡富春、生没年(219年~256年)

孫峻は呉の権臣として、孫亮期に政権を掌握した人物である。 曾祖父は孫静、祖父は孫暠、父は孫恭で、孫氏一族の名門に属していた。 若い頃から弓馬に優れ、果断な性格を持っていたため、孫権の晩年には武衛都尉・侍中に任ぜられ、さらに遺詔によって諸葛恪・滕胤と共に輔政を委ねられた。

建興二年(253年)、諸葛恪が合肥新城の戦役で大敗し人心を失うと、孫峻は孫亮と謀って政変を起こし、酒宴で諸葛恪を誅殺して一族を滅ぼした。この功により丞相大将軍・都督中外軍事に昇進し、富春侯に封じられた。 その後は権力を背景に冷酷な政治を行い、廃太子孫和を新都に移して自殺を強要し、正妃張氏も殉死するなど強引な措置を続けた。

五鳳元年(254年)以降は、孫英・孫儀らによる暗殺計画を次々と摘発し、関係者を多数処刑した。この過程で朱公主孫魯育も犠牲となった。

五鳳元年(255年)、魏の毌丘儉・文欽の反乱に際して寿春を急襲し、高亭で曹珍を破ったが、帰還途中に留贊を失った。太平元年(256年)、文欽の進言を容れて魏討伐を企図したが、石頭城での壮行で呂拠の軍容を見て不快を覚え、その夜に諸葛恪の亡霊に襲われる夢を見て病を発し、38歳で死去した。

死後、孫峻の後を継いだ堂弟孫綝も粛清されると、最終的に孫休により一族は断罪され、孫峻の墓は暴かれ、族譜からも削除された。

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孫峻を徹底解説!政敵を次々を粛清した男の栄光と落とし穴

孫峻の出自と若き才覚

孫峻の曾祖父は孫堅の弟・孫静、祖父はその長男の孫暠、父は散騎侍郎を務めた孫恭という「お前は政権のど真ん中で暴れ回る定めだ」と言わんばかりの血統である。

血統だけではなく少年時代から弓馬に優れ、洞察力と果断を兼ね備えた胆力ある人物として評判だった。 孫権の晩年には、警備隊の長である武衛都尉となり、侍中として宮中にも仕えた。。

そして孫権の臨終の場面では、遺詔により諸葛恪や滕胤と共に輔政の重任を担うこととなった。その際には武衛将軍に昇進し、宿衛の指揮をとる立場に就き、都郷侯にも封ぜられた。こうして孫峻は、呉の国政の中枢にその名を確かなものとしたのである。

孫峻の政変:失政を重ねた諸葛恪を誅殺

建興二年(253年)、諸葛恪は二十万の大軍を率いて魏を討つ遠征を決行した。 合肥新城を包囲したが、長期化し城は落ちず、夏の熱気と不衛生な水は疫病を呼び、将兵の多くが病に倒れ、街道には屍が連なった。

諸将が口をそろえて進退の策を進言するも、諸葛恪は虚言と断じて取り合わなかった。
ようやく魏の援軍が動き出すと、彼は撤退を決断するが、すでに軍は死者と病者で満ちており、退路には怨嗟の声が渦巻いていた。

建業へ戻った後も、諸葛恪は自らの専断を強めていく。地方から選ばれた官吏を一斉に罷免し、代わりに自身の目で選んだ人材を任命。宮中の宿衛兵までも入れ替え、再び青州・徐州へ軍を動かす構想を口にする。だが、民の心は既に彼から離れ、武人たちの忠誠も冷え切っていた。

この隙を見逃さなかったのが孫峻である。彼は若き皇帝・孫亮と密かに謀り、ある日、諸葛恪を酒宴へと招いた。馴染みの宴席、だがそこに伏兵がいた。盃が進む中、時を見計らって諸葛恪はその場で誅殺され、一族三族はただちに皆殺しとなった。

かつて「藍田の玉」と讃えられた男は、わずか数年で頂点から地に堕ちた。呉の政を専らにし、民の心を失った英才の末路は、孫峻の一挙によって幕を下ろしたのである。

丞相大将軍への昇進と太子孫和の死

建興二年(253年)、諸葛恪を誅殺した孫峻は、その手に握る権力の重みを隠すことなく、呉の政権を一手に掌握した。 朝廷では彼に丞相大将軍の位が授けられ、内外すべての軍事を統括する都督に任じられた。 さらに符節を与えられ、爵位は富春侯に。もはや名実ともに、孫峻は一国の主に等しい地位に登りつめた。

その冬、孫峻はさらなる野心を胸に、標的をかつて太子に立てられた孫和に向ける。 彼は今や廃され、政権から遠ざけられていたが、孫魯班(孫和の義姉で全公主という)は、孫和の生母と長く確執を抱えており、その存在を忌み嫌っていた。

孫魯班に媚びるために、孫峻は孫和を新都へ移す計画を進言し実行した、 外見上は栄転のように見せかけつつ、実際には孤立へと追いやり、そして彼は使者を送りつけ、自ら命を絶てと迫る。 絶望の末、孫和は自ら命を絶ち、正妃の張氏も殉じて死を選んだ。

皇族の内乱と魏への遠征

五鳳元年(254年)、孫登の次男である呉侯・孫英は、専横を極める孫峻の振る舞いに強い憤りを抱き、密かにその暗殺を企てた。 だが計画は発覚し、孫英は逃れられぬ追及の中で、自ら命を絶った。あるいは、彼は無実のまま巻き込まれたとも伝えられるが、真相はすでに歴史の闇に沈んでいる。 どちらにせよ、孫峻に逆らえば命を失う、それだけは誰の目にも明らかになった。

翌年の255年、魏では毌丘儉と文欽が反乱の狼煙を上げた。孫峻はこの混乱に乗じ、呂拠・留贊を率いて寿春へ兵を進めた。 しかし文欽は敗れて呉へと亡命し、呉軍はこれを受け入れて帰還した。 途中、高亭にて魏の曹珍を打ち破る戦果を挙げたものの、魏将・諸葛誕の部下蒋班の追撃に遭い、左将軍・留贊が戦死するという損失も被っている。

同年、蜀から使者が訪れた機を利用して、将軍の孫儀・張怡・林恂らは、密かに孫峻暗殺を謀った。だがまたしても計画は露見し、彼らは自刃を余儀なくされた。関係者も多数処刑された。 そのドタバタの中で孫魯班は、妹の孫魯育(朱公主)もその共謀者であると孫峻に告げたため、孫峻は孫魯育を殺害した。 皇族であろうと例外なく処断する孫峻の粛清は、もはや暴君の域に達していた。

魏討伐計画と孫峻の最期

太平元年(256年)、魏に反旗を翻して呉へと逃れた文欽が、孫峻に「今こそ魏を討つ時です」と進言した。 その言葉に乗り、孫峻は遠征の計画を立て、文欽、呂拠、車騎将軍・劉纂、鎮南将軍・朱異、前将軍・唐咨らを任命し、江都から淮水・泗水方面へ進軍させた。目指すは青州・徐州の制圧という大規模な作戦であった。

出陣にあたって、孫峻と滕胤は石頭城に赴き、将軍たちを壮行する。その際、呂拠の軍勢が整然と進む姿が、あまりにも規律正しく美しく、孫峻は思わぬ苛立ちに襲われる。 彼は心痛を訴えて席を立ち、宴席から姿を消した。その夜、夢に現れたのは、かつて自ら葬った諸葛恪の亡霊であった。剣を手にした諸葛恪が迫り来る幻にうなされ、孫峻は恐怖のあまり病を発した。権力を握りしめてなお、彼の心の奥底には恐れと猜疑が巣食っていたのだ。

やがて孫峻は38歳で命を落とし、後事は堂弟の孫綝に託された。政敵を次々と排除し、呉の頂点を握った男の最期は、外からの刃ではなく、自らの心が生み出した幻影によって崩れ落ちたのである。

孫峻の死後と評価

孫峻の死後、その権力は堂弟の孫綝に渡った。だが永安元年(258年)、皇帝孫休が孫綝を誅殺すると、怒りの矛先は墓に眠る孫峻にも及んだ。墓は暴かれ、殉葬の印綬は奪われ、棺は削られて薄くされ、粗末に再び埋められた。死してなお辱めを受ける、これ以上の屈辱はなかった。

さらに孫峻と孫綝は族譜から削除され、ただの「故峻・故綝」と呼ばれる存在に貶められた。 一族の血統にすら見捨てられ、彼らの名は呉の歴史の中で忌むべき烙印となったのである。

陳寿は『三国志』の評で「孫峻はもとより名望なく、驕慢で陰険、刑殺を多くして百姓を恐れさせた。さらに宮中に乱れ、公主孫魯班と私通した。峻と綝の凶悪さは論ずるに足らぬ」と断じてる。
権力を極めた男の名は、栄光ではなく汚辱として後世に刻まれた。専横の果てに残るものは、結局は石碑に刻まれた悪評だけだったのである。

参考文献

孫峻のFAQ

孫峻の字(あざな)は?

孫峻の字は子遠(しえん)です。

孫峻はどんな人物?

孫峻は弓馬に優れ、果断な性格であった一方、権力掌握後は冷酷で驕慢とされ、多くの粛清を行いました。

孫峻の最後はどうなった?

太平元年(256年)、魏討伐を企図する途上で病に倒れ、38歳で死去しました。

孫峻は誰に仕えた?

孫峻は呉の孫権、孫亮に仕え、孫権の死後は孫亮の政権を輔佐しました。

孫峻にまつわるエピソードは?

建興二年(253年)、酒宴の席で諸葛恪を暗殺し、一族を滅ぼした事件が代表的です。また、廃太子孫和を死に追いやったことでも知られます。

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