孫邵とは?呉の初代丞相の名はなぜ薄いのか
孔融の推挙から江南への転身:孫邵の前半生
孫邵(そんしょう)、字は長緒(ちょうちょ)、出身は北海、生没年(163~225年)
のちの呉の初代丞相である。
「廊廟の才がある」と孔融が豪語した男、孫邵。
だがこの時代、才能だけでは生き残れない。運とタイミングと、あとはたまたま政敵に刺されない鈍さが必要だった。
孔融のもとで功曹として頭角を現した彼は、上司が曹操に投降するという職場の一大事に見舞われる。
「曹操のところに行けば出世できるぞ」と言われても、孫邵は南に行った。振武将軍・劉繇について江南へ向かう選択をする。
つまり、安定より理念、保身より仁義。いや、単に逆張りが好きだっただけかもしれない。
江南では、やがて孫権の政権と合流。盧江太守や車騎長史として地味に出世していくが、火中の栗を拾うような仕事ばかり押しつけられていた可能性もある。
ただし、裏で愚痴を言っていたという記録はない。実直さが美徳だった時代、彼はその象徴だったかもしれない。
呉の初代丞相としての責務と晩年の試練
黄武元年(222年)、孫権が呉王に封じられ、正式な政権としての体裁を整えようというとき、ついに「丞相」を設けることとなる。
周囲は当然、「張昭でしょ?」と言う。文官の老舗ブランドのような存在である。だが孫権はこう言う。「今は多忙であり、丞相の職責は重い。張昭のようなご老体にその負担はかけたくない」
こうして抜擢されたのが孫邵である。
一部からは「無難で平凡」と言われたこの人選、孫権の中ではちょうどいい塩梅だったのかもしれない。
実務をコツコツ回してくれる。感情を爆発させない。派閥も持たない。そういう官僚は、政治的には重宝される。
張昭・滕胤・鄭禮らと共に朝儀を整備し、形だけは一国の体制を作り上げた。何もない所に制度が立ち上がるその瞬間に関わったことは、評価されるべきである。
しかし在任中に中傷を受ける。地味すぎたのだろうか。
孫邵はすぐに辞職を申し出た。これがまた真面目である。孫権は引き止める。「気にするな。君にはもっと働いてもらう」
こうして復職。黄武四年(225年)に死去。享年63、諡は「肅侯」。
史書では名前と肩書しか残らなかった男だが、彼が黙々と敷いた制度のレールの上を、呉はしばらく走っていくことになる。
参考文献
- 参考URL:孫邵 – Wikipedia
- 《三國志·呉主伝》裴注引《呉録》
- 《三國志·張昭伝》注引《呉録》
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