1分でわかる忙しい人のための孫亮の紹介
孫亮(そんりょう)、字は子明(しめい)、出身は呉、243年~260年
孫亮は呉の皇帝であり、孫権の末子として生まれた。兄たちが早世したため、赤烏十三年(250年)に皇太子に立てられ、幼くして帝位を継ぐこととなった。
即位時はわずか十歳であったが、聡明で推理力にも優れた逸話が残されている。しかし、実権は諸葛恪や孫峻、孫綝ら重臣に握られ、政治は専権的に進められた。
孫亮は親政を志して権臣を排除しようと試みたが、幾度も挫折し、最終的には孫綝によって廃位され、会稽王に降格された。その後、侯官侯にさらに降格され、地方に護送される途中で死去した。
死因については自殺説、毒殺説、あるいは異なる年代に没したとする説があり、史料によって異なる。享年は十八歳とされ、若くして波乱に満ちた生涯を閉じた。
孫亮を徹底解説!幼帝として即位し、権臣の専横に翻弄された呉の悲劇の皇帝
皇太子への抜擢と孫権の寵愛
赤烏七年(244年)、孫亮は孫権の末子として生を受けた。すでに長兄・孫登と次兄・孫慮はこの世を去っており、年老いた孫権にとって孫亮は、晩年に授かったかけがえのない存在となった。
皇太子の座には三兄・孫和があったが、四兄・孫覇との対立が激化し、やがて孫和は廃され、孫覇も命を絶たれる。後継者をめぐる争いは血を流し、呉の政権に深い傷を残した。
そうした混迷の果て、赤烏十三年(250年)、孫権は孫亮を皇太子に立てた。五男孫奮や六男孫休といった兄たちを押しのけ、まだ幼い息子に帝位を託した背景には、彼への深い寵愛と、未来への一縷の望みがあったのだろう。
同年、母の潘淑も皇后に立てられ、母子は一気に帝室の中心へと押し上げられる。
幼帝の即位と宮廷の変事
神鳳元年(252年)、呉の宮廷は深い陰に包まれた。孫亮の実母・潘皇后が、宮女の手によって命を落としたのである。背後には重臣たちの差し金があったとも囁かれるが、真相は歴史の帳の中に沈んだままだ。ただひとつ確かなのは、この事件が幼い孫亮の心に、癒えることのない爪痕を刻んだということである。
同じ年、呉の太祖・孫権が崩御し、帝位はわずか十歳の孫亮へと移った。即位日は四月二十八日丁酉(252年5月23日)。この日、呉は父帝の遺志と母后の無念とを背負った、あまりにも若き皇帝を戴くこととなった。
実権は当然ながら幼主にはなく、国政は後事を託された大臣たちによって執られた。諸葛恪、滕胤、孫峻、呂拠らが補佐にあたり、呂岱、丁奉ら旧臣もそれを支えた。もともとその中に名を連ねていた孫弘は、諸葛恪との対立に敗れて早々に命を落としている。幼帝の治世は、こうして血と謀略にまみれた政争の只中に産声を上げた。
孫権という支柱を失い、この時代から皇帝とはただの象徴になった。だがその小さな背中には、孫呉という国の命運が託されていたのである。
聡明な少年皇帝の逸話
即位後の孫亮は、幼少ながら聡明であったことを示す逸話が伝えられている。
孫亮はまだ若く、政務の多くを重臣たちに委ねていたが、その一方で中書に通っては、先帝・孫権の遺した記録を丹念に読み込んでいた。
あるとき、彼はふと立ち止まり、側近にこう問いかけた。
「父上は、重要な場面ではたびたび自ら詔を出していた。だが今、大将軍が何かを求めても、私は中書に口を開くだけで文書が出来てしまう。……それで良いのだろうか?」
その言葉には、政権の実権を握る者と、名ばかりの皇帝とのあいだで揺れる、幼き帝王の戸惑いがにじんでいた。「君臨すれども統べず」少年の心には、早くも帝位の重みと、その軽さが交錯しはじめていたのである。
他には、孫亮が酸梅を食べたいと言い出し、蜂蜜を所望した。さっそく黄門が倉庫から蜜を取り寄せたのだが、届いた壺の中には、よりによって鼠の糞が一粒。陛下の御口に入るものとしては、少々風味が過剰である。
責任者が呼び出され、倉庫係と黄門が「自分ではない」と譲らない。どちらも顔色を変えず、互いを指さして口論を始めた。これには周囲の大人たちも「さすがにお手上げか」と思ったが、孫亮はすぐさまその糞を手に取り、まじまじと見つめた。
「外は湿っておるが、中は乾いている。最初から蜜の中に入っていたのなら、中まで湿っているはず。つまり……あとから入れたな?」
証拠は糞の中にあり。黄門は青ざめ、あっさり罪を認め追放された。この見抜きと推理に、臣下たちはただただ目を見張るばかりだった。
諸葛恪の専権と東興の戦い
孫亮が即位すると、呉の政は大臣たちが実権を握る体制となった。諸葛恪は太傅に、滕胤は衛将軍兼尚書事を統括、呂岱は大司馬に昇進。文武百官には爵位や臨時の官職が次々に与えられ、新体制は外見上そろった装いを見せていた。しかし、その背後で国を動かしていたのは明らかに諸葛恪であった。
建興元年(252年)冬十月、諸葛恪は大軍を率いて巢湖方面へ進軍し、戦略拠点・東興に守備陣を敷く。全端を西城に、都尉留略を東城に配置し、防衛体制をがっちり固めた。魏の来襲を迎え撃つ構えとしては、十分すぎる陣だった。
十二月初一の日、大風と雷電が空を裂き、魏の諸葛誕・胡遵が歩騎七万を率いて東興を包囲。さらに王昶は南郡を、毌丘倹は武昌を攻め立てた。甲寅の日、諸葛恪は全軍を率いて東興で魏軍と対峙し、戊午には激戦の末、魏軍を打ち破った。将軍韓綜・桓嘉を斬る大きな戦果をあげ、呉の威信は一気に高まった。
だが勝利の余韻は長くは続かなかった。同月、雷雨が武昌の端門や内殿を襲った。『呉録』には、これは諸葛恪が遷都を計画していた宮殿の新築に関する天の警告とも取れるとある。
建興二年(253年)正月丙寅、孫亮は全氏を皇后に立て、大赦を布いた。庚午には魏軍の一部が退却し、二月には東興から呉軍も帰還して大規模な封賞が行われた。
しかし、勝利の後ろには過剰な自信が隠れていた。諸葛恪は再び軍を起して魏と戦おうと画策し、三月には出兵、夏四月には合肥新城を包囲した。だが疫病が蔓延し、兵の半数以上を失い、秋には軍を引き、十月の宴では威光がだいぶ失われていた。
こうして諸葛恪の専権は、東興の勝利という一筋の光を見せたものの、その光は敗北と疫病と不満とで徐々にくすんでいったのである。
孫峻の政変と諸葛恪の最期
建興二年(253年)、諸葛恪は北伐で大敗しても反省の色を見せなかった。兵の大半を疫病で失いながら、ますます強権的になり、誰の意見にも耳を貸さない。かつては呉を救った英雄も、今や「聞く耳ゼロの独裁者」だった。
この状況に危機を覚えたのが孫峻である。若き皇帝・孫亮に「このままでは国が潰れる」と吹き込み、ついに刃を抜く決意を固める。
その冬十月、建業の宴。酒が数巡したところで、孫亮は「もうよい」と内殿へ下がった。場はにぎやか、宴もたけなわとなったその時、孫峻は「厠に行く」と席を外し、長衣を脱ぎ捨て、短服に着替え、刀を腰に差す。戻ってきた彼の口から発せられたのは、冷酷な一言だった。
「詔により、諸葛恪を捕らえよ!」その声と同時に兵士たちが雪崩れ込み、場の空気は一瞬で凍りついた。
諸葛恪は抵抗する間もなく斬られ、宴席は華やかさから一転して血の匂いに包まれた。 この政変ののち、孫峻は丞相に昇進し、呉の実権を握ることとなった。諸葛恪の専権はこうして幕を閉じ、朝廷は新たな支配者を迎え入れた。しかし、この政変は呉の政治を安定させるどころか、ますます混迷の度を深めていったのである。
孫峻・孫綝の苛酷な統治と呂據・滕胤の死
孫峻はその権力を掌握すると、驕りと苛烈さを隠さず、異を唱える者には容赦がなかった。反対意見を持った者たちは処刑や自殺に追い込まれ、朝廷の空気はいつしか「恐怖」が支配するものとなった。ただし、呂拠・滕胤とは最初こそ協調を装い、小康の政務が続いたこともある。
五鳳二年(255年)、魏の毌丘倹・文欽の乱が起こると、孫峻はこの混乱に乗じ、呂拠・留贊を率いて寿春へ兵を進めた。 しかし文欽は敗れて呉へと亡命し、呉軍はこれを受け入れて帰還した。 途中、高亭にて魏の曹珍を打ち破る戦果を挙げたものの、魏将・諸葛誕の部下蒋班の追撃に遭い、左将軍・留贊が戦死するという損失も被っている。
太平元年(256年)、孫峻は文欽、呂拠、劉纂、朱異、唐咨らを派して再び魏への遠征を試みるが、途中で病に倒れて死去。彼の統治は、従弟の孫綝にその座を譲ることになる。さらに宿老・呂岱も立て続けに世を去り、政権の要が相次いで失われた。
この動きに対して、呂拠は正統な政権の枠組みを整えようと動き、滕胤を丞相に推そうとしたが、孫綝はそれを退け、滕胤を大司馬にとどめるにすぎなかった。
やがて滕胤と呂拠は挙兵を決意するも、主導権を握る孫綝の軍勢により反乱は鎮圧され、両名は斬られた。さらに将軍・王惇の暗殺謀議も露見し、彼もまた処刑される。
この一連の夜の闇のような事件により、諸葛恪・滕胤・孫峻・呂拠、かつて孫弘も含まれる顧命の列はほぼ悉く失われ、幼帝を支えるべき後見体制は形骸化し、ついには名のみのものとなってしまった。
孫亮の親政と孫綝との対立激化
太平二年(257年)、若き孫亮はついに自ら親政に乗り出した。従弟の孫綝を軽んじるそぶりも見せ、幼いながらも権威を取り戻すため、少年ながら軍を訓練し始めたという。皇帝としての自覚がようやく顔を出した瞬間だった。
一方で孫綝は朝廷を我が物とし、皇帝の命令をないがしろにしがちだった。この溝が日に日に深まり、両者の関係は冷え切っていく。
その年、魏の諸葛誕の反乱が寿春で起こり、子の諸葛靚を呉に人質として送ってきた。孫綝は援軍を派出したが戦局は良くなく、呉軍は敗北した。巣湖に籠った孫綝は唐咨に援軍を出さず、結果唐咨は孤立し魏に投降した。戦後は責任を朱異に転嫁し、朱異は大釜で処刑されたという。振る舞いは苛烈を超えて冷酷とすら言われた。
この苛烈な所業に恐れをなした諸将の中には、魏に投降する者さえ現れた
建業へ戻った孫綝は、自分が排除されるのではないかという恐怖を抱き、病を理由に朝廷を避け、兄弟に宮門を固めさせた。権力への執着と猜疑心の果てに、主君と臣下の間にはもはや戻れぬ溝が生まれていた。
孫亮廃位の政変
孫亮は、孫綝に対する不信を日に日に募らせていた。かねて孫峻時代に起こった「孫魯育殺害事件」を口実とし、虎林督の朱熊とその弟朱損が孫峻の横暴に黙っていたことを理由に、丁奉に命じて二人を処刑するよう仕向けた。孫綝はこれに諫めを入れたが、聞き入れられなかった。
太平三年(258年)、孫亮は宮中で決断する。全公主・全尚・将軍の劉丞(劉承)ら数名と謀り、孫綝の誅殺を計画した。ただし、その妃が孫綝の姪であったため、計画はあえなく彼女の密告によって露見した。孫綝のもとに情報が届くと、彼は夜陰をついて行動を開始した。
孫綝はまず全尚邸を襲い、その後弟・孫恩を使って劉丞(劉承)を蒼龍門外で暗殺。皇宮を取り囲む勢いを見せ、群臣を脅して孫亮の「精神を病んで政務不可」の触れ込みで廃位させることに成功した。こうして孫亮は会稽王へと降格され、新たに孫権六男の孫休が帝位についた。
群臣の誰もが、孫綝の勢力を恐れて声を上げなかった。これが孫亮の短き治世の終わりを告げる政変であり、呉の実権は完全に孫綝の手中に収まったのである。 『江表伝』には、孫亮が黄門侍郎・全紀と密かに「孫綝は権を専らにし、もはや帝を軽んじている。今こそ討つべし」と語ったと記される。 全紀は父・全尚にその意を伝えたが、全尚は軽率にも妻(孫峻の姉、孫綝の従姉)へ漏らし、そのまま孫綝へ情報が流れたという。 廃位が決まったとき、孫亮は弓を手に馬に乗り出ようとしたが、側近や乳母に制止される。 怒りは頂点に達し、二日間飲まず食わずで妃(全尚の娘)に罵声を浴びせる。「貴様の父の愚かさが、我が大事を台無しにしたのだ!」と。全紀は「父が詔に背き、帝に仇なした」と語り、自刃して果てた。
失意の晩年と非業の死
永安三年(260年)、会稽に幽居していた孫亮に復辟の噂が立ち、宮廷を揺らした。加えて侍従が祭祀の席で不遜な言を吐いたとされ、これが災いとなった。
孫亮は侯官侯に降格され、福建の侯官県へと赴くことを命じられたが、その途上で自殺した。
『三国志』は孫亮が自ら命を絶ったと記し、護送にあたった役人が責任を問われたという。対して『呉録』は、孫休が密かに毒を賜って殺害したと伝え、『建康実録』は永安二年(259年)に殺され享年16であったとするなど、記録は一致しない。
確かなのは、彼があまりにも若くして非業の死を遂げたことであった。享年18、もしくは16歳。皇帝としての光は短く、あまりに儚かった。
その後、呉の滅亡を経て晋の太康年間、丹陽出身の少府卿・戴顕が上表して孫亮の遺体を迎え、頼郷に改葬した。失意の皇帝の亡骸は、ようやく故国の地に帰ったのである。
孫亮の墓と後世の記録
呉が滅びてから時を経た晋の太康年間、丹陽出身の少府卿・戴顕が上表し、孫亮の遺骸は故国に迎えられ、頼郷に葬られた。わずか十代で非業の死を遂げた少年皇帝は、ようやく故国の地に帰ったのである。
生前は争いと裏切りに囲まれた彼だが、死後の眠りだけは人の手から奪われずに済んだのである。
それでも後世の筆は彼を忘れなかった。『女紅余志』は洛珍の名を記し、『奚囊橘柚』は麗居を語る。『拾遺記』はさらに朝姝・麗居・洛珍・潔華という四人の寵姫を並べ、彼女たちの香を合わせた「百濯香」や、侍らせた寝所「思香媚寝」の逸話を描く。史実か伝説かは曖昧だが、むしろその曖昧さこそが人々の想像をかき立て、孫亮という存在を長く記憶に残した。
歴史書は冷徹に「廃され、死した」とだけ記す。だが民間伝承は「彼には愛した姫たちがいた」と語り、そのわずかな人生の断片が、人々の記憶に香りのように漂い続けるのなら、それもまた一種の不滅なのかもしれない。
参考文献
- 三國志・呉書三・孫亮伝 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志・呉書三・孫休伝 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志・呉書十九 – 中國哲學書電子化計劃
- 建康實錄 : 卷第二校勘記 – 中國哲學書電子化計劃
- 参考URL:孫亮 – Wikipedia
- 拾遺記/卷八 – 维基文库,自由的图书馆
- 《女紅余志》
- 《奚囊橘柚》
孫亮のFAQ
孫亮の字(あざな)は?
孫亮の字は子明(しめい)です。
孫亮はどんな人物?
幼少ながら聡明で推理力に優れた逸話が残されています。しかし、実権を握った大臣たちに翻弄され、反発を試みるも失敗し続けました。
孫亮の最後はどうなった?
孫亮は会稽王に降格されたのち、260年に侯官侯として福建に移される途中で死去しました。『三国志』は自殺説、『呉録』は毒殺説を伝えています。
孫亮は誰に仕えた?
孫亮は呉の皇帝ででしたが、実権は諸葛恪・孫峻・孫綝らが握っていました。
孫亮にまつわるエピソードは?
孫亮が蜂蜜に混入した鼠糞を見破った逸話は有名です。また、寵姫四人を愛して香を調合させるなど、宮廷文化に関する記録も伝わっています。
コメント