1分でわかる忙しい人のための孫魯班の紹介
孫魯班(そんろはん)、字は大虎(だいこ)、出身は呉郡富春、生没年(?~?)
孫魯班は呉の大帝・孫権と歩夫人の間に生まれた長女であり、波乱の宮廷政治に深く関わった女性である。最初は周瑜の子である周循に嫁いだが早くに未亡人となり、のちに名将・全琮に再嫁して「全公主」と呼ばれた。美貌と身分を背景に、彼女は宮廷の権力争いに積極的に関与し、讒言によって皇后候補や太子の立場を揺るがせることもあった。
とりわけ王夫人を強く憎み、その死に追い込んだ上に、太子孫和の廃立にまで影響を及ぼしたことは広く知られている。
その後は孫亮を推し立てて即位させ、全氏を皇后に立てるなど、呉の皇統の行方をも左右した。また妹の孫魯育と激しく対立し、ついにはその死にまで関わるなど、一族内の確執も深めていった。
夫の全琮が亡くなった後には孫峻と私通し、影響力の維持を図ったが、太平二年(257年)には孫亮とともに孫綝の打倒を企てて失敗し、豫章へ流されることとなった。
孫魯班を徹底解説!王夫人との確執から始まる政変から流罪まで波乱の生涯
周瑜の遺児との最初の結婚と早すぎる死
孫魯班は、孫権と歩夫人の間に生まれた皇女である。
血筋は文句なし、顔も文句なし、そして性格にはやや難ありというのは後の話。
若かりし頃の彼女は、「気品あふれる美女」として名高く、まさに宮廷の花。
そんな彼女に用意された結婚相手がまた豪華で、「天下の名将・周瑜」の息子、周循であった。
「顔良し、家柄良し、気品あり」の孫魯班と、「名門の御曹司」である周循。まさに「勝ち組同士の融合」であり、祝福の嵐は止まらなかった。
だがその幸福は、まるで薄氷の上に立つようなものだった。
周循は結婚後すぐに騎都尉に任命されたものの、まもなく病に倒れ、そのまま帰らぬ人となる。
孫魯班の最初の結婚生活は幕を閉じ、未亡人となった。
そして彼女の人生は、ここから政略と讒言の濁流に巻き込まれていくことになる。
全琮への再婚と長公主への冊封
黄龍元年(229年)、再婚相手に選ばれたのは、衛将軍に昇進したばかりの全琮である。
軍権と地方統治を手にした猛者と、皇帝の娘が手を取り合った。
この再婚を機に、孫魯班は「全公主」と呼ばれるようになり、さらに長公主へと格上げされる。
全琮との間には二人の子、全懌と全呉が誕生している。
そして、全家は呉における最重要の名門へと成り上がっていく。
全家には毎年のように恩賞が与えられ、富も地位も盤石であった。
と書くと、順風満帆に見えるが、もちろんそんなわけがない。
この「安泰」が、のちの政争という修羅場の前座であったことを、本人だけが理解していたのかもしれない。
二宮の変:王夫人、孫和を陥れる
嘉禾七年(238年)、孫権の正室・歩夫人が亡くなった。
それは「誰が次の皇后になるのか」という、避けて通れない椅子取りゲームの幕開けでもあった。
候補に挙がったのは、太子・孫和の母である王夫人だった。しかしここで猛反発したのが孫魯班である。
理由はシンプルで「王夫人なんか、大っ嫌い。」この一言に尽きる。
まるでSNSの裏垢で書いているみたいな内容だが、これが国家の後継問題を直撃するから笑えない。
赤烏四年(241年)、太子・孫登が亡くなり、翌年には孫和が新太子に立てられる。
普通ならこれは慶事、だが孫魯班にとっては災厄の兆しだった。
なぜなら、孫和が皇帝になれば、母の王夫人が皇太后になってしまう。すなわち、自分の天敵が権力の頂点に来る、という構図である。
ここから孫魯班の讒言が始まる。
孫権が病に伏していたとき、孫和は宗廟で真面目に祈祷をしていた。その後、そこから少し離れた張休(妃の叔父)の家にも立ち寄った。
これを見逃すはずがない、全方位監視型の孫魯班は「太子は宗廟になどおらず、張休と怪しい謀議をしていた」と言いつける。
さらに畳みかけるように、「王夫人は陛下の病を喜んでいた顔をしていましたよ」と告げ口。
孫権は激怒し、王夫人は心労の果てに命を落とす。
こうして、「家庭内の嫌がらせ」にしてはスケールが大きすぎる中傷劇は、ついに歴史的事件に昇格したのである。
王夫人を失った孫和は、政治的にも孤立し、赤烏十三年(250年)、太子を廃され、庶人へと降格される。後に長沙王として復帰はしたが、玉座の夢は砕けた。
彼女の執念深い讒言が、王夫人と孫和を歴史の舞台から蹴落としたのである。
孫亮擁立と全氏を皇后に推す策謀
孫魯班は不安だった。いや、正確には「恐怖していた」と言った方がいい。
王夫人を死に追いやり、太子・孫和を失脚させた。それは、権力闘争に勝った者だけが味わえる栄光であると同時に、復讐の刃を常に背負う運命でもあった。
もし孫和が復権でもしようものなら、彼女が受ける報いは生ぬるいものではない。
だからこそ、次の「玉座ゲーム」にも迷わず首を突っ込んでいく。
彼女の眼が向いたのは、彼女の亡き夫・全琮(249年死去)の一族、全尚の娘だった。
この娘がまた、絵に描いたような才色兼備。
美しく、賢く、品もある。そしてなにより、血縁として「義理の姪」にあたる存在だ。
孫魯班はこの切り札を宮中へ持ち込み、父・孫権の前で「この娘こそ、孫亮にふさわしい」と連呼した。
その執念は実を結ぶ。赤烏十三年(250年)、後継者の座が空白となる中、孫魯班が推す孫亮が太子に選ばれた。
そして、思惑通りに全尚の娘は太子妃へと登りつめ、後に孫亮の即位とともに皇后となる。
つまり、孫魯班は「身の安全」という私的な理由のために、義理の姪を「皇后の椅子」に押し込んだのである。
全琮の死と孫峻との私通
赤烏十二年(249年)に孫魯班の夫・全琮が亡くなっている。
大司馬という高位を極めた重鎮であり、彼女にとっては後ろ盾でもあった人物である。
世間的には「未亡人になったんだから、あとは静かに暮らせば?」となるのだが、彼女はそんな常識など意に介さない。
この時すでに四十代。だが孫魯班の美貌と品格は健在だった。
しかもただの美人ではなく、計算高い美人である。
彼女が狙いを定めたのは、宮廷の新たな実力者・孫峻。
孫峻は権力をほぼ独占し、気に入らない者は即処刑という、恐怖政治の代名詞のような男だった。
性格最悪、評判も最悪だが、権力はある。つまり、孫魯班にとっては「価値がある」存在というわけだ。彼女は迷わず接近し、そして関係を築く。史書にはっきりと「公主魯班と私通」と記されているから、隠す気もなかったのだろう。
当然、宮廷内での評判は急落したが、孫魯班は舞台の中央に居座り続けられた。
ただ、自分が生き残るために、誰かが破廉恥と罵ろうと、孫魯班にとっては、それすらも戦場の一部だったのである。
妹・孫魯育との対立と死への道
孫魯班には、父も母も同じ妹の孫魯育がいた。
普通なら支え合うはずの姉妹、同じ屋根の下で育った姉妹、食卓を囲み、戯れ、微笑み合ったはずの姉妹。
だが現実は真逆であった。きっかけは「太子争い」である。
孫魯班は太子・孫和を潰しにかかり、「次の後継は魯王・孫覇がふさわしい」と動いた。
ところが彼女の夫である朱拠は、筋金入りの孫和派だったこともあり、姉の野望に首を縦に振らなかった。
こうして姉妹の関係は壊れた。正確には、「音を立てて粉々になった」と言った方がいい。
皇族の家に生まれ、女であるがゆえに選ばれる側であるはずの彼女たちが、互いを「選ばない」ことを決めた瞬間だった。
五鳳二年(255年)、孫儀らが孫峻の討伐を企てるも計画は漏れ、孫儀は自殺に追い込まれる。
この混乱の中、孫魯班がひとこと、「あの件、孫魯育も関わっていた」と告げた。まるで「お茶でもどう?」くらいの軽さで。
孫峻はこれを鵜呑みにし、孫魯育を捕らえて処刑する。血は水より濃いというが、それは流れるときの話らしい。
姉妹の確執は、ついに死という形で決着を迎えた。
孫亮との共謀と失敗、そして流罪
太平二年(257年)、ついに若き皇帝・孫亮が牙を剥く。標的は、朝廷でのさばる大権力者・孫綝であった。
孫魯班、太常の全尚、そして将軍・劉丞(劉承)らと密やかに打倒独裁者プロジェクト会議が開かれる。
その少し前に、孫亮が孫魯班に詰め寄った。「姉上、孫魯育の死……あれって、実際どうなんです?」
この直球質問に対して、孫魯班はさすがにうろたえ、「え、あ、あれは朱熊と朱損の讒言が……」と、慌てて責任転嫁。
結果、孫亮は「そうか、それはいかん」と丁奉を差し向け、朱兄弟を殺してしまう。ところが朱損の妻は孫峻の妹、つまり孫綝にとっては身内である。
孫綝サイドから見れば「姉の夫を殺した奴らの背後に、あの姉がいるっぽい」という計算になり孫綝は身構えた。 そんな共犯関係から孫亮と孫魯班がタッグを組み「反孫綝同盟」が出来上がったのである。
ところが問題は一つ、孫亮の妃がよりによって孫綝の姪だったのだ。家庭内スパイがいる時点で、この作戦はほぼ詰んでいた。
打倒計画は即座に孫綝の耳へはいり、彼はその夜、迅速かつ容赦なく動く。
まず全尚を急襲、劉丞(劉承)は弟・孫恩に命じて粛清。そして宮殿を包囲し、光禄勲・孟宗に詔を読ませて孫亮を廃し、会稽王へ左遷する。 玉座には孫休が座ることとなった。
全尚は零陵へ、孫魯班は豫章へと、それぞれ流罪に処され、その後の記録はない。
孫魯班が守ろうとしたものは、家でも国でもなかった。
それは、ただ自分が自分であるための「場所」、その一点だった。 だが、最後の一手を読み違えた。勝者の名前が歴史に残るなら、敗者の生き様は塵に埋もれる。
全公主・孫魯班。戦い抜いた末のその姿は、誰にも祝福されることなく、風の中へ消えていった。
参考文献
- 三國志 : 呉書二 : 吳主伝 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書五 : 孫亮全夫人伝 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書三 : 孫亮伝 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書五 : 孫休朱夫人伝 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書十九 : 孫峻伝 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書十九 : 孫綝伝 – 中國哲學書電子化計劃
- 参考URL:孫魯班 – Wikipedia
- 資治通鑑/巻075 – 维基文库,自由的图书馆
孫魯班のFAQ
孫魯班の字(あざな)は?
孫魯班の字は「大虎(だいこ)」です。
孫魯班はどんな人物?
孫魯班は美貌と地位を背景に呉の宮廷で強い影響力を持ち、しばしば讒言を用いて政局を動かしました。強い野心を持ちながらも、姉妹や皇后候補と激しく対立しました。
孫魯班の最後はどうなった?
太平二年(257年)、孫魯班は孫亮と共に孫綝誅殺を計画しましたが失敗し、豫章へ流されました。その後の消息は不明です。
孫魯班は誰に仕えた?
孫魯班は呉の大帝孫権の娘として生まれ、直接の仕え先ではなく、皇族として政局に関与しました。
孫魯班にまつわるエピソードは?
孫魯班は王夫人を憎んでその死を招き、太子孫和を廃立に追いやったことで有名です。また孫亮に全氏を皇后として推挙し、呉の皇統に大きな影響を与えました。
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