孫怡とは?公孫淵救出のため遼東遠征に渡り、孫登に推挙された名将
公孫淵救出のため遼東遠征
孫怡(そんい)字は不詳、出身は東州、生没年は不明で、三国時代の呉に仕えた武将である。 「孫」の姓を持つが、孫権の一族ではない。ただしその実力は、一族枠とは無関係に評価されるだけのものだった。
景初二年(238年)、魏の皇帝・曹叡は司馬懿に命じて、公孫淵の討伐を開始する。
公孫淵は燕王を自称し、魏に反旗を翻していたが、いざ魏軍が迫ると「呉さん助けて」と救援を要請してきた。
これを受け、孫権は翌年(239年)、羊衜・鄭冑・孫怡らを遼東へ派遣する。
だが着いたころには公孫淵は既に滅亡、司馬懿もすでに凱旋済みであった。
呉軍は魏の残兵を相手に健闘し、張持・高慮らの部隊を退け、民を捕虜にしている。 遅れて来た助っ人ながら、手ぶらでは終わらせなかったが、戦果としては乏しいものであった。
太子孫登からの推挙と評価
赤烏四年(241年)、太子・孫登が病に倒れ、臨終の床で人材を推挙する上疏文を残した。
そこに名を連ねたのは、諸葛瑾・歩隲・朱然・全琮・朱拠(朱據)・呂岱・吾粲・闞澤・厳畯・張承、そして孫怡である。
まさに「孫呉を支えるべき中核人材」として、太子のお墨付きを得ていた証だった。
血縁でも名門でもなく、戦果と信頼だけでその列に加わった孫怡は地味だが、確実に実力で評価された人物である。 その後の記述はない。
参考文献
孫怡のFAQ
孫怡の出身地は?
孫怡は東州の出身で、青州または徐州の出身と考えられています。
孫怡はどんな人物?
孫怡は孫呉に仕えた将で、北方遠征で功績を挙げた勇将として知られています。
孫怡の最後はどうなった?
記述はなく不明です。
孫怡は誰に仕えた?
孫怡は孫権に仕えました。
孫怡にまつわるエピソードは?
孫怡は孫権の一族ではないものの、太子孫登から名臣として推挙されました。





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