【1分でわかる】孫権:理想の皇帝?晩年を狂わせた長すぎる統治【徹底解説】

孫権
  1. 1分でわかる忙しい人のための孫権の紹介
  2. 孫権を徹底解説!曹操・劉備に一歩も引けを取らない、呉の皇帝の生涯
    1. 出生と家系の由来
    2. 少年期と父孫堅の死
    3. 孫策のもとでの成長
    4. 少年太守としての初任官
    5. 孫策の死:跡を継ぎ反乱を鎮める
    6. 父の仇・黄祖を討つ
    7. 曹操との対立と軍議
    8. 劉備との同盟成立
    9. 赤壁の戦いと曹操撃退
    10. 荊州問題:赤壁の戦いの後日談
    11. 交州の平定と士燮の帰順
    12. 秣陵への遷都と石頭城の築城
    13. 第一次濡須口の戦い:曹操の敬意
    14. 第二次濡須口の戦い:孫権の皖城攻略と甘寧の奇襲
    15. 荊州三郡をめぐる孫権と劉備の対立
    16. 第二次合肥の戦いと逍遙津の危機
    17. 第三次濡須口の戦い1:山越反乱と関羽の企み
    18. 第三次濡須口の戦い2:仮初めの臣従
    19. 関羽討伐:呉蜀関係の悪化
    20. 襄陽城の処遇と曹丕の皇帝就任
    21. 夷陵の戦いと呉蜀講和
    22. 魏の大規模作戦を退ける:第四次濡須口の戦い
    23. 呉蜀再同盟と石亭の戦い
    24. 皇帝即位:呉の建国
    25. 内政の整備と学者の登用
    26. 孫権の海外遠征と第三次合肥の戦い
    27. 遼東遠征と第四次合肥の戦い
    28. 第五次合肥の戦い:諸葛亮北伐への呼応
    29. 法の整備:奔喪規定の制定
    30. 呂壱事件と専横政治
    31. 赤烏二年(239年)の遼東問題と南方の反乱
    32. 孫登太子の夭折と情勢
    33. 孫和と孫覇の後継争い(二宮の変)
    34. 孫権の死:長すぎた執政
    35. 孫権の評価
  3. 参考文献
  4. 孫権のFAQ
    1. 孫権の字(あざな)は?
    2. 孫権はどんな人物?
    3. 孫権の最後はどうなった?
    4. 孫権は誰に仕えた?
    5. 孫権にまつわるエピソードは?
  5. 孫権の総評
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1分でわかる忙しい人のための孫権の紹介

孫権(そんけん)、字は仲謀(ちゅうぼう)、出身は下邳、生没年(182年~252年) 孫権は後漢末から三国時代にかけて活躍した呉の初代皇帝である。 父は孫堅、兄は孫策で、孫氏一族はもとは地方の豪族であったが、やがて江東に拠点を築き「武門」として台頭した。
若くして兄孫策の死により家督を継ぎ、張昭・周瑜らの補佐を得て江東を守った。 曹操の大軍に挑んだ赤壁の戦いでは劉備と同盟を結び、火攻で撃退して三国鼎立の基盤を築いた。 若き日には黄祖との戦いや、さらに合肥の戦いや濡須口の戦いなどで魏軍と渡り合い、生涯にわたり数々の戦場を駆け抜けた。
建安二十四年(219年)には魏の曹丕に臣従して呉王に封ぜられたが、黄龍元年(229年)には自ら皇帝を称し、国号を呉と定めた。 これにより正式に三国の一角を占める国家が誕生した。
晩年は太子問題や群臣との対立に悩まされ、後継争いで内政は混乱した。それでも在位23年間、呉を統治し続けた。神鳳元年(252年)に建業で崩御し、享年69。死後は大皇帝と諡され、廟号は太祖とされた。赤壁や夷陵の勝利者として、また呉建国の皇帝として、中国史に強烈な足跡を残した人物である。

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孫権を徹底解説!曹操・劉備に一歩も引けを取らない、呉の皇帝の生涯

出生と家系の由来

孫権は光和五年(182年)に下邳で生まれた。父は後に「江東の虎」と称される猛将・孫堅で、母は呉夫人の次男である。

孫家のルーツは呉郡富春で、伝説によれば、あの『孫子』の著者・孫武の子孫とも言われており、「兵法の家系」として知られるようになる。事実かどうかはさておき、戦略と軍事に強い孫家の評判は、この伝承とも妙に噛み合っていた。

そしてもう一つ、母・呉夫人にまつわる不思議な話が残っている。
長男・孫策を身ごもっていたときには、月が体に入る夢を見たという。
次子・孫権のときには、今度は太陽が腹に差し込んできたという。

それを聞いた父・孫堅は、「うちの家系に光が差してる」と大喜び。何もなければ、その言葉はただの親バカではなかったのかもしれない。
しかし、月の兄と、太陽の弟はというエピソードは、のちに孫権が「生まれながらにして天命を受けた人物」として語られる根拠になっていく。
物語の始まりとしては、これ以上ないほど劇的で、どこか神話的ですらある。

少年期と父孫堅の死

中平六年(189年)、後漢の霊帝が崩御すると、各地で群雄が蜂起した。孫権の父である孫堅もまた長沙で兵を挙げ、反董卓連合軍の一員として洛陽に進軍した。
孫堅は戦いの中で勇名を馳せ、洛陽を攻略して董卓と渡り合ったが、その後も中原での戦闘を続けることとなった。

初平二年(191年)、孫堅は荊州牧の劉表と対立し、その部将である黄祖と戦った。この戦いで孫堅は矢に当たり、ついに戦死した。享年三十七であった。
この突然の死は、まだ幼かった孫権の人生に大きな影を落とした。家族は動揺し、兄の孫策と共に袁術の庇護下に入らざるを得なかった。

父の戦死後、孫策は父の旧部下を糾合し、やがて江東に勢力を広げていった。少年であった孫権は、兄のもとでその歩みを見守りながら成長していったのである。

孫策のもとでの成長

初平四年(193年)、孫策は袁術から兵を借り、江東の攻略に着手した。攻略戦は短期間で進展し、孫策は劉繇・王朗らを破り、呉郡・会稽郡を制圧。江東における支配体制を確立した。

この間、弟の孫権は軍務や政務に直接関わることは少なかったが、孫策のもとで行動を共にし、情勢の推移を間近に見ていた。孫策は張紘・張昭らの文臣を召し抱え、周瑜などの若手も登用した。これらの人材に対して、「皆、いずれ孫権を支える柱となる者たちである」と述べ、弟の補佐を期待していたことが記録に残る。

孫策は軍略に長け、決断も速く、攻勢を主とした戦術を好んだ。一方、孫権は慎重で用心深く、性格や判断において兄と異なる傾向を見せた。

少年太守としての初任官

漢の建安元年(西暦196年)、孫権は十四歳で、朱治に孝廉として推薦される。県長として陽羡県を治め、奉義校尉代行の任にも就く。周泰、潘璋ら勇将がすでにその配下にあり、孫権はこれらの将たちを通じて統治と戦の両方を学んでいった。

翌建安二年(197年)、兄・孫策が丹陽・会稽・呉の三郡を制圧し、漢廷に貢納する機を得る。朝廷から使者・劉琬が派遣され、孫策に会稽太守の印綬を授けた。劉琬はその場で「孫家の兄弟はどれも才知あるが、栄華は長く続かぬ。ただし次男の孝廉(孫権)は姿も堂々としており、長く貴かろう」と評する。これは孫権の将来を示す一言となる。

その後、孫策と袁術の間に亀裂が生じる。袁術が丹陽六県や山賊の首魁・祖郎を味方につけ、山越を煽って孫策に対抗。孫策が出陣中、宣城の守備を任された孫権のもとに数千の賊軍が押し寄せた。手元にあるのはわずか数百の兵。どう見ても詰んでいる。
そこへ周泰が本気を出して奮闘し、孫権は間一髪の危機を切り抜ける。

建安四年末から五年(199~200年)に、孫策に従い廬江太守・劉勲を皖城で破り、さらに宿敵・黄祖の軍を壊滅させ、将・韓唏が戦死、黄祖は逃亡した。溺死した兵はおそらく一万人を超えるとも言われる。その後、豫章太守・華歆が降伏し、廬江と豫章の二郡を孫策の領とする。

この間、孫策は曹操と友好関係を保ち、形式的に漢廷への帰属を示す。曹操は孫策を呉侯に封じ、弟・孫翊と孫権を茂才として推挙したが、二人は官位を辞退した。

孫策の死:跡を継ぎ反乱を鎮める

建安五年(200年)春、江東を制圧した若き覇者・孫策が、突如刺客に襲われて重傷を負った。 死を覚悟した彼は、弟の孫権を枕元に呼び寄せ、印綬と兵符を託し、自らの跡を継がせた。わずか26歳の若さだった。 弟を残して逝く無念さを残して去った兄を思い、孫権は深い悲しみに沈む。政務どころではなかったが、長史・張昭に説得されてようやく喪を改め、軍営の視察を始めた。程普、朱治、周瑜、呂範といった歴戦の武将たちが支えに入るが、地元の士族たちの目はまだ厳しかった。若き当主への信頼は、そう簡単には得られない。

というのも、孫策が江東を平定する過程で地元豪族の力を強く抑え込んでいたため、孫家には本土の支持基盤が薄かった。そこに山越が各地で一斉に蜂起。地元の士族と連携して内側から江東を揺さぶる。 当時、孫権の名の下にあったのは会稽、呉郡、丹楊、豫章、廬陵、廬江の六郡だったが、五郡が反乱状態になり、民は北方へ逃げ出す始末だった。 5/6が反乱だから絶望的である。

しかも、身内の裏切りが追い打ちをかける。従兄の孫輔は孫権を頼りないと見て曹操と通じたが、発覚して孫輔の側近はすべて斬首、私兵は解体され交州に流刑され、数年後なくなる。

別の従兄・孫暠も会稽を狙って動いたが、虞翻に説得されて引き下がった。さらに廬江太守・李術が梅乾、雷緒、陳蘭ら数万の兵を集めて反乱。 孫権は曹操に書状を送り李術の謀反を訴える一方、自ら孫河、徐琨を率いて皖城を包囲。曹操は兵を出さず、城内は食糧が尽きてついに陥落。李術は斬られ、兵や住民あわせて三万以上が江東に移された。

このような危機の中で、孫権は張昭を師のように仰ぎ、父や兄の古参を再登用。士族たちの信頼を得るため、政権の安定化に取り組む。そして新たな人材もどんどん取り込んでいく。陸遜、徐盛、留贊、諸葛瑾、歩隲、顧雍、是儀、呂岱、朱桓、駱統といった俊才たちが次々と陣営に加わった。 魯粛は一度北方に行こうとしたが、周瑜が「孫権こそ南で覇を唱える器」と説得し、彼を孫権に推挙。孫権自身は「漢室を助けて一代の覇者に」と考えていたが、魯粛は「漢王朝はもう持たないし、曹操も簡単には崩れない。江東を拠点に、長江以南で帝業を築くべきです」と進言した。

孫策の死を知った曹操は、江東への侵攻を検討するが、張紘に「人の不幸に乗じるべきではない」といさめられて断念。のちに東漢政府を通じて孫権を討虜将軍・会稽太守に任じ、名実ともに江東の主とした。 孫権は顧徽を北に派遣して、曹操側の動きを探らせている。

とはいえ江東の情勢は不安定なままだった。西暦203年(建安八年)、豫章・鄱陽で山越が再び蜂起。孫権は呂範、程普、賀斉、太史慈を派遣して鎮圧にあたり、黄蓋、韓当、呂蒙らを各地に配して治安維持に努めた。 西暦206年(建安十一年)には孫瑜、周瑜、凌統らと連携し、山越討伐を決行してようやく秩序を取り戻す。

父の仇・黄祖を討つ

孫権にとって黄祖は、単なる敵ではなかった。かつて父・孫堅を戦場で討った仇敵であり、しかも荊州牧・劉表の配下として長江流域を押さえる存在。個人的な怨みと戦略的な障害が、ぴったり一人に集約されていた。

建安八年(203年)、孫権は夏口へと進軍。黄祖の水軍を相手に戦い、これを撃破する。ここで呉軍の水軍力がはっきりと示されることとなり、「水軍に強い孫家」の評価が定着し始めた。

西暦207年(建安十二年)、甘寧は黄祖の下から離れ、投降してくる。
彼は開口一番、孫権にこう進言する。「漢室はもう形だけ、曹操は明らかに簒奪を狙ってます。江南は天然の要塞、長江さえ押さえればこちらが有利。劉表の目は節穴で、息子も期待できません。まずは黄祖を落として、川上を制するべきです」 甘寧はさらにたたみかける。「黄祖はもう老体、兵も緩んで士気は最低。しかもカネがない。今攻めれば必ず勝てます」

張昭は慎重論を唱え、「国内が安定していない状況で遠征は危険だ」と主張したが、甘寧は「国が貴方に蕭何の任を与えるのに、現場に残って守ることすら不安がるようでは、どうして古人を尊敬してるなんて言える?」と言い返した。 孫権は最終的に酒杯を掲げて、「興覇(甘寧)、今年の黄祖討伐はお前に任せる、張昭の言葉だからといって放棄してはならぬ」と応じ、軍を動かすことを決意した。 張昭かわいそう。

翌建安十三年(208年)、孫権は江夏へ大軍を差し向ける。総大将には周瑜を据え、呂蒙・凌統・董襲らが従軍。黄祖は水軍都督・陳就を出して対抗したが、呂蒙の電撃戦により討ち取られ、兵船はすべて奪われた。

続く突撃戦では董襲と凌統が敵陣を突破し、江夏を制圧。黄祖は逃亡したが、孫権軍の騎兵・馮則に追い詰められ、ついにその首級が上がった。

こうして孫権は父の仇を討ち、江夏南部を支配下に置くこととなった。戦後、治所を呉から京口へと移し、長江の防衛体制を一層強化する。これにより、江東の軍事・政治体制は安定を迎えた。

この勝利は、孫権にとって単なる個人的な復讐劇にとどまらない。江南における覇権の布石であり、いよいよ彼が中原の巨星・曹操と正面から対峙する局面へと歩みを進める大きな一手でもあった。 そして、歴史に名を刻む「赤壁の戦い」は、すでにその足音を響かせていた。

曹操との対立と軍議

建安十三年(208年)秋、曹操がついに本格的な南進を開始した。孫権のもとに届いたのは一通の書状。「八十万の兵を率いて江東を狩る」という、文面は明らかな恫喝である。秋の狩りでも始めるような言い回しで、曹操は江東を手中に収める意志を隠そうともしなかった。

孫権の心中には、すでに「戦う」という決意が固まっていた。ただし、群臣を集めた会議では、張昭をはじめとする重臣たちが口をそろえて「降伏こそ得策」と進言する。江東の豪族たちも、我が身と家産の保全が第一で、誰も進んで兵を出そうとはしない。

孫権はその場では一言も発せず、静かに衣服を整えて席を立った。それは無言の抗議であり、「このままでは江東が滅びる」との意思表示だった。

ただ一人、魯粛が席を外して孫権を追いかけた。彼はまっすぐに言った。
「曹操とは戦うべきです。今ここで退けば、江東に未来はありません」
孫権はその言葉に強くうなずいた。ようやく、自分と同じ覚悟を持つ者に出会えたという安堵が胸をよぎる。

魯粛はさらに提案した。「周瑜を軍に戻し、劉備と同盟を結ぶべきです。今こそ江東が一致団結し、外と手を結ぶときです」
孫権はこの提言にも即座に賛同し、魯粛を荊州へ派遣した。劉備との接触を命じ、戦への準備を加速させる。

表向きは慎重論が支配していた江東の政庁で、裏ではすでに勝負の火蓋が切られようとしていた。孫権と魯粛、たった二人の決断が、その後の中国史を動かす一手となる。
赤壁の戦い。その幕が、いままさに上がろうとしていた。

劉備との同盟成立

その頃、荊州の情勢が大きく動いていた。 荊州牧・劉表が病没し、跡を継いだ次男の劉琮があっさりと曹操に降伏してしまう。 長坂で劉備が曹操軍に敗走し、南へと逃れる中、途中で魯粛と接触することになる。

このとき劉備は、蒼梧の呉巨を頼ろうとしていたが、魯粛は「いや、頼るべきは孫権です」と真顔で説いた。孫権は曹操に対抗できる実力を備えており、今こそ共闘の時だという。 劉備は納得し、ただちに諸葛亮を孫権のもとに使者として派遣した。

呉の陣営では、すでに軍議が開かれていた。そこにやってきた諸葛亮は、曹操軍の内情を「曹操の兵は強いようで綻びだらけ。兵糧も少なく、遠征の疲労がたまっている。背後には馬騰や韓遂が健在で、西方も安定していない。加えて水戦に不慣れな北方兵が、湿気と病にやられて士気はガタガタです」と、冷静に分析して述べた。

諸葛亮の分析に呼応するように、周瑜も同調し「実際の兵力は十五、六万ほど。うち七、八万はつい最近降伏した連中で、心は曹操に付いていない。遠征続きで兵もくたびれてる。今こそ勝負をかけるときです。」と追い打ちをかける。

周瑜と魯粛以外は慎重派が多く、張昭らは依然として降伏論を唱えていが、孫権は沈黙ののち、剣を抜き、机を一刀両断にすると宣言した。「今ここで降伏などと言う者は、この机と同じになると思え!」

決意を固めた孫権は、すでに用意していた三万の軍を周瑜に託し、左右都督に周瑜と程普を任命。魯粛には贊軍校尉として軍務の補佐を命じた。さらに賀斉と蔣欽を後方に派遣し、山越の鎮撫にあたらせる。孫権は万全の布陣を整え、いよいよ曹操との決戦へと踏み出したのである。

赤壁の戦いと曹操撃退

孫権は劉備と合流し、周瑜を総大将として曹操の大軍と赤壁で相対した。周瑜は黄蓋の「苦肉の策」を採用し、曹操軍を見事にだますことに成功し、火攻めを敢行する。連結された船団が火炎に飲まれ、曹操軍は大混乱へと陥り、曹操は大敗を喫して、北方へ退却し曹仁と合流した。

勢いに乗った孫権・劉備連合軍は赤壁の北岸・烏林で再び曹操軍を破る。 さらに荊州南郡へと前進し、周瑜は甘寧を遣わして夷陵を攻め、当時曹操と同盟関係にあった劉璋配下の襲肅が降伏させる。 しかし甘寧は思わぬ展開に見舞われる。曹仁の千人規模の兵に包囲され、ややピンチの状況となる。

このとき周瑜は呂蒙の案を採り、兵を二手に分けることにした。一部を凌統に残し、残る主力で甘寧を救援して、曹仁を撃破し、甘寧は夷陵(宜都)を確保した。 この勝利により赤壁での勝利は単なる戦果ではなく、孫権の名が南方のみならず全国に知れ渡る転機となったのである。

荊州問題:赤壁の戦いの後日談

建安十四年(209年)、曹仁は後方から援軍を受けながら南郡で周瑜とにらみ合いが続き、戦線は膠着状態になった。その間に、劉備は長沙・桂陽・武陵・零陵の荊南四郡を次々に攻略し、支配圏を拡大させている。 とんだ火事場泥棒である。

一方、孫権は前線の圧力を下げるために建安十三年(208年)に合肥を包囲する作戦(第一次合肥の戦い)を仕掛け、自ら数万から十万の兵を動員した。張昭を派遣して当塗攻めを企てるが失敗。包囲は百日ほど続き、城壁は豪雨で持ちこたえるのが精一杯となるが、蔣済の虚報援軍の計に動揺し、孫権軍は撤退を余儀なくされた。
最終的に曹仁は南郡から撤退し、孫権と劉備の連合軍が南郡の支配を確立。荊州の大部分は平定され、劉備の勢力は荊南四郡まで伸びた。

同盟関係を安定させるため、孫権は妹(孫夫人)を劉備に嫁がせ、周瑜を偏将軍および南郡太守に任じた。長沙の下雋・漢昌・劉陽、南郡の州陵を奉邑として与え、周瑜を江陵に常駐させる体制とした。程普は裨将軍・江夏太守として、四県の食邑を与えられてその地を治める。

後方では、全柔が桂陽太守として米の回輸を担当。武陵では夷族の蜂起が起こるが、黄蓋を派遣して太守とし鎮圧。長沙では山賊が暴れたがこれも討伐された。蒋欽は会稽の乱賊を征し五県を平定した功により討越中郎将に昇進し、涇拘と零陵郡の昭陽を奉邑にもらう。

ただし荊州をめぐる領土処理は火種でもあった。劉備に与えられた土地は十分とは言えず、兵や住民を収容しきれない事情があった。劉備は京口に赴いて孫権に「荊州の数郡を借りるか、あるいは荊州全体の督領」を願い出るが、どちらも曖昧なままで交渉は進んだ。 周瑜と呂範は劉備を軟禁する案を出すが、魯粛は「借地」を正面から認めるべきと主張。

建安15年(210年)頃、周瑜と甘寧は劉備に対し、益州の共同攻略を提案した。しかし劉備は「劉璋は同族であり、攻撃するのは道義に反する」としてこれを拒否した。
周瑜は蜀攻略の途上で病没するが、孫権はなおも益州進攻を画策し、周瑜の後継に孫瑜を大将にして準備するが、作戦は進展せず、やがて撤退を余儀なくされた。

周瑜の没後は、南郡太守の職は程普が一時的に代理した。周瑜の遺言により、孫権は魯粛を後任に任命し、長沙郡の一部を分割して漢昌郡を新設。魯粛を漢昌太守として陸口に駐屯させた。この配置により、荊州の「借地」案が正式に実施され、程普は江夏太守として引き続き任地に留まった。

同時期、劉備は朝廷に上奏し、孫権を代理車騎将軍・徐州牧に推挙。これは形式的な官位付与であり、孫権の地位を対外的に認める動きでもあった。しかし、荊州の借地とその管轄をめぐる不一致は次第に深刻化し、後の関羽との対立、そして討伐へとつながる土台が、この時期に固まり始めたのである。

交州の平定と士燮の帰順

建安十五年(210年)、荊州攻略中に孫権は南方支配の強化を目指して、步騭を交州刺史に任命して派遣した。翌年、建安十六年(211年)には征南中郎将に昇進させ、実質的な交州統治の全権を委ねる。
步騭が現地に到着すると、交阯太守の士燮が一族を引き連れ、すんなりと帰順してきた。士燮はそれまでの独立勢力でありながら、交州支配のカギを握る存在だった。

一方、劉表の遺臣だった蒼梧太守の呉巨も大勢の兵を連れて挨拶にやって来た。しかし步騭はこの突然の忠誠に不信を抱く。
ある日、呉巨を酒宴に招いた歩隲は、酒が進んだ頃を見計らってその場で斬り捨てた。見事なタイミングでの断行に、交州中が震え、步隲の名声は一気に南方へと広まった。

孫権は士燮を左将軍に任命し、名目上は南海・郁林・蒼梧・交阯・日南・珠崖・儋耳・九真・合浦の交州九郡の全てを呉の支配下に収めた。とはいえ、実際には士燮の現地統治が続き、孫権は彼の威光を借りる形で南方を押さえた格好だった。

秣陵への遷都と石頭城の築城

張紘は秣陵に「天子の気」があると見抜き、孫権に定都を勧めた。 建安十五年(210年)に、京口を訪れていた劉備も孫権に秣陵遷都を勧める。 これを聞いた孫権は、翌年の建安十六年(211年)、正式に治所を秣陵へと移転する
さらに建安十七年(212年)には、この地の名を「建業」と改め、戦略的拠点となる石頭城の築城に取りかかる。

石頭城は長江の水上交通と淮水への出入りを一手に押さえる立地で、東呉の水軍・陸軍双方の要となった。
城は堅固な子城と外郭となる羅城の二重構造を取り、城下には数十里にわたって市街が広がる。商人たちも集まり、経済は活気を帯びていた。 以後、建業は孫呉政権の心臓部として、国の歴史に名を刻むことになる。

第一次濡須口の戦い:曹操の敬意

建安十八年(213年)正月、曹操が四十万の大軍を率いて江東に南下してくる。 孫権は慌てず騒がず、濡須口に布陣し迎撃の構えを取ったが、江西の拠点が突破され、公孫陽は捕虜、董襲は出撃中に水に呑まれて命を落とすなど、開戦早々から痛いスタートとなった。

しかも劉備はというと、援軍どころか益州で劉璋を裏切って戦時中。 孫権は完全に孤軍となり、背水の陣で七万の兵を率いて曹操軍に立ち向かった。 曹操は夜襲と火攻めのダブルパンチで決着を狙ったが、孫権は自ら水軍を率いてこれを迎撃。結果、数千人の溺死者を出させたうえ、三千を超える捕虜を手土産に持ち帰った。

戦況が混乱する中、孫権はなんと単騎で曹操の大軍の前に船を乗り入れ、軍容を堂々と視察。曹操の部下は射撃を望んだが、「孫仲謀を殺すな」と曹操は止めた。 「生まれるならああいう息子がいい。劉表のバカ息子どもとは比べものにならん」とまで褒めちぎったとか。ちなみに『魏略』では、孫権の船が矢まみれで沈みかけ、なんとか舵を切って戻ったというスリル満点な記録もある。

戦いは一か月あまり続いたが、曹操は濡須砦を落とせず、ついに孫権から「春水で道が沈む前に帰れ。あなたが死なないと私は安心できないよ」という煽り文句の書簡をもらう。曹操は「孫権は嘘をつかない」とぼやいて撤退を決断。こうして濡須口の戦いは、孫権の守り勝ちに終わった。

第二次濡須口の戦い:孫権の皖城攻略と甘寧の奇襲

建安十九年(214年)五月、孫権は自ら軍を率いて盧江郡の中心・皖城へ進軍した。戦いはなんと半日でケリがつき、太守の朱光と参軍の董和はあっさり捕虜。ついでに男女数万人も俘虜として連れ帰る大戦果となった。皖城の守備はあっという間に瓦解。慌てて張遼が救援に駆けつけたが、既に城は落ちていたため引き返した。

その二か月後、建安十九年(214年)七月。曹操は傅幹の諫言を容れず十万の兵を率いて濡須一帯に進軍した。そこへ現れたのが、呉の切り込み隊長・甘寧。わずか百人の精鋭で奇襲を敢行し、大軍の曹操陣営は不意を突かれて大混乱、一気に退却を余儀なくされた。

百人で十万を動かしたこの奇襲は、孫権陣営にとって大金星。甘寧は「また派手にやったな」と称賛され、江東の防衛ラインは無傷で保たれた。

勇ましい孫権

荊州三郡をめぐる孫権と劉備の対立

同年の建安十九年(214年)、劉備がついに益州を平定したという知らせが江東に届いた。孫権はすぐに諸葛瑾を使者として送り、荊州の諸郡をそろそろ返してもらいたいと伝えた。だが、劉備の返答は実に巧妙だった。「今、涼州攻略の準備中なんだ。涼州を取ったら、荊州は全部お返しするよ」と。未来の話でかわそうとするその姿勢に、孫権は思わず拳を握りしめる。

「それってつまり、借りパクじゃないか!」と、孫権は怒りを隠さず、すぐに南三郡の長沙・零陵・桂陽に太守を任命する。だが、当然関羽が黙っているはずもなく、すべての太守を追い出してしまった。孫権の怒りは爆発して、今度は呂蒙に命じて、鮮于丹・徐忠・孫規らとともに2万の軍を率い、三郡を奪取させた。

加えて、魯粛には1万の兵を与えて巴丘(現在の巴陵)に駐屯させ、関羽の出方に備えた。孫権自身は陸口に留まり、全軍の指揮をとる。呂蒙が三郡へ到着すると、長沙と桂陽はあっさり降伏。だが、零陵の郝普だけは粘り強く抵抗した。

そんな中、公安に到着した劉備は、関羽に3万の兵を預けて益陽に進軍させた。これを受けて、孫権は呂蒙らを呼び戻し、魯粛の支援に向かわせた。呂蒙は知略を駆使して郝普を説得し、ついに零陵も無血開城。こうして三郡すべての掌握に成功した。

その後、呂蒙は軍を引き上げ、孫皎・潘璋・魯粛らと合流して益陽に布陣。 魯粛は関羽に会見を求め、両軍は百歩の距離に兵を駐屯させ、将軍同士が単刀で会うことを提案し、関羽もそれを受けた。
関羽は、劉備が魏を破ったにもかかわらず土地を得られなかったことを理由に、三郡の要求を非難した。
魯粛は、孫権が劉備を救った恩義を挙げ、益州を得た今なお荊州を返さぬのは不義だと批判する。 さらに、義を捨てて欲に走れば災いを招くと諭し、関羽の振る舞いを厳しく責めた。
関羽は言い返すことができず、会見は終わる。 いよいよ関羽との決戦が目前に迫ったが、ここで新たな変化が起きる。 曹操が漢中へ侵攻を開始したのだった。劉備は背後の益州を奪われることを恐れ、急きょ孫権に和睦を申し入れた。

孫権は再び諸葛瑾を使者として送り、劉備と改めて同盟を結び直す。こうして荊州は再び分割され、長沙・江夏・桂陽の東側は孫権に、南郡・零陵・武陵の西側は劉備に属することとなった。領土の貸し借りほどややこしい話はない。

第二次合肥の戦いと逍遙津の危機

建安二十年(215年)、孫権は大軍を率いて再び合肥に攻め込んだ。兵数は数万とも十万とも言われる大遠征である。だが、城を守っていた張遼の兵はわずか七千だった。 普通に考えれば守りきれるはずがない。そこでで張遼がまさかの行動に出る。

敵の布陣が整う前に、八百の精鋭を選び抜いて奇襲を仕掛けたのだ。これが見事に刺さり、孫権軍は大混乱になり、陳武は討ち死にし、宋謙と徐盛は敗走。特に徐盛は将軍の象徴でもある牙旗を奪われるという失態を演じてしまった。

孫権は高台に逃れて長戟兵で守りを固めたが、張遼が挑発しても決して応じなかった。とはいえ、混乱の中でも部下たちは踏ん張った。潘璋は厳しい統制で兵をまとめ、賀斉は後方からしっかり支援し、張遼を撤退に追い込んだ。この一連の張遼の武勇は天下に轟き、曹操も大喜びで賞賛を惜しまなかった。

その後、孫権軍は合肥城を十日以上包囲したが、攻略には至らず。さらに疫病まで発生し、やむなく撤退を決断する。だがここで事件が起きる。逍遙津に差しかかった時、なんと渡河のための橋が破壊されていたのだ。そこへ張遼が追撃してきた。

孫権は自ら殿軍(撤退時の最後尾)を務め、凌統と虎士千人を率いて必死の防戦。谷利の奮戦で隙をつくと、孫権は馬を全速力で走らせ、なんと橋の壊れた部分を跳び越えて命からがら脱出。まさに紙一重の生還劇だった。

この出来事は「逍遙津の戦い」として語り継がれ、孫権にとっては命を懸けた撤退戦となった。

ちなみに、『献帝春秋』によれば、戦後に張遼は呉の降兵から「あの紫の髯の将軍、背が高くて足が短く、馬術も弓も見事だった、あれは誰だ?」と聞き、孫権だと知って「それを早く知っていれば、全力で追いかけて捕らえたのに」と悔やんだと伝えられる。

第三次濡須口の戦い1:山越反乱と関羽の企み

建安二十二年(216年)の冬、曹操が再び動いた。二十六軍、十数万とも言われる大軍を率いて江東を目指し、濡須に迫る。その一方で、丹陽四郡の山間にくすぶっていた火種も同時に爆発する。丹陽四郡の民帥・尤突と費栈が曹操の承認を得て、山越の勢力と手を組み、一気に数万の兵を集めて蜂起したのである。

孫権はすぐさま賀斉と陸遜を現地に派遣し、鎮圧を命じた。両将は見事な連携で反乱軍を打ち破り、丹陽・呉郡・故鄣の三郡を平定。多くの山越兵を降伏させ、反乱を防ぐだけでなく、貴重な精鋭兵力を獲得することにも成功した。

またこの時、関羽が再び長沙で内応を企て、県令の呉碭や袁龍と通じて反乱を起こそうとした。孫権はすかさず魯粛を陸口から派遣し、呂岱と共に制圧。こうして内と外、二つの火種を完全に鎮め、江東の安定を取り戻した孫権は、曹操との正面対決への備えを整えることができた。

第三次濡須口の戦い2:仮初めの臣従

翌建安二十三年(217年)、曹操は諦めず、大軍で濡須口に襲来。孫権は呂蒙を総指揮官に、蔣欽を副将に任命して応戦体制を敷く。だが、濡須砦の前線で築いていた新砦は曹軍の猛攻を受けて完成を前に撤退を余儀なくされ、守りが崩れるかに見えた。

曹操は陸路から横江を押さえようとしたが、突如吹き荒れた暴風で孫権軍は一時上陸できずに混乱したものの、徐盛がただ一人、兵を率いて突撃。気迫の猛攻で曹操軍を蹴散らし、なんと曹操本人にも負傷の噂が流れる事態となった。

その間、呂蒙は未完の濡須新砦を死守。強弓・硬弩を用いて曹操軍を近寄らせず、体勢が整う前に反撃を開始。さらに周泰も加勢して追撃をかけ、ついに曹操軍を撤退へと追いやった。

これにより孫権は再び濡須を守り切ったものの、戦の裏では荊州問題が泥沼化し、山越の再蜂起も警戒されていた。そこで孫権は一計を案じ、なんと曹操に「降伏するフリ」をするという謀略に出る。曹操はこの演技を真に受け、しばしの間再び孫権と和解の構えを見せた。

しかしその一方で、魯粛はかつて荊州を劉備に貸したことを心底悔やみ、関羽らの態度を痛烈に批判。「彼らは約束を守る気がない」と嘆いたという。濡須口での勝利と偽装外交。孫権の「揺さぶりの戦術」はここで一つの完成を見たのである。

関羽討伐:呉蜀関係の悪化

建安二十三年(218年)、魯粛が亡くなると、孫権は前線の要となる将に呂蒙を抜擢した。するとこの呂蒙、すぐさま孫権にこう進言した。「今こそ関羽の背を衝いて荊州を手中にすべきです。長江を制すれば、もはや劉備に頼る必要などありません」。孫権もまた、近ごろの劉備と関羽の態度に苛立っていたところで、呂蒙の提案に即決でうなずいた。表向きはにこやかに握手、だが内心はすでに刀を抜いていたのである。

同年、宛城で起きた反乱に乗じ、関羽は樊城への北伐を開始。建安二十四年(219年)、見事に曹操の大将・于禁を降し三万を捕虜、龐徳を討ち取り、一気に天井知らずに名声はあがる。だがその陰で、関羽は孫権の縁談申し入れを一蹴。しかも使者を辱めて追い返す始末だった。この横柄さに、さすがの孫権もブチ切れた。

呂蒙と孫権は冷静に情勢を見極めた。徐州を狙っても陸戦に長けた曹操軍相手では分が悪い。ならば荊州こそ狙い目。ここを抑えれば長江支配が完成し、内政も外征も盤石になる。作戦は決まった。

一方、関羽は孫権に援軍を求めたが、孫権の動きはのらりくらり。痺れを切らした関羽は「あいつ、樊城落ちたら真っ先に潰してやる」と毒づいたという。もっとも、この逸話には眉唾の評価もあるが、孫権の心にはもう決断の刃が走っていた。

同年十月、孫権は曹操に臣従の意を示し、関羽討伐の許可を申請し、曹操も快諾した。 両者の連携が正式に成立すると、呉軍は一気に動き出す。 呂蒙が総大将、陸遜が副将、孫皎が殿軍。そして孫権自らも密かに出陣し、ついに同盟破りの背面攻撃が始まった。

呂蒙は「白衣渡江」の奇策を実行。軍服を脱ぎ、民に紛れて密かに長江を渡河。烽火台を無力化して江陵を制圧し、続いて南郡も奪取。陸遜は別働隊で宜都や房陵を攻略。呂蒙は地元民を厚遇し、蜀軍の家族を保護したことで関羽軍の士気はガタ落ち、多くが投降、あるいは呉軍へ寝返った。

関羽は麦城まで後退するも、孫権の降伏勧告には一度は応じるそぶりを見せるが、最終的には逃走を図った、潘璋と朱然がこれを追撃し、ついに臨沮で関羽と息子の関平が捕らえられた。 孫権は一時、関羽を生かして劉備や曹操のけん制に使おうかと考えたが、家臣たちが「あれは狼のような男。飼ってもいつか噛まれるだけです」と全力で止めたため、ついに斬首を命じた。

関羽の首は曹操のもとへ送られ、遺体は礼をもって当陽に葬られた。孫権は荊州南部を掌握し、百姓には租税を免除して支持を得る一方で、曹操からは正式に「驃騎将軍・荊州牧」とされ、南昌侯にも封じられた。張承や劉基らも朝廷に召し上げられ、名実ともに孫権の立場は飛躍した。

しかしこの勝利の代償は小さくなかった。荊州は曹操と孫権で南北に割られ、劉備は立ち上げから共にした関羽を失い、怒りの矛先を呉へと向ける。こうして呉蜀の亀裂は決定的なものとなり、やがて歴史に残る「夷陵の戦い」へとつながっていくのである。

襄陽城の処遇と曹丕の皇帝就任

建安二十五年(220年)の年明け早々、魏と呉の両陣営に大きな変動が起きた。魏の曹操、そして呉の名将・呂蒙が相次いでこの世を去ったのである。とりわけ呂蒙の死は、荊州を奪って呉の覇道を切り開いたばかりだっただけに、孫権にとってはあまりに痛い喪失だった。

そんな中、魏では曹操の息子・曹丕が魏王の地位を継承。早くもその視線は「皇帝」の座に向かっていた。

一方、関羽の敗北を経て勢いに乗った孫権軍は、襄陽・樊城の周辺にまで進出する。魏内部では「どうせ兵糧も尽きかけているし、いっそ城を放棄すべきでは?」という声が上がるが、司馬懿は「孫権とは今は友好で攻めてくることはない。襄樊は水陸の要衝だから放棄すべきではない。」と止めた

しかし、曹丕はこれを採らず、曹仁に命じて襄陽・樊城の城を焼き払って撤退させた。いわゆる焦土戦術だ。「使えないなら、敵にも使わせない」 だが肝心の孫権はすぐにはその城を占領せず、これを見た曹丕は「だったら焼かなくてもよかったじゃないか」と後悔する羽目になった。

結局、孫権は陳邵を派遣して焼け跡の襄陽を再占領。これに対し、曹丕はすぐに曹仁と徐晃を動かして奪還作戦を敢行した。当時の孫権は、これから劉備との決戦(夷陵の戦い)を控えていたこともあり、二つの城を巡って魏と全面衝突する余裕はなかった。しかも襄陽・樊城は、水害と戦乱の影響で城壁がボロボロで戦うには骨が折れる。

同年十月、曹丕は漢献帝に禅譲を迫って即位し、魏朝を建国した。これに対し劉備は「献帝は害された」と称して漢室の正統を継承する意志を示し、建安二十六年(221年)四月、成都で帝位に即いた。同年七月、関羽の仇討ちを名目に孫権討伐を決定する。

夷陵の戦いと呉蜀講和

建安二十五年(220年)から続く緊張の中、孫権は公安を出て鄂県に入り、周辺六県を切り出して武昌郡を新設し、徹底した戦備を整えた。そして諸葛瑾に筆を取らせて劉備に手紙を送り、「魏の罠に乗るな、大義を見誤るな」と穏やかに和解を勧めた。が、劉備はこの忠告を蹴り、ついに軍を動かして東へ進軍。ここに、あの夷陵の戦いが始まった。

孫権はその裏で冷静に動いていた。都尉の趙咨を魏に派遣し、曹丕の帝位を認める書状を届けると同時に、形式上の臣従を表明。かつて関羽に降った于禁らを返還し、誠意を見せた。続いて陳化・沈珩を使者として魏に送り、曹丕は邢貞を返礼として派遣。
建安二十六年、黄初二年(221年)、これにより孫権は「魏国の藩王・呉王」として正式に冊封され、交州の監督と荊州牧を兼任することとなった。

臣下たちは「呉王の封号など受けるべきではない」と口々に反対したが、孫権は笑ってこう言った。「劉邦だって昔は項羽の漢王だったが、最後には天下を取っただろう?」と、王者の風格を滲ませて、堂々と冊封を受け入れた。

とはいえ、魏への忠誠はあくまで表向きの話。本音では蜀との決戦を見据えており、防衛体制をガッチリ固める。周泰には白帝城方面の守りを任せ、陸遜を大都督に据えて朱然・韓当・潘璋・孫桓らと共に前線を固めた。ちなみに魏の曹丕は、新帝になったにもかかわらず孫権に「珍しい宝物や動物をくれ」と手紙を送り、喪中とは思えぬ軽さを見せた。孫権は「今は戦が最優先だ、宝物など瓦礫にすぎん」と一蹴しつつも、形だけの和を保った。

黄初三年(222年)六月、夷陵の地で火の雨が降る。陸遜は火攻と縦深戦術で劉備軍を大打撃あたえる。蜀の兵は数万が斬られ、あるいは降伏し、劉備本人も孫桓に追われて危うく捕らえられるところだった。徐盛・潘璋・宋謙らは「いま追えば劉備を討てます!」と息巻いたが、陸遜・朱然・駱統らは「これ以上追いつめれば、魏が隙を突いてくる」と冷静にブレーキをかけた。

孫権もこれに同意して追撃を止め、劉備は命からがら白帝城へ撤退した。孫権は敵ながらもその姿に畏敬の念を抱き、慎重に講和の書状を交わして呉蜀の再接近を模索することになった。

魏の大規模作戦を退ける:第四次濡須口の戦い

黄初三年(222年)、夷陵の地で劉備を打ち破った直後、孫権は勝ちに酔う間もなく、すぐに横江に兵を敷いて曹魏の動きを警戒した。勝利の余韻が消えぬうちに、北の巨獣が牙をむく。曹丕は呉を完全に従わせようと、まず辛毗と桓階を使者として送り、世子・孫登を魏都に人質として差し出すよう求めてきた。

孫権は表向きは丁重な言辞で先延ばしを重ねつつ、腹の底では武をもって応じる準備を進めていた。

曹丕は自ら三十万の兵を動員し、曹休・張遼・臧覇らを洞口に、曹仁を濡須口に、さらに曹真・夏侯尚・張郃・徐晃らを南郡に送り込むという、三方同時侵攻の大作戦を発動した。国となった魏が本気を出した初の全面戦争である。

孫権は一方で「拝礼、忠節、臣道」と下手に出た上奏を魏に送り、時間を稼ぎながら、呂範・朱然・朱桓らに防衛の指揮を託す。戦線は東・中・西の三方面に広がり、まさに国運を賭けた多正面作戦となった。

まず東線・洞口では、初戦で呂範が敗れて呉軍は数千の兵を失うが、続く徐盛・全琮の猛反撃により、臧覇の部将・尹礼を討ち取り、魏軍は撤退を余儀なくされる。

中線・濡須口では、朱桓が柔と剛を使い分け、正攻と奇策を交えて曹仁を撃退。連戦連勝の曹仁に土をつけ、大勝をもぎ取った。

そして西線・南郡では、江陵を守る朱然がまさに鬼神の働きを見せる。わずか五千の兵で十万に迫る魏軍に半年間抗し、疫病と飢餓に苦しみながらも内通者を処刑して士気を保ち、ついに敵を撤退に追い込んだ。朱然の奮戦は魏の中原にも鳴り響き、「呉に朱然あり」と敵味方の耳に焼き付けられた。

この一連の大戦は黄初三年の十月から、翌年の春にかけて続き、最終的に魏軍は全面撤退。孫権はついに決断を下し、年号を「黄武」と改め、呉の独立政権を名実ともに確立する。三国はようやく、真に鼎立する形へと到達したのである。

また、同じ頃、白帝城に退いた劉備からは、「熱くなって、ごめんね」と自らの過ちを詫びる書簡が孫権に届いた。孫権はこれに応じて太中大夫鄭泉を蜀に派遣し、両国関係は修復へと向かい始めた。これにより、呉・蜀間の再同盟への道が開かれ、三国鼎立の均衡はさらに安定した。

呉蜀再同盟と石亭の戦い

黄武二年(223年)、孫権は江夏に山城を築き、新たに乾象暦(太陰太陽暦の一種)を導入した。大臣たちはこぞって即位を進言したが、孫権は首を縦に振らなかった。同年四月、魏の戯口太守・晋宗が反乱を起こし、同僚の王直を殺害して江南の国境を荒らし回るという騒動が起きる。呉は三方面での戦争に追われていたため、すぐに鎮圧には動けなかったが、六月になって賀斉・胡綜らを派遣し、ついに晋宗を捕らえて乱を平定した。

劉備が世を去ると、蜀では諸葛亮が鄧芝を呉に送り、再びの同盟を打診する。孫権はその意図を見抜き、鄧芝を重く遇して和睦を受け入れた。 そして魏との関係はあっさり切り捨て、呉からは輔義中郎将の張温を蜀に送り出して友好ムードを正式に演出した。

黄武五年(226年)、孫権は各地に寛政を敷くよう命じて百姓を労わり、陸遜から「駐屯地が食糧難」と報告が上がると、即座に農地の開墾を命じた。

その年の七月、曹丕が世を去ったとの報が届くと、「今がチャンスだ!」と孫権はすかさず五万の軍を率いて江夏郡へ侵攻。自ら石陽城を包囲し、孫奐には淮水の退路を封鎖させた。だが魏の新帝・曹叡はすぐに荀禹を派遣して孫権の後方を突かせ、孫権はやむなく軍を引いた。
一方、孫奐は鮮于丹らと共に江夏郡の高城を攻め落とし、魏の将を三人も捕らえる戦果を挙げた。孫権は全琮を東安郡太守に任じて山越討伐を命じ、さらに交州を一時的に分割して広州を設置するなど、内政にも手を広げていった(この広州はのちに交州に再統合されている)。

黄武七年(228年)、いよいよ勝機が巡ってくる。孫権は鄱陽太守・周魴に髪を切らせて降伏を装わせ、魏の名将・曹休をおびき出す奇策を実行した。秋八月、孫権は皖口に進軍し、征西将軍・陸遜に朱桓・全琮らを率いさせて迎撃。石亭の戦いにおいて魏軍を徹底的に打ち破った。この戦勝により、呉の軍事的威信は大いに高まり、孫権の名声は江東を越えて高く轟いたのである。

皇帝即位:呉の建国

黄龍元年(229年)四月十三日(5月23日)、江東の英雄・孫権が、ついに「俺が皇帝だ」とばかりに南郊で即位した。思えば三十年、父・孫堅の遺志を継ぎ、兄・孫策の地盤を守り、波乱と裏切りと火計と共に歩んできたその集大成が、ついに「呉」という国家として花開いたわけである。

蜀漢の諸葛亮もこの変化を認め、衛尉の陳震を祝賀の使節として派遣。これを受けて、孫権は同年七月に都を武昌から建業へと正式に遷し、呉王朝の中心地を確定させた。

即位にあたり、「黄龍」と新たに年号を定め、父・孫堅は「武烈皇帝」、母は「武烈皇后」、兄・孫策も「長沙桓王」、長男の孫登は太子に就任。朝廷の連中にもポンポンと爵位とボーナスが与えられ、朝廷の求心力を高めた。
孫権は歩夫人を皇后に立てようと考えたが、多くの臣下は、皇太子・孫登の養母である徐夫人を皇后にすべきだと主張し、孫権は最終的に、二人のうちどちらも皇后に立てなかった。

蜀の祝賀使節には礼をもって返し、ここで本気の「天下割り勘会議」を開催。呉は豫・青・徐・幽の4州、蜀は兗・冀・并・涼の4州をゲット、真ん中の司州は仲良く半分にする。そして魏(曹叡)をフルボッコにしようという話で手を打った。まさに「絵に描いた餅」であったが、当人たちは真面目に話をしたのであろう。

九月、孫権は正式に建業に居を移したが、新たな宮殿を築くことはせず、従来の邸宅をそのまま使用。奢らず質素を貫くその姿勢は、民の好感度をあげた。また、上大将軍・陸遜を武昌に残して太子・孫登の後見役とし、政務を委ねることで、次代の育成にも余念がなかった。

こうして孫権のもと、呉は形式だけでなく実質において、一国の皇朝として独り立ちを果たし、魏・蜀・呉の三国が鼎立する時代が、ついに確立されたのである。

内政の整備と学者の登用

皇帝に即位した孫権は、江東の地盤を固めるため内政の整備に注力した。群臣に対しては倹約を重んじ、自らも質素な生活を示すことで模範となった。また、地方の山越や異民族に対しては討伐と懐柔を織り交ぜ、秩序の安定を図った。

学問や法制度の整備にも関心を示し、張昭・顧雍・陸遜・諸葛瑾らを重用して政務を執らせた。さらに、韋昭・薛綜・華覈ら学者を登用し、典章制度の編纂や経書の注解を奨励することで、江東の文治を整備した。薛綜は『五経章句』を編し、韋昭は『呉書』を著すなど、学術活動も盛んになった。

孫権自身も学問を好み、読書や議論に熱心であったと伝えられる。その一方で、部下に対してはしばしば威厳をもって臨み、議論が激化すると机を叩いて怒ることもあったが、最終的には納得すれば意見を取り入れる度量を示した。

こうした内政の整備と学者の登用は、呉が単なる軍閥政権から、一国の皇朝としての体制を確立する大きな支えとなった。

孫権の海外遠征と第三次合肥の戦い

皇帝即位後の孫権は、積極的に海外遠征や北方遠征を行った。黄龍二年(230年)、衛温・諸葛直らを派遣し、海路で夷洲(現在の台湾と推定される)、亶洲(日本か?)を探し求めさせた。
亶洲はあまりにも遠く、結局たどり着くことはできず、衛温らは夷洲から数千人を連れて帰還したのみであった。
余談だが、亶洲はかつて秦の始皇帝が方士・徐福(じょふく)に命じて童男童女数千人を連れて海に入り、蓬莱の神山と仙薬を探させたが、徐福はこの島に留まって帰らなかったという伝説がある。
その後、衛温と諸葛直は、以前の海上遠征で詔(命令)に背き成果を挙げられなかったため、投獄されて処刑された。あるかもわからない所に行かされて、処刑とはたまったものではない。

同年の黃龍二年(230年)孫権は第三次合肥の戦いを起こす。満寵は兗州・豫州の諸軍に召集をかけ、軍勢を集め迎え撃つ。
やがて孫権軍は撤退し、魏朝廷からは「兵を引け」との詔が下された。
しかし満寵は「これは偽装退却で、隙を突いて再び攻め込むつもりだ。」と見破り、満寵は兵を引かず、そのまま備えを続けた。
十日余りが過ぎた後、孫権は再び現れ、合肥城に攻め寄せたが、攻略できずに撤退した。

遼東遠征と第四次合肥の戦い

嘉禾元年(232年)、孫権は再び遠征へと手を伸ばす。今回は遼東太守・公孫淵との交易を図り、百隻の艦隊で馬を求めた。反対する虞翻の言を退け敢行した。虞翻は蒼梧へ流罪となりその地で没している。 帰還中の周賀の艦隊は魏将・田豫の伏兵に遭い、壊滅。命運尽きた周賀は、波間に消えた。

それでも孫権は希望を捨てず、嘉禾二年(233年)には張弥・賀達を使者とし、九錫や財宝を公孫淵に贈って厚遇した。しかし、信義なき者は恩をも裏切る。公孫淵は張弥らを殺してその首を魏に献上し、贈り物ごと敵に渡してしまった。孫権は激怒し、自ら討伐を考えたものの、薛綜らの諫めにより断念した。

嘉禾二年(233年)、第四次合肥の戦いが始まる。孫権は合肥新城を包囲したが、地形の制約から呉軍は上陸すらままならず、日々は過ぎた。満寵は孫権が誇示のために上陸することを見越し、伏兵六千を潜ませて奇襲。呉軍は混乱し、多くの兵が河へ逃れて命を落とし、戦はまたしても魏に軍配が上がった。

第五次合肥の戦い:諸葛亮北伐への呼応

嘉禾三年(234年)、蜀漢の諸葛亮が漢中から再度北伐を開始。木牛流馬で糧秣を運びつつ、十万の大軍を従えて漢中を進発した。もちろん「またか」と思った者もいただろうが、今回は呉との連携が狙いだった。孫権もこれに応じ、江夏・沔口には陸遜と諸葛瑾、広陵・淮陽方面には孫韶と張承を出陣させ、本人もいそいそと第五次合肥新城攻略に向かった。

守るは張穎の他に、名将の満寵が待ち構えている。やはり上手くいかず、激戦のなかで甥の孫泰が戦死するなど、痛ましい犠牲も出た。そして七月、魏の曹叡が「ならば俺が行こう」と親征して大軍を率いて南下して、尋陽に到達するや、孫権は「はい解散!」とばかりに撤退を決断。以後、彼が合肥に挑むことは二度となかった。

孫権が合肥で残したものといえば、敗北の記録と、魏の城塞の堅牢さを再確認させただけだった。

かつて曹操・曹丕を相手に引けを取らなかった孫権の采配も、この頃にはやや陰りを見せ始めている。 魏の満寵の老練な防衛は、一枚も二枚も上手だったが、孫権の軍略に、慢心と焦燥の影が見え始めていた。

法の整備:奔喪規定の制定

その一方、孫権は政にも余念がなかった。嘉禾六年(237年)、喪に服する際の決まりをめぐって群臣に議論させた。そこで丞相の顧雍が「親の死でも、勝手に帰省すれば死刑!」というスパルタ案を提出。孫権も「うむ、それでいこう」と了承した。

するとまもなく、呉県令の孟宗がまさかの規定違反。母の訃報を聞きつけ、涙ながらに無断帰郷してしまった。孟宗は「これはやってしまった」と覚悟を決め、素直に武昌に出頭する。 陸遜が「孟宗のような孝行息子を殺すのは、国家にとって損です」と進言すると、孫権は「じゃあ今回は一等減刑」と許したものの、最後に一言「だが、これっきりだからな。」

こうして「喪に服しても勝手に帰るな法」は確立されて以降、奔喪の違法行為は絶えることとなった。

呂壱事件と専横政治

赤烏元年(238年)、孫権は年号を赤烏に改めた。この頃、重用された呂壱は豪族の不法や私刑の濫用を取り締まったが、その性格は苛刻かつ残忍であり、執法も過酷を極めた。

太子・孫登はたびたび「父上、あいつはやりすぎです」と諫めたが、孫権は「うるさい。」と耳を貸さず、娘婿の朱拠までも処刑されかかる始末で、重臣たちも口を閉ざすしかなかった。

だがやがて呂壱の悪行が露見し、ついに断罪の時が訪れる。処刑が執行されると、孫権はようやく目を覚まし、「これは私の落ち度であった」と公に認めた。そして中書郎の袁禮を諸将のもとに遣わし、「何か不満があるなら、今こそ遠慮なく言ってほしい」と伝えさせた。

袁禮が戻ると、孫権は諸葛瑾・歩隲・朱然・呂岱の意見を聞いた。いずれも呉政権の柱であり、長年の戦友でもある面々だ。
だが、彼らの答えは意外なものだった。「民政は自分たちの担当ではないので……」と一歩退き、すべての意見を陸遜と張昭に委ねたのである。孫権はさぞかしショックだったであろう。
一方張昭と陸遜は袁禮に向かって涙ながらに「この国の行く末が心配でならない。」と語ったという。その訴えは、さすがの孫権にも深く響いた。

孫権は諸葛瑾・歩隲・朱然・呂岱に「聖人でさえ過ちを犯す。ましてや私のような者が、間違いをせずに済むものか。だからこそ、これからは遠慮なく言ってくれ。我々は共に汗を流してきた仲間じゃないか」と詔書を送った。

呂壱の粛正で一段落したが、孫権にとっては、自分の「聴く力」を試される新たな局面の始まりでもあった。

赤烏二年(239年)の遼東問題と南方の反乱

赤烏二年(239年)、遼東の太守・公孫淵が曹魏からの待遇に不満を抱き、再び反旗を翻す。今回は「燕王」を自称し、魏からの離反を宣言。かつて呉と魏を天秤にかけたあの男が、呉に助けを求めてきたのだった。

呉の朝廷では当然ながら怒号が飛び交った。「あんな裏切り者の使者など、その場で斬るべきだ!」という声も少なくなかった。だがその空気を一人で裂いたのが、羊衜で「使者を斬れば、その瞬間は気が晴れるだろう。しかしそれは覇者の気ではなく、匹夫の怒りに過ぎません」と述べた。
さらに羊衜はこう続けた。もし魏が討ち損じれば、その時こそ呉が動いて恩を売る好機。仮に魏と遼東が膠着すれば、呉が後から果実を摘めばよい。実に老練な視点であった。

孫権はこの進言に大いに頷き、羊衜・鄭冑・将軍孫怡らを海路から遼東へ派遣する。だが時すでに遅しで、司馬懿の軍はすでに公孫淵を滅ぼし、襄平の城も徹底的に破壊された後だった。 呉軍は辛うじて魏の守将・張持・高慮らを退け、民を保護して帰還したものの、軍事的には成果と呼べるものは薄かった。

同年十月、今度は南方で波が立つ。将軍・蔣祕が南方の夷賊を討伐中、配下の都督・廖式が突然反旗を翻す。臨賀太守・厳綱らを殺害し、自ら「平南将軍」を名乗って独立を宣言。弟の廖潜と共に、零陵・桂陽・交州・蒼梧・鬱林へと火の手を広げ、兵力は数万に膨れ上がった。

この反乱に、孫権は老将・呂岱と唐咨を派遣して対応。戦は一年以上に及ぶも、最後には反乱軍を制圧。呉の南方は再び平静を取り戻した。

孫登太子の夭折と情勢

赤烏三年(240年)、孫権は詔を発してこう述べた。「君主は民を失えば立たず、民は穀を失えば生きられぬ」。その言葉通り、この年の孫権はかなり真面目だった。飢饉や水害で疲弊した民の暮らしを気にかけ、農繁期に役人が民を無理に駆り出すような行為は厳しく禁止。郡守や督軍たちにも「ちゃんと見張れよ」と釘を刺した。

夏には恩赦を実施し、秋には盗賊対策で城や水路の整備を命じ、冬には倉を開いて飢えた民に食糧を分け与えた。まるで善政モードの理想的な君主である。

だが赤烏四年(241年)、呉の未来を担うはずの太子・孫登が突然この世を去る。学識と人望を兼ね備えた逸材で、重臣たちの信頼も厚かっただけに、政界には冷たい風が吹いた。

後継として孫和が新たな太子に立てられたが、諸王や皇后を立てろという声が上がる。
孫権はそれを退け、「天下がまだ安定していない時に、妃を立てたり子に土地を与えたりしてる場合か」と言ってのけた。
もっとも、その舌の根も乾かぬうちに、同年中に孫覇を魯王に封じており、これが後に「二宮の変」へと繋がる火種を生んでいる。

赤烏六年(243年)正月には、諸葛恪が六安を攻略し、魏将謝順の陣営を撃破。功績は上々である。年の暮れには名宰相・顧雍が死去している。

赤烏七年(244年)、孫権は陸遜を上大将軍から丞相へと昇進させた。 歩隲・朱然らが上奏し、「蜀が裏切って魏と通じているらしい」と警告されるが、「そんなくだらん風聞で国交を乱すな」と一蹴した。結果として、蜀は何の行動も起こさず、孫権の見立て通りとなった。

またこの年、戦で敗れた将の妻子を処刑する習わしを廃止した。「夫が逃げたくらいで家族を殺してたら、国に義なんて残らんぞ」と、孫権は詔を出して改めた。政治の空気がすこしだけ、やさしくなった瞬間だった。

孫和と孫覇の後継争い(二宮の変)

赤烏四年(241年)、太子孫登が急逝した後、孫権は第三子の孫和を太子に立てた。までは良かったのだが、問題はその後で、なぜか孫和の弟・孫覇を「魯王」に封じ、しかも寵愛はどちらにも平等に、という親バカ全開の扱いをしてしまう。

孫覇は当然のように「兄貴が太子でも、俺だってチャンスはあるだろ?」と考え始め、自分の支持者を集めて独自の勢力を形成。朝廷は次第に太子派と魯王派に二分され、陰湿な中傷合戦と腹の探り合いが始まった。まるで学級会の長期戦である。

この混乱の中、全公主(孫権の娘)があちこちに讒言をまき散らし、孫権はそれを真に受けてさらに混乱を悪化させた。時の帝王が家族ドラマに巻き込まれて右往左往している間に、朝廷の空気はすっかり毒に染まり、庶民の暮らしも冷え込んでいった。

支持者もがっつり分かれた。魯王派には楊竺、全奇、孫奇、呉安、そして重臣の歩隲・呂岱・全琮らが名を連ねる。一方、正統派の太子陣営には、陸遜、諸葛恪、顧譚、朱據、滕胤、施績らが揃い踏み。文字通りの「二宮の変」である。

孫権は表向き「どちらも可愛い」と言いつつも、内心では政争にイラついており、そのあおりで忠臣たちが次々に消えていき、しまいにはあの陸遜までもが叱責されて病に倒れ、嘉禾四年(245年)、失意のままこの世を去った。

やがて孫権はようやく「こりゃヤバい」と気づくが、時すでに遅しで、反省の言葉を述べつつも、讒言を止めきれず、最終的には顧譚・張休・吾粲といった名臣が冤罪で失脚または処刑されている。赤烏十三年(250年)、ついに孫和は廃され、孫覇には「賜死」という凄絶な結末が下された。 翌年、孫権は七男・孫亮を太子に立て、潘氏を皇后とした。

太元元年(251年)、陸遜の息子・陸抗が病床の孫権に拝謁したとき、老いた帝王はこう呟いたという。「かつて讒言を信じ、お前の父と義を失った。すまぬ」。その一言に、彼の悔いと老いがにじんでいた。

孫権の死:長すぎた執政

太元元年(251年)、孫権は潘氏(孫亮の母)を皇后に立て、大赦を布き、新たに改元を行った。年老いてなお政務に取り組む姿勢を見せてはいたが、その政治判断には迷いも多く、晩年の政局は不穏な空気をまとっていた。

同年、臨海の羅陽県に「王表」と名乗る神秘的な人物が現れ、自らを神と称した。婢の「紡績」と共に神託を語るその姿に、孫権は不思議な関心を抱き、中書郎の李崇を派遣して王表を迎えさせた。蒼龍門の外に邸宅を建てて住まわせ、しばしば酒食を送って歓待したとされる。王表は水旱や飢饉を予言したとも伝わる。

孫盛は「国の将に興るときは民に聴き、亡ぶときは神に聴く。孫権は年老いて志衰え、讒臣を信じ、適子を廃して庶子を立て、妾を皇后とした。符命を偽り、妖を求むるは亡国の兆なり」と批判している。その言葉どおり、晩年の孫権は政の本筋を見失いつつあった。

神鳳元年(252年)春、かつて廃された太子孫和を南陽王に封じ、孫奮を斉王、孫休を琅邪王としたが、いずれも地方に遠ざけた。潘皇后は同年中に薨去し、王表もまた忽然と姿を消したという。

そして神鳳二年(252年)夏四月、孫権は長年にわたる政務と動乱の果てに、ついに七十一歳で崩御した。廟号は太祖、諡は大皇帝で蔣陵に葬られた。 彼の築いた「呉」の王朝を幼少の孫亮が継いだが、実権は太子太傅となった諸葛恪ら重臣に委ねられた。ここに呉の国政は、幼主を奉じる群臣の合議体制へと移行していくこととなった。

孫権の評価

傅子(傅玄)は、孫策・孫権兄弟についてこう記している。「孫策は判断明晰で独断にして勇猛、若くして父の仇を討ち、千里を転戦して江南をほぼ支配下に置き、名だたる豪傑を討ち威を隣国に示した」。対照的に孫権については、「張昭を腹心とし、陸議・諸葛瑾・步隲を股肱とし、呂範・朱然を爪牙とした。任務を分掌して職を任せ、隙を狙い兵を無闇に動かず、だから戦で敗れることは少なく、江南を安定させた」と評されている。

陳寿は、身を屈して屈辱に耐え、才能ある者を招き入れ、計略を重んじる。越王句践を彷彿させる非凡な英雄である。 だから自ら江東を支配し、三国鼎立の柱の一角を築くことができた。 しかし、性格には疑い深さと嫉妬心が多く、殺戮に対して果断であり、晩年にはその傾向が激しくなった。讒言を信じて善人の行いを絶ち、後継者を廃して死に追いやった。 そうした行為は、「子孫に良き計を遺し、翼を広げて守る」という理想とは遠く、後ろ向きの刃となって国を損ねた可能性を否定できない。 とただ褒めるだけでなく、厳しく締めている。

裴松之は別の視点を添える。孫権が無実の息子・孫和を廃したことは明らかに混乱の兆しを示したが、呉の滅亡の最大因とは暴君・孫皓の政治にあるとする。もし孫権が孫和をそのまま太子に保っていたとしても、孫皓が後を継いでいたならば、結局は同じ結末が待っていたのではないか?という仮説を立てる。すなわち、呉国の終焉は「廃太子そのもの」ではなく、「政治の道を誤った者による昏虐」がもたらしたもので、仮に孫亮が国を保ち、孫休が早死にしなければ、孫皓は即位しなかった。孫皓が即位しなければ、呉は滅びなかったはずである。と

参考文献

孫権のFAQ

孫権の字(あざな)は?

孫権の字は仲謀(ちゅうぼう)です。

孫権はどんな人物?

孫権は冷静沈着で、若くして大局観を持つ人物でした。兄孫策のように武勇に突出はしませんが、着実に領土をひり毛ていきました。

孫権の最後はどうなった?

神鳳元年(252年)、建業で崩御しました。享年69で、廟号は太祖、大皇帝と諡されました。

孫権は誰に仕えた?

若年期は袁術の庇護下にありましたが、のちに独立し呉の皇帝となりました。

孫権にまつわるエピソードは?

赤壁の戦い前の軍議で降伏論が強まった際、孫権は剣を抜いて抗戦を決意しました。この行動が江東の独立を守る大きな転機となりました。

孫権の総評

世に言う「孫策は戦上手、孫権は治世上手」という評はあまりに単純すぎる。確かに孫策は電光石火の如く江東を席巻したが、孫権とて軍事において引けを取らない。
若き日より長江を守り、合肥の幾度にも及ぶ遠征を主導し、石亭に至るまでほぼ無敗という戦歴を築いた。合肥攻略が果たせなかったのは、満寵という名将の防衛力があまりに堅固だったがゆえであり、それをもって孫権の戦術眼を過小評価すべきではない。
歴戦の勇者・劉備は夷陵で大敗北し、華北一帯を手中に収めた曹操とて赤壁に敗れている。

何度も遠征を可能としたのは、彼の確固たる政治基盤と冷静な統治あってのものだった。 彼の偉業は揺るぎない。だからこそ『三国志演義』では、孫権の晩年における失策、すなわち呂壱の専横や二宮の争いは語られず、陸遜と共に君臣の理想像として描かれるのである。それは現実と理想の交差点に生きた男への、ある種の敬意であろう。

だが、もし孫権に誤算があったとすれば、それは晩年ではない。孫策の死後、政権を引き継いだその初期においてこそ、決定的な一手を欠いた。従兄の孫輔が曹操に通じていた事で流刑にしただけで、従兄弟の孫暠も会稽を奪おうとした時に排除しなかった。もし私情を捨てて一族を排除していれば、孫暠の孫の孫峻や孫綝のような暴政の芽を摘むことができた。その先に待っていたのは安定した孫亮の治世であった。かもしれない。

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