1分でわかる忙しい人のための孫和の紹介
孫和(そんか)、字は子孝(しこう)、出身は揚州呉郡、生没年(224年~253年)
孫和は呉の皇帝孫権の三男であり、最後の皇帝孫皓の父である。
幼少から父の愛を受け、学問を闞澤(闞沢)に学んだ。兄孫登の死後に太子に立てられたが、後に二宮の変が起こる。
弟孫霸との対立により地位は危うくなる。 全公主の讒言や王夫人の死が追い打ちをかけ、赤烏十三年(250年)についに廃太子となり、長沙に幽閉された。
太元二年(252年)には南陽王に封じられたが、孫権の死後に孫峻らの反対で復位できず、建興元年(253年)に自殺を強いられた。 享年30歳で、妻張氏も殉死した。後に子の孫皓が即位すると、孫和は皇帝として追尊された。
孫和を徹底解説!廃太子から追尊皇帝へ、孫権の後継を争った波乱の生涯
孫和の誕生と太子への道
黄武年間(224年)、孫和は呉の皇帝孫権の三男として生まれた。母は王夫人であり、孫権から深く寵愛を受けていたため、孫和も幼少期から父の手厚い庇護を受けて育った。
十四歳になると、孫権は闞澤(闞沢)を師として選び、孫和に学問と技芸を学ばせる。 そして数年後に呉を揺るがす転機が訪れる。
嘉禾五年(236年)、太子であった兄の孫登が病死してしまう。 これを受けて孫和が新たに太子に立てられ、呉の後継者として重責を担うこととなった。
闞澤は太傅(太子の教育係の最高位)となり、薛綜が少傅に任命された。
また、蔡穎、張純、封俌、厳維らが親しく側近として仕えた。
この4人は何をしたのかわからない人物たちで、ブレーンとして弱すぎである。
父の期待は大きかっただろうが、彼の人生を狂わせていく転落の序章であった。
王夫人と全公主の確執、太子の立場動揺
孫和の母王夫人は、孫権から寵愛を受けていたが、全公主(孫魯班)とは折り合いが悪かった。
全公主は孫権と歩夫人の娘であり、夫が全琮で宮廷内に影響力を持っていたのである。
嘉禾年間、孫和が太子妃張氏の叔父である張休を訪問したことがあった。 この行為を全公主は外戚との結託だと讒言し、孫和の行動を疑惑の目で貶めた。
さらに、孫権が病に臥したとき、全公主は王夫人がこれを喜んでいると誣告した。
実際には根拠のない中傷であったが、王夫人はこれを苦にして憂悶の末に死去した。母を失ったことで孫和は強い衝撃を受けただけでなく、父からの寵愛も失っていった。
二宮の変と太子廃位
太子の椅子は一つ、しかし座りたい者は二人。兄弟仲良く分け合うなんて理想論は、宮廷に存在しなかった。
魯王孫霸はその野心を隠そうともせず、朝臣を糾合して自分の陣営を作り上げ、取り巻きの楊竺・全奇・孫奇・呉安の他に、歩隲・呂岱・全琮・呂據・孫弘らが魯王派として支持した。
一方、陸遜・諸葛恪・顧譚・朱據・滕胤・施績・丁密らは太子派として礼儀を守り孫和を支持する。
こうして朝廷は真っ二つ、太子派と魯王派に分裂し、「二宮の変」と呼ばれる権力闘争が始まった。
赤烏十三年(250年)、事態は一気に動く。孫霸派の讒言により、吾粲は誅殺され、顧譚は遠方の交州へ左遷された。陸遜も疑いを受け、張休までもが失脚する。太子派の柱が次々と折れていくさまは、まるで崩れ落ちる城郭のようだった。
孫権は「子弟が争い、臣下が分裂すれば、袁氏のように滅びて天下の笑いものとなる」と嘆き、ついに腹を決める。
孫和は長沙に幽閉され、太子の位を廃された。同時に孫霸は処刑され、彼に連なる党派も誅されていった。 孫権は新たに孫亮を太子に立て、後継者を改めたのである。
この一連の事件では、驃騎将軍・朱據や尚書僕射・屈晃らが孫和のために諫言し、屈晃は宮殿で血を流して直諫したが、孫権に受け入れられず、朱據・屈晃を殿中に引き入れて百回の杖刑に処した。
また張純も強く諫めたが、やがて棄市の刑に処され、陳正・陳象が「昔、晋献公が申生を殺して奚齊を立てた結果、晋国が乱れた」と上奏して反対したが、彼らの一族ごと処刑する。
孫和の廃立は国中の大きな悲しみと不満を呼んだ。
裴松之はこれについて、「袁紹や劉表が袁尚・劉琮を後継にしようとしたのとは異なり、孫権は孫和を太子に立てた後に孫覇を寵愛し、混乱の原因を自ら作った。これは袁・劉以上に愚かである」と批判している。
再び南陽王に封じられるも復位ならず
太元二年(252年)正月、病に伏した孫権は、孫和を南陽王に封じた。 孫権の心中には孫和を呼び戻して再び太子に立てたいという思いがあったと伝えられる。彼は病床でその考えを抱いたが、強い反対に直面することとなった。
全公主はもとより、宗室の孫峻、中書令の孫弘らが声を揃えて反対し、孫権の意思を阻んだ。彼らにとって孫和の復帰は権力構造を壊しかねない「悪夢」だったのだろう。
こうして孫権の願いは実現せず、孫和は南陽王として地方にとどめ置かれることとなった。彼の復位の可能性は完全に断たれ、後継者は孫亮のまま確定したのである。
孫峻の権力掌握と孫和の最期
太元二年(252年)四月、孫権が死去すると、幼い孫亮を補佐し、諸葛恪が政権を掌握していた。
張氏は宮中にいる皇后に対して正式な文書(上疏)を提出するため、黄門の陳遷を建業へ派遣し、さらに、張氏の親族である諸葛恪へ挨拶の言葉を届けさせた。
陳遷が出立する際、諸葛恪は「太子妃に伝えてくれ、必ず他人よりも優位にさせよう」と言葉を残した。この発言はやがて外部に漏れ、孫和を擁立しようとする意図を疑われる一因となった。
さらに悪いことに、諸葛恪は武昌に宮殿を建設させており、都を移そうとするその行動は、民衆に「孫和を迎え入れる準備だ」と囁かれるようになった。
翌年の建興元年(253年)、諸葛恪は孫峻に討たれたてしまう。孫峻は待ってましたとばかりに、孫和を巻き込んだ。
「諸葛恪恪が孫和を立てようとした」と断じ、王印を奪い新都に移してから、死を命じたのである。
孫和は使者を前に、自ら命を絶った。享年30歳であった。
最期のとき、彼は妃の張氏と別れを告げたが、張氏は「吉凶は共にするものです。生き残ることはありません」と言い、夫に殉じて自殺した。
国家の未来を託されたはずの太子が、権力抗争の渦に呑まれ、夫婦そろって命を絶たねばならなかった。
孫和の死後と子孫の運命
孫和の死は呉国内に大きな衝撃を与え、多くの人々が深い悲しみに包まれたと記録されている。
彼の妾であった何氏は孤立無援の中で四人の子を育て上げた。その子らは孫皓、孫德、孫謙、孫俊である。
長子の孫皓はやがて呉の皇帝に即位し、父孫和を昭献皇帝として追尊した。その後、諡号を「文皇帝」と改め、さらに孫和を烏程県西山に改葬し、その陵墓を明陵と称した。これにより孫和は歴史上、廃された太子でありながら皇帝に追尊された稀有な存在となった。
一方で、次子の孫德については事跡が伝わっていない。年少であった孫謙と孫俊は、兄孫皓が即位するとその地位を脅かす存在と見なされ、皇位への潜在的な脅威として殺害された。
こうして孫和の子孫は孫皓を中心に受け継がれることになったが、その過程には一族の血が流される悲劇があったのである。
裴松之はこれについて、「袁紹や劉表が袁尚・劉琮を後継にしようとしたのとは異なり、孫権は孫和を太子に立てた後に孫覇を寵愛し、混乱の原因を自ら作った。これは袁・劉以上に愚かである」と批判している。
参考文献
- 参考URL:孫和 – Wikipedia
- 三國志・呉書十四・孫和伝 中國哲學書電子化計劃
- 三國志・呉書五・孫和何姬伝 中國哲學書電子化計劃
- 《資治通鑑》
- 《宋書·禮志三》
孫和のFAQ
孫和の字(あざな)は?
孫和の字は子孝(しこう)です。
孫和はどんな人物?
孫和は幼いころから父孫権の愛を受けて学問を学んだ人物です。
孫和の最後はどうなった?
建興元年(253年)、孫峻の命により自殺を強いられ、30歳で亡くなりました。妻張氏も殉死しました。
孫和は誰に仕えた?
孫和は呉の皇帝孫権の子であり、太子として孫権に仕えました。
孫和にまつわるエピソードは?
孫和は「二宮の変」に巻き込まれて太子の地位を失いました。さらに、晩年には復位の望みがあったものの、孫峻らの反対で実現しませんでした。
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