孫奮:孫権の第五子で斉王になり、孫皓の猜疑で滅びた悲劇【すぐわかる要約付き】

孫奮

1分でわかる忙しい人のための孫奮(そんふん)の紹介

孫奮(そんふん)、字は子揚(しよう)、出身は呉、生没年(?~270年)

孫奮は孫権の第五子で、母は仲姫。呉の王子として生まれ、若くして齊王に封じられた人物である。
しかし性格は激しく、諫言を受け入れず、法を犯すことも多かった。
太元二年(252年)、父孫権の死後に諸葛恪が政権を掌握すると、孫奮は命令を無視して諸葛恪と対立した。
やがて南昌へ移り遊猟にふけるが、部下を殺した罪により廃され庶人となる。
その後、章安侯に再封されるも、呉末期の建衡二年(270年)、孫皓の猜疑により一族と共に誅殺された。
その生涯は放縦と悲運が交錯するものであり、陳寿は「孫奮は規律を守らず、滅亡を自ら招いた」と評した。

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孫奮の生涯を徹底解説!諸葛恪に諭されて移動し、墓を掃除されたせいで誅殺された悲劇

孫奮とは?孫権の第五子で斉王

太元二年(252年)、孫奮は孫権の第五子として斉王に封じられ、武昌に住むととなった。
この武昌、長江沿いの要地として「王族のちょっとカッコいい居城」扱いだったようでもある。

ところが、同年に父・孫権が薨去し、太傅となった諸葛恪は、王族が要地に集まりすぎるのを「まずい」と判断する。
孫奮に対して「武昌を離れて豫章へ行け」と命じたが「それヤダ」と従わず、不満の中で幾度も法を破った。

諸葛恪の諫書と孫奮の恐懼

孫奮が諸葛恪の命令に従わず、再三にわたり法を犯すと、太傅・諸葛恪は深く憂えた。そこで自ら書簡をしたため、孫奮に節度を保ち忠義を尽くすよう諫言した。

「帝王の尊は天と異ならず、王たる者も法を守らなければなりません。 過去、諸王が権勢を振るって国を乱した例は数多く、また大行皇帝(孫権)もそれを深く戒め、王たちを分封しました。 しかし大王(孫奮)は詔命を軽んじ、法を犯し、部下に私刑を加えていると聞きます。 先帝の遺命を慎み守り、傲慢・荒乱を改めなければ、魯王(兄の孫霸)のような破滅を免れないでしょう。」

この一文が効いたのか、孫奮は顔面蒼白となり、すぐさま南昌へと引っ越した。諸葛恪の筆は、剣より鋭かったようである。

謝慈を殺して失脚、章安侯に降封

南昌に移された後も、孫奮の暮らしぶりは改まらなかった。
狩りや遊びに明け暮れ、部下には厳しく当たり、周囲の官吏たちはすっかり疲弊していた。

そんな折、都で諸葛恪が孫峻に誅殺されるという大きな政変が起きる。
孫奮は何かを察したのか、様子を確かめるために蕪湖まで出向いた。
傅相の謝慈らは「軽々しく動けば誤解を招きます」と強く諫めたが、孫奮はその忠告を耳に入れず、逆に怒りにまかせて謝慈を殺してしまった。

王が自ら臣下を処刑するというのは、さすがに見過ごされるはずもなく、孫奮は王位を剥奪されて章安に流され、庶人に落とされた。

しかし、太平三年(258年)、皇帝・孫亮が詔を発し、「赦令が続く中で、孫奮だけが赦されていないのは不公平ではないか。王に戻すのは尚早でも、侯にすら封じられない理由はない」と訴えたことで、孫奮は章安侯に復封された。

とはいえ、それ以上の昇進はなく、彼はその地で静かに余生を送ったという。あれだけ騒がしかった若き日の姿は、もう見る影もなかった。

孫皓の猜疑と孫奮一族の滅亡

建衡二年(270年)、孫皓の寵愛した左夫人・王氏が薨去した。皇帝は深く落ち込み、政務を放棄し、朝廷に姿を見せなくなった。
すると世間では「もはや薨去されたのでは?」と噂が立ち始め、さらに「次の皇帝は章安侯・孫奮か、あるいは上虞侯・孫奉(孫策の孫)だ」などと流言が飛び交った。

このとき、孫奮の生母・仲姫の墓がある豫章では、噂を信じた太守・張俊が墓を掃除しはじめた。
単なる供養か、それとも皇族ゆかりの地を整える不穏な兆しか。
孫皓の耳にこれが入ると、激怒し「墓を掃く者、命も掃け」と言わんばかりに、張俊を車裂きにし、三族までも誅した。

当然ながら「墓を掃いた」と疑われた孫奮にも火の粉が降りかかる。
「すべての根源はアイツだ」と孫皓は断じ、孫奮とその五子を誅殺、章安侯国も即座に廃止された。
事実上、噂ひとつで王族が一つ歴史から消されたのである。

『三國志』の陳寿は「規律を守らず自ら破滅を招いた」とする一方で、「とはいえ、この結末はまさに飛び火のような災難だった」とも記している。
つまり、「まあ孫奮も悪いけど、殺されるほどか?」というわけである。

参考文献

孫奮のFAQ

孫奮の字(あざな)は?

孫奮の字は子揚(しよう)です。

孫奮はどんな人物?

孫奮は性格が激しく、法令に従わず放縦な行動を取ることが多い人物でした。

孫奮の最後はどうなった?

建衡二年(270年)、孫皓の猜疑により一族とともに誅殺されました。

孫奮は誰に仕えた?

孫奮は呉の孫権の子であり、父孫権および弟の孫亮・孫休・孫皓の各代に仕えました。

孫奮にまつわるエピソードは?

母の仲姫の墓を掃除されて、孫奮がを諫めた「諸葛恪勸孫奮書」は有名で、孫奮の放縦な性格を戒めた文として知られています。

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