1分でわかる忙しい人のための孫霸の紹介
孫霸(そんは)、字は子威(しい)、出身は揚州呉郡富春県、生没年(?~250年)
孫権の第四子で、長兄の孫登が死去したのち、兄の孫和が太子に立てられ、孫霸は魯王に封じられた。
だが父孫権から特別に寵愛され、太子に匹敵する待遇を受けたことで兄弟の対立は深まった。
孫霸は常に太子の座を狙い、全寄・呉安・孫奇・楊竺らを味方に引き入れ、孫和を中傷して孫権に廃立を迫る。
これに対し陸遜・吾粲らが孫和を守ろうと諫言したが、逆に処罰されたため朝廷は二派に分裂し、長く「二宮の変」が続いた。
最終的に赤烏十三年(250年)、孫権は孫和を廃し孫亮を太子に立て、孫霸には死を賜った。父の愛を背景に後継を狙った孫霸だったが、政争に敗れて悲劇の結末を迎えたのである。
孫霸を徹底解説!父孫権の寵愛を受けた魯王の生涯
魯王としての地位と孫和との対立
孫霸は孫権の第四子で、長兄の孫登が早世すると、孫権は次子の孫和を太子に立て、孫霸を魯王に封じた。
しかし孫霸は孫権から特に愛され、太子と変わらぬほどの待遇を受けていたため、両者の立場は実質的に並び立つものとなった。
やがて孫霸と孫和の不仲は広く知られるようになった。孫権は二人の関係が悪化していることを憂慮し、「学問に専念せよ」との名目で彼らの接触を禁じ、さらに他の者とも自由に往来することを許さなかった。
羊衜は両者の待遇改善と政治的復権を願い上奏したが叶わなかった。
太子の座を狙う野心と孫和の危機
孫霸は魯王で満足できる器ではなかった。父の寵愛を背に、心は常に「太子の座」に向いていた。
そんなとき、思わぬ幸運が転がり込んでくる。太子孫和の生母・王夫人が、全公主によって罪をでっちあげられたのだ。太子の立場は一気に揺らぎ、宮廷の空気はざわついた。
孫霸はすかさず動く。全寄・呉安・孫奇・楊竺といった取り巻きを集め、「孫和は太子にふさわしくない」と孫権に言い立てた。
言葉巧みに兄の欠点を吹き込み、父の心を揺さぶろうとしたのである。野心はついに姿を隠さなくなった。
兄を貶め、自らを押し上げる。孫霸が仕掛けたのは単なる中傷ではなく、皇位継承を巡る政争そのものだった。
そしてその一歩は、呉の朝廷を二つに割る長い争いの序章となったのである。
陸遜・吾粲らの反対と党争の激化
孫霸の野心は露骨だったが、それを座して見過ごす者もいなかった。
丞相陸遜、そして太子太傅吾粲。この二人は声をそろえて「孫和を太子として確立すべきだ」と孫権に訴え続けた。
彼らは正統を守ろうとしたのだ。
しかし孫霸とその一派の楊竺は、陸遜と吾粲を誣告した。
孫権はその言葉に惑わされ、両者に処罰を下した。
正しく諫めた者が罰を受け、逆に讒言した者が力を得るという状況が生まれたのである。
こうして呉の朝廷は、孫和を支持する一派と孫霸を推す一派に分かれ対立した。
立嗣問題は解決されぬまま年月を重ね、「二宮の変」は長期戦へと変わっていった。
孫霸の人間関係と孤立
権力を握るには仲間がいる。孫霸もそれを理解していた。
だからこそ偏将軍・朱績のもとを訪ね、その官署に腰を下ろし、あからさまに親しみを示した。
「俺と手を組めば未来は安泰だ」と言わんばかりだった。
だが朱績は即座に立ち上がり、席を譲って辞退した。
その行動ははっきりとした拒絶の意思表示であり、孫霸の誘いは打ち砕かれた。
父の寵愛がどれほど厚くても、臣下が皆ひれ伏すわけではない。
朱績の態度は、孫霸が人望を欠き、孤立しつつある現実を突きつけたのである。
二宮の変の終結と孫霸の死
長きにわたって呉の朝廷を引き裂いた二宮の変も、ついに終局を迎える。
赤烏十三年(250年)、孫権は決断を下した。太子孫和を廃し、七子の孫亮を新たに太子へと据えたのである。
そして矛先は魯王孫霸へと向かった。
父から厚い寵愛を受け、兄と並び立ったその皇子は、今や「反乱の芽」として断ち切られる存在となった。孫霸は死を賜り、野心の果てに幕を閉じた。
彼の側近であった全寄・呉安・孫奇らも次々に処刑された。
兄弟の争いは血で収められ、二宮の変はようやく幕を下ろした。
孫霸の生涯は、父の愛に支えられ、そしてその愛ゆえに破滅を迎えたものだった。
太子を夢見た皇子の結末は、政争に呑み込まれた悲劇として歴史に刻まれたのである。
孫霸の評価と子孫
孫霸の教育係の是儀は「魯王は天が授けた徳をもち、文武兼備で国家を支えるにふさわしい」とまで評している。
その言葉からは、孫霸が単なる野心家ではなく、実際に高く評価される能力を持っていたことがうかがえる。
孫覇の二人の子、孫基と孫壹は、五鳳年間254~256年にそれぞれ「呉侯」「宛陵侯」に封じられた。しかし太平二年(257年)、孫基は皇帝の馬に無断で乗ってしまう。本来は死罰だが、侍中の刁玄は忠告する。
「法律では死罪ですが、父・孫覇が早世しています。哀れみを…。」
だが孫亮の答えは冷たかった。「法とは天下の規範。親しき者であろうと情で免じてはならぬ」
しかし情か、法か孫亮は迷った。
最終的に出されたのは「宮中のみ特赦」で、孫基は首の皮一枚で命を繋いだ。
だが、赦しは一代限りだった。孫皓の代になると、かつての皇太子争いが蒸し返される。孫基・孫壹は爵を剥がれ、祖母・謝姫とともに烏傷県へ流された。
参考文献
孫霸のFAQ
孫霸の字(あざな)は?
孫霸の字は子威(し い)です。
孫霸はどんな人物?
孫霸は孫権に特別に寵愛され、皇太子孫和と同等の地位を得ましたが、常に太子の座を狙う野心家でもありました。
孫霸の最後はどうなった?
赤烏十三年(250年)、孫権の命により死を賜りました。これにより二宮の変は終結しました。
孫霸は誰に仕えた?
孫霸は孫権の子であり、臣下ではなく皇子として活動しました。
孫霸にまつわるエピソードは?
孫霸は偏将軍朱績に接近を試みましたが、朱績は席を譲って拒絶し、交友を受け入れませんでした。これにより孫霸の孤立が明らかになりました。
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