【1分でわかる】孫綝:皇帝を廃立して呉を震撼させた暴虐の権臣【徹底解説】

孫綝

1分でわかる忙しい人のための孫綝の紹介

孫綝(そんちん)、字は子通(しつう)、出身は呉郡富春県、生没年(231年~259年)

孫綝は孫堅の弟である孫静の曾孫で、孫暠の孫、孫綽の子である。兄弟には孫據・孫恩・孫幹・孫闓があり、さらに孫峻とは堂弟の関係にあたる。
彼は若くして偏将軍となり、太平元年(256年)に孫峻が死去すると侍中・武衛将軍となって実権を掌握した。
やがて滕胤や呂拠(呂據)を誅殺して三族を滅ぼし、専横を強めた。傲慢な行動は同族の孫慮(または孫憲)の反発を招いたが、これを鎮圧し暗殺計画を未然に防いだ。
諸葛誕が壽春で挙兵すると救援に赴いたが、前線に出ずに朱異を処刑し、呉国内で怨嗟を集めた。さらに孫亮を廃して孫休を擁立し、廟を焼き道士を斬り、前例のない権力を握った。
しかし孫休と対立し、永安元年(259年)、丁奉や張布に捕らえられ、三族と共に誅滅された。享年28。孫休はその暴政を恥じ、宗籍から外して「故綝」と称し、諸葛恪・滕胤・呂拠らの名誉を回復させた。

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孫綝を徹底解説!滕胤・呂拠の誅殺から孫休による誅滅までの生涯

権力闘争に勝った、若き司令官の台頭

孫綝は偏将軍として仕官し、太平元年(256年)に孫峻が死去すると、待中・武衛将軍に昇進して、一気に朝廷の軍事と政務を代行する立場となった。

しかし、驃騎将軍の呂拠をはじめ多くの諸将は、その急進に危機を覚える。 彼らは連名で上奏し、滕胤を丞相に推薦するが、孫綝はこれに対抗し、滕胤を大司馬に任じて呂岱の後任として武昌に派遣し、逆に中央から遠ざける一手を打つ。

呂拠は帰還後に兵を率いて滕胤に使者を送り、孫綝を廃する計画を告げた。 これを知った孫綝は、従兄の孫慮に兵を任せて江都で呂拠を迎え撃ち、さらに文欽・劉纂・唐咨らに命じて呂拠への攻勢を開始。華融と丁晏を滕胤のもとへ派遣し、「呂拠討伐と即時の武昌赴任」を指示したのだ。

滕胤は「これはヤバい」と腹を括り、華融・丁晏を留めて兵を整えつつ防衛体制に入った。楊崇や孫諮を召し、「孫綝が謀反を起こした」と訴えるが誰も乗ってこない。仕方なく華融たちを脅して偽詔を作らせようとしたが拒否されたので彼らを殺害した。

一方の孫綝は滕胤を「反逆者」として朝廷に上奏し、劉丞に「爵位を約束する」として兵を率いさせ、滕胤を急襲して包囲した。 滕胤は変わらぬ落ち着きで鎮座し、兵を動かす提案にも応じず、「呂拠が必ず駆けつけてくれる」と言い放った。

だが、強風が吹き荒れる夜の長い沈黙の後、夜明けても呂拠は現れず、孫綝の軍勢が集結し、滕胤とその側近数十名は命を落とした。一族三族も、もれなくその運命を共にした。滕胤の妻とその兄である孫壹は、魏に身を亡命することとなった。

専横と暗殺劇の拡大

孫綝は滕胤を誅殺してからほどなく、永寧侯に封じられ、丞相に続き、大将軍に任命された。これにより彼は軍事と政治の最高権力者として、ますます地位を固める。
権力とは不思議なもので、得れば得るほど人間の態度は肥大化していく。孫綝も地位の上昇とともにその行動は傲慢無礼となり、周囲の反感を強く買った。とりわけ同族の孫慮(または孫憲)はこれに反発し、将軍の王惇と共謀して孫綝を暗殺しようと企てた。

孫綝の耳に計画は届き、孫綝は先手を打って王惇を殺害した。次に孫慮には薬を突き付けて自決を強いた。抵抗の余地はなく、彼は静かに命を絶った。 こうして孫綝は再び危機を脱し、権力を一層専横的に振るうこととなった。

諸葛誕の乱と孫綝の失態

魏の大将軍・諸葛誕が寿春で挙兵し、「呉に降ります!」と表明した。これは呉にとって絶好のチャンスで、孫綝はさっそく文欽・唐咨・全端・全懌らを率い、三万の兵で救援に向かう。
ところが、魏が動員したのは二十万で、圧倒的な兵力差で寿春を包囲した。数字だけで勝負は見えていた。

朱異は三万を率いて安豊に布陣し、兗州刺史・州泰と陽淵で激突したが、大敗を喫した。孫綝は「なら五万貸すから再挑戦だ」と命じるが、自身は巣湖の船に籠って前線に出ようとしない。
救援の司令官が湖上で観光気分の中、その間に朱異は石苞・州泰・胡烈の連合軍に再び大敗し、兵糧を数えきれぬほど失った。

それでも孫綝は諦めず、朱異に三万を与えて「死ぬまで戦え」と迫った。朱異はこれに従わず、孫綝は怒って彼を処刑してしまう。
最終的に孫綝は諸葛誕を見捨てて建業に帰還した。救援失敗に加え、功臣の朱異を殺したことで、呉の人々の間には深い不満と憤慨が渦巻くこととなった。

孫綝の皇帝廃立と孫休の擁立

太平二年(257年)、若き孫亮が親政を開始すると、政務の場で矢継ぎ早に問われる鋭い質問に冷や汗を流し、建業に戻るや病を理由に朝議から姿を消す。 代わりに朱雀橋の南に豪邸を築き、弟たちを要地の軍営に配置して私兵を囲い込み、政敵への備えを進めていった。

孫亮は内心で孫綝を忌み嫌っていた。かつての孫魯育殺害事件を口実に動き出し、虎林督・朱熊とその弟・朱損が孫峻の横暴を正さなかったとして、丁奉に命じ二人を処刑する。 これに対し孫綝は諫めを入れたが聞き入れられなかった。

太平三年(258年)、孫亮はついに宮中で政変を起こす決意を固める。全公主(孫魯班)、太常の全尚、将軍の劉丞(劉承)らと謀り、孫綝誅殺を計画した。
だが孫亮の妃は孫綝の姪。計画はあえなく彼女の密告によって露見した。
孫綝は即座に動き、夜陰に紛れて全尚邸を襲撃。さらに弟・孫恩を使い、劉丞(劉承)を蒼龍門外で暗殺し、皇宮そのものを包囲した。

その後、光禄勳の盂宗が廟に告げて孫亮を廃位し、群臣に「少帝は病弱で混乱しており、宗廟を継ぐにふさわしくない。異議がある者は申し出よ」と告げたが、皆恐れて「将軍の命に従う」と答えた。
孫綝は中書郎・李崇に命じて孫亮から玉璽を奪い、罪状を掲げて布告する。尚書・桓彝が署名を拒むと、怒りに任せてその場で殺害した。

典軍の施正が孫綝に対し、琅邪王・孫休を新たな君主として迎えるよう勧め、孫綝はこれに従い、宗正の孫楷を使者として孫休に書を届けさせた。
「私(孫綝)は才能が乏しいにもかかわらず、大任を授けられましたが、陛下(孫亮)を補佐することができませんでした。
陛下は政治を乱し、側近を優遇し、女性や兵士を勝手に集めて遊びに使うなど、問題行動が目立ちます。忠臣の諫言も聞かず、国の機密も漏れていたため、私は陛下を廃し、会稽王の位を与えることにしました。孫楷を派遣して、孫休殿をお迎えいたします。」
こうして、孫綝は孫亮を廃して孫休を新たな皇帝に迎えることになる。

『江表伝』には、孫亮が黄門侍郎・全紀と密かに「孫綝は権を専らにし、もはや帝を軽んじている。今こそ討つべし」と語ったと記される。
全紀は父・全尚にその意を伝えたが、全尚は軽率にも妻(孫峻の姉、孫綝の従姉)へ漏らし、そのまま孫綝へ情報が流れたという。
廃位が決まったとき、孫亮は弓を手に馬に乗り出ようとしたが、側近や乳母に制止される。
怒りは頂点に達し、二日間飲まず食わずで妃(全尚の娘)に罵声を浴びせる。「貴様の父の愚かさが、我が大事を台無しにしたのだ!」と。全紀は「父が詔に背き、帝に仇なした」と語り、自刃して果てた。

宗廟破壊と権力の独占

孫綝は、孫亮を会稽へ流し、全尚を零陵に、魯班公主を豫章へと次々に追放した。政敵を遠ざけるその手並みは容赦がない。
やがて横暴さは頂点に達し、ついには大橋頭の伍子胥廟を焼き払う。仏塔の祠を壊し、道士を斬り捨て、信仰そのものを愚弄した。

また、孫休がまだ到着していないうちに、孫綝は皇帝になろうという不軌な行動を企てた。
ただし虞汜が諫めたため、孫綝は不快に思いながらも、結局は孫休を皇帝に立てた。

やがて孫休が皇帝に即位すると、孫綝は一転して殊勝な態度を取る。「私はただの草むらに埋もれた卑しい臣にすぎません(草莽臣)」と自称し、へりくだった疏を上奏したのだ。権力の座に居座りながら、口先では「自分など取るに足らぬ存在」と装う。まさに典型的な権力者の二枚舌である。
孫休もこれを受けて詔を下し、孫綝を丞相・荊州牧に任命した。形式上は忠臣、実際は支配者。呉の皇帝はこの瞬間から、権臣の影にすっかり隠れることになった。

さらに孫綝は兄弟5人にも禁軍を分担させ、朝廷の武力を完全に掌握した。軍隊を握る一家が、皇帝の頭上に君臨するという前代未聞の体制である。

孫休との対立と失脚の兆し

ある日、孫綝が孫休に牛と酒をを献じた。しかし、孫休はそれを受け取ろうとはしなかった。
気分を害した孫綝は、その贈り物を左将軍の張布のもとへ持参し、酒が進むと、ついに胸中の不満を吐き出す。
「少帝を廃した時、私自身が帝位に就くべきだと、あれほど多くの者が進言した。だが私は陛下を賢明と見て、お迎え申し上げた。帝位が成り立ったのは私の功績によるもの、それなのに、こうして礼も受けてもらえぬとは…ただの臣下と変わらぬ扱いではないか。ならば、こちらにも考えがある。」

この言葉を聞いた張布は、ただちに孫休に報告する。孫休はそれを深く心に留め、孫綝の野心を恐れたが、その危険を表に出すわけにはいかず、孫綝の弟の孫恩を侍中に任命。政務の文書審議にも加えさせ、その場をやり過ごした。

やがて、ある者が「孫綝は不満を抱き、皇帝を侮辱し、反乱の意志すら持っている」と告発する。孫休はその者を孫綝に引き渡したが、孫綝は容赦なく殺害した。これにより、孫休の警戒は一層強まる。

そうした中、孫綝は侍中の孟宗を通じて武昌への駐屯を願い出る。孫休はそれを許し、中営の精兵一万余りに装備を整えさせ、武庫の兵器も全て与えた。
外に軍を置けば半独立の拠点となる。将軍の魏邈は「孫綝が外に出れば、必ずや災いが起こる」と警鐘を鳴らし、武衛士の施朔は「反乱の証拠がある」と訴えた。

孫休はようやく覚悟を決め、密かに張布と謀り、張布は丁奉と相談のうえ、宮中の会議の場で孫綝を誅する計画を練り始める。
権勢を欲しいままにした男は、今や破滅の淵に立っていた。。

孫綝の最期と一族誅滅

永安元年(259年)12月、孫休は、張布・丁奉と共に誅殺計画を年末の宮中宴で実行する。 孫綝は宴席への招待を病を理由に辞退しようとしたが、孫休は十余度も使者を送り、ついに出席を余儀なくさせた。
参内の直前、部下が止めるよう促すが、孫綝は平然と言い放つ。 「皇帝の度重なる命。辞退できぬ。そなたは手筈を整えよ。私邸に火を放ち、その混乱に乗じて退出すればよい。」 宮中に入るや否や、孫綝は自邸に火を放たせ、それを口実にして宴席を抜け出そうとした。 孫休は「外に兵が控えている。丞相を煩わせる必要はない。」と告げた瞬間、張布と丁奉が左右から彼を捕らえて縛り上げた。

孫綝は孫休に対し、「交州へ流放してほしい」と助命を嘆願した。さらに「官奴に身を落としてもよい」と願ったが、孫休は「ならば滕胤や呂拠をなぜ流放や奴隷にせず、殺したのか」と冷厳に答えた。 その場で処刑を命じ、孫綝は即日誅殺され、三族も皆殺しとなった。享年28歳であった。 孫綝の兄・孫闓は逃れようと船に向かったが、追手に命を奪われている。

孫休は孫綝の首級を示して将兵に告げ、「孫綝と共謀した者も罪を問わない。武器を捨てて従え」と布告した。武器を捨てた者は五千余人に及び、赦免された。

その後、孫峻の棺が暴かれ、殉葬の印綬は奪われ、その棺は削られて薄くされたという。背景には、孫綝が朱公主らを殺した報いがあったと伝わる。

さらに孫休は孫峻・孫綝兄弟を宗籍から外し、それぞれ「故峻」「故綝」と呼ばせ、彼らの属籍を抹消する命を下す。 そして詔を下し、かつて孫峻・孫綝により冤罪で殺された諸葛恪・滕胤・呂拠の無実を明らかにし、改葬と祭祀を命じた。彼らのために流放された者についても帰還を許可したのである。

恐怖と流血で築いた権力は、256年に孫峻が死去してから、3年にも満たず崩壊した。
その間に滕胤と呂拠の一族を滅ぼし、功臣の朱異を斬り、皇帝を廃して新帝を立て、ついには宗廟まで焼き払った。歴史に残る暴挙を、彼は息つく間もなく繰り返したのである。

わずか28歳での最期は若さゆえの過ちではない。己の暴虐と猜疑が自らを滅ぼしたのであり、そこに哀れむ余地はない。

参考文献

孫綝のFAQ

孫綝の字(あざな)は?

孫綝の字は子通(しつう)です。

孫綝はどんな人物?

孫綝は専横で傲慢な性格で、呉の実権を掌握し、廟を焼くなど強引な行動を取った人物です。

孫綝の最後はどうなった?

永安元年(259年)、孫休の命令により丁奉と張布に捕らえられ、三族と共に誅滅されました。

孫綝は誰に仕えた?

孫綝は呉の孫亮・孫休に仕えましたが、実際には皇帝を凌ぐ権力を持ちました。

孫綝にまつわるエピソードは?

壽春の諸葛誕救援戦では前線に出ず、朱異を処刑したことで強い非難を浴びました。

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