曹豹とは?張飛と対立し、劉備の徐州失墜のきっかけを作った生涯
曹操、父の仇を討ちに徐州侵攻
初平四年(193年)、曹操の父・曹嵩が泰山で陶謙軍に殺される。
これが引き金となり、曹操は容赦ない報復戦に出た。十余城を攻め落とし、彭城では死者万を超え、泗水が血で詰まる始末。
血まみれの復讐劇、ここに開幕。
陶謙は郯城へ逃げ込み、旧臣の曹豹、さらに後に盟友となる劉備が東方に布陣。
だが曹操軍の勢いに対し、補給が続かず、兵糧切れで撤退する羽目に。
翌年、曹操は再び攻め、瑯琊・東海を制圧。陶謙は逃げ場を求めて故郷・丹陽へ退却しようとしたが、
ここで張邈が呂布を迎え入れ、曹操は背後に火が点いたまま帰還を余儀なくされる。
陶謙はその年に病没。死の床で麋竺に劉備を徐州牧に推すよう命じるという、唐突すぎる人事が発動した。
これが後に、下邳騒乱の伏線となる。
下邳の混乱、火事場の呂布
建安元年(196年)、今度は袁術が劉備を攻める。
盱眙、淮陰での戦線が続くなか、留守を預かるのは張飛。
ここでまた出てくるのが曹豹。彼は陶謙の元部下で、張飛とは相性最悪。城中で兵を独立させ、人を派遣して呂布を呼び寄せる。
張飛は怒り狂って曹豹を斬った。が、これが引き金となり城内が混乱。
その隙を突いたのが呂布である。
劉備は配下の許耽という中郎将が内応し、司馬章を走らせて呂布と連絡。
呂布軍が到着すると、許耽は西門を開き、火を放って呂布軍を迎え入れた。
劉備軍は混乱の中で崩壊し、妻子・将兵の家族・軍資がごっそり奪われる。
張飛は敗走、下邳は呂布の手に落ちた。
陶謙の死からわずか二年後、徐州はまったく別の勢力のものとなったのだった。
参考文献
- 参考URL:曹豹 – Wikipedia
- 三国志 蜀書·先主伝
- 三国志 魏書·呂布
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