沈瑩(しんえい)とは?臨海水土異物志の著者であり、晋の大攻勢の前に立ちはだかった忠義の将
丹陽郡太守・沈瑩の人物と進言
沈瑩(しんえい)、字は不詳、出身は丹陽郡、 生没年(?~280年)
三国時代の末期、呉の孫皓に仕えた将軍で、丹陽郡太守を務めた。
天紀四年(280年)、晋の総攻撃が始まると、孫皓は最後の四天王「張悌、沈瑩、孫震、諸葛靚」に三万の兵を与えた。
晋は東西あわせて総勢二十万余の大軍にもかかわらず、三万で渡された役割は「国を守れ」である。
まるで雨漏りする屋根の下でタオル三枚渡されて『よろしく』と言われるような任務だった。
そんな無茶ぶりの中でも、沈瑩は冷静だった。
「荊州方面はもう持たない。敵は間もなく来る。ならば動かずに牛渚を守り、長江の渡河を阻止すべし」と進言した。
実に真っ当で、地理も兵数も考えた堅実戦略であった。 しかし丞相の張悌はというと、「いや、敵が来るならこちらから行こう」と、まさかの出撃を選択する。
沈瑩はしぶしぶ従い、結果として川を渡った後に全滅という、最悪のシナリオに付き合わされる。
彼の正論は採用されることなく、呉の最期の決断は誤った道へと進んだのである。
青巾兵の奮戦と沈瑩の最期
沈瑩が率いたのは、丹陽郡から選び抜かれた精鋭五千。
その兵たちは青い頭巾をまとっていたため、「青巾兵」と呼ばれた。
長江の北岸に布陣し、晋の王渾軍を迎え撃つや否や、沈瑩は三度突撃を敢行する。
三度目ともなると、もはや意地か義務か、それとも「張悌の命令だし…」という諦めか。
だが、何度ぶつかっても晋軍の壁は崩れなかった。
逆に疲弊して退こうとしたところに乱れが生じ、晋の薛勝・蔣班らがその隙を突いて攻撃してくる。呉軍の隊列はたちまち崩れ、全体が瓦解していった。
それどころか、呉軍の後方では、投降したはずの張喬がまさかの反乱を起こしはじめる。
沈瑩は混乱を抑えようと奔走したが、その隙を突いて晋軍が総攻撃を受け、呉軍は崩壊した。 張悌も沈瑩も捕らえられ、首は洛陽に送られた。
ところで、沈瑩にはもう一つの顔があった。
彼は文才にも恵まれ、『臨海水土異物志』なる書を著している。
この本は、臨海地方の気候、風土、動植物、名産などを真面目に綴った、いわば当時の地誌学の結晶。
後世の学者に引用されるという、まさかの文系ルートで名が残ることとなった。
冷静に戦を読み、文を記し、そして命令どおり死んだ。
忠臣というより、「優等生の成れの果て」のようでもある。
ただ、その一途さと不器用さは、確かに滅びゆく国の中で、まっすぐに光っていた。
参考文献
- 三國志 : 呉書三 : 孫皓傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 晋書 : 帝紀第三 世祖武帝 – 中國哲學書電子化計劃
- 晋書 : 列傳第十二 王渾 王濬 唐彬 – 中國哲學書電子化計劃
- 資治通鑑/巻081 – 维基文库,自由的图书馆
- 参考URL:沈瑩(武将) – Wikipedia
沈瑩のFAQ
沈瑩の字は?
伝えられていません。
沈瑩はどんな人物?
冷静な判断力を持ち、戦場でも慎重に策を立てる人物でした。文武に通じた将として知られています。
沈瑩の最後はどうなった?
太康元年(280年)、晋軍との戦いで敗北し、張悌とともに捕らえられて斬首されました。
沈瑩は誰に仕えた?
呉末期の孫皓に仕えました。
沈瑩にまつわるエピソードは?
戦局を見抜き、牛渚で守るべきと進言したにもかかわらず採用されなかった話が伝わっています。また、『臨海水土異物志』の著者としても知られます。




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