【1分でわかる】是儀:孫権に「法は不要」と言わしめた清廉の功績【徹底解説】

是儀

1分でわかる忙しい人のための是儀の紹介

是儀(しぎ)、字は子羽(しう)、出身は北海営陵(山東昌楽)、生没年(?~?)

是儀は後漢末から三国時代の呉で活躍した政治官僚である。若くして郡県の官に仕えたが戦乱を避けて江東へ移り、やがて孫権に登用された。 彼は機密事務を担当し、呂蒙による荊州奇襲に賛同して従軍、戦後は将軍や侍中を歴任した。 さらに黄武年間には曹休を誘撃して撃破し、偏将軍として尚書事に参与した。
黄龍元年(229年)に孫権が建業へ遷都すると太子孫登の補佐を任され、太子から深く信頼された。 嘉禾年間には蜀との外交を担い、諸葛亮死後の同盟維持に成功、尚書僕射となった。 晩年には孫和・孫霸の後継者争いで孫権に諫言し、儲君の明確化を求めた。
是儀は清廉で正直、強権に屈せず、呂壱の誣告にも動じず江夏太守刁嘉を救った逸話は有名である。 家には財産を残さず貧者を救済し、孫権から「人皆是儀のごとくなら法は不要」と評された。八十一歳で病没し、質素な葬を遺言した。

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是儀を徹底解説!孫権の側近として政務と外交を担った孫権の懐刀の生涯

初期の仕官と江東への避難

是儀は漢桓帝延熹年間(158年~167年)、北海営陵に生まれた。若い頃には郡や県の官に就き、営陵県吏から北海郡の属官へと進んでいった。
本来の姓は「氏」であったが、ある日、北海相の孔融が彼を見て「お前の姓『氏』って、『民』の上が欠けてる。これじゃ縁起が悪い。いっそ『是』にした方がマシだろう」と冗談を飛ばした。
言っていることはほとんど子供のあだ名レベルの悪ふざけだが、発言したのが孔子の末裔を自称する文化人・孔融だったために妙な権威がついてしまう。是儀はまじめに受け止め、なんと本当に姓を改めてしまったのだ。

当然、この軽率な改姓は批判を招いた。儒者の徐衆は「姓は祖先や官職に由来するものだ。軽々しく改めるのは本を忘れ、祖を欺く行為である」と厳しく非難した。
冗談半分の小事件が、後世の史書にしっかり記録されるほど大きな影響を残したのは、是儀という人物がそれだけ注目されていたことの証左だろう。

その後、是儀は戦乱を避けて江東へ渡り、揚州刺史の劉繇に仕えた。
ところが、世の中はそんなに甘くない。やがて劉繇は孫策との戦に敗れ、その勢力は潰えた。

孫権の登用と機密担当

是儀は再び居場所を失い、会稽へと移り住んで次の道を模索することとなった。
孫権が江東を継いだとき、孫権は是儀を召し出し、胡綜徐詳と並べて三人を書部に据え軍国の機密を託すことにした。肩書きは騎都尉で、軍政の機密はほぼこの三人に丸投げされた。
最初から信頼感はグラフ振り切りレベルだった。

建安二十四年(219年)、関羽が樊城への北伐中、呂蒙が「荊州を奇襲すべし」と進言した。 当然ながら仮にも同盟中で相手は関羽である。孫権は即断せず、是儀に相談する。
「これ、どう思う?」と問われた是儀は、即答で「やれ」と言った。いや、正確には「是非ともやるべきです。私も行きます」と言った。

自らも軍に従軍して、奇襲は見事に成功し、荊州が平定されると忠義校尉に任じられる。是非は辞退しようとしたが、孫権は「私は趙簡子(趙鞅(春秋時代の晋の重臣))ではないが、君が周舎になれないことはない」と諭した。

建安二十六年(221年)、魏の曹丕が孫権を呉王に冊封した際には胡綜・是儀・徐詳の三人もそろって亭侯に封じられる。 裨将軍に任命され、さらに兵権を再び授けようとされたが、是儀は「そこまで実力ないので無理」として固辞している。

曹休撃破と尚書事への参与

黄武年間に皖に派遣され、黄武七年(228年)、魏の大司馬曹休は十万の軍勢を率いて呉へ進軍してきた。だが呉の側には、鄱陽太守の周魴が孫権と密かに謀り、「降伏芝居」を仕掛ける。曹休はまんまと信じ込み、十万の軍勢を皖城に動かした。 是儀は将軍・劉邵と肩を並べて皖に布陣し、結果は呉軍の圧勝。是儀はこの功績により偏将軍へと昇進した。
兵権いらないと言っている文官が、戦場の勝敗を左右する場に立ち会った瞬間である。

戦場から戻った是儀は、今度は政務の中心に立った。尚書事を兼ね、訴訟の処理や政治の議論に関わり、国家の方針決定にまで意見を及ぼした。
さらに儀礼の辞文を整える役目も担い、表の場では堂々と文章を作り、裏の場では自らの子弟に学問を授ける。
軍でも政でも儀礼でも教育でも、あらゆる分野で姿を見せるその勤勉さは、彼の慎ましい性格とは裏腹に、どんどん仕事が増えていったのである。

太子孫登の補佐と建業遷都後の地位

黄龍元年(229年)、孫権は都を武昌から建業へ移した。だがその一方で、太子・孫登は武昌に残されることになった。 若き太子が独り残るとあっては不安も募る。 そこで、上大将軍の陸遜を召し出し軍事面から支え、安心・安全・安定の是儀を補佐役に任じた。 太子・孫登は是儀に対して「ただの補佐官」などとは微塵も思わず、むしろ「何事も是儀に聞いてから」が口癖になるほど信頼を寄せていた。 実の父・孫権より相談回数多かったんじゃないかという勢いである。 その忠勤ぶりが評価され、是儀は都郷侯に封じられる。

嘉禾元年(232年)、孫登が建業へと移ると、是儀も当然のように随行した。やがて侍中・中執法に任じられ、再び政務の中枢に加わる。
数年前と同様に彼は儀式文書の起案、いわゆる辞頌の文も整え、朝廷の儀礼から日常の訴訟まで、相変わらず幅広く手を尽くした。

蜀との外交と尚書僕射就任

嘉禾三年(234年)、蜀漢の丞相・諸葛亮が五丈原にて力尽き、ついに没した。
蜀は当然ながら大混乱。「次の丞相どうすんの?」「北伐は続けるの?」「盟友の呉を信用してていいの?」と疑心暗鬼の嵐に包まれた。

孫権は迷わず「よし是儀の出番だ」と、彼を使者として蜀に派遣する。
見事この使命を果たし、蜀との同盟を揺るぎないものとした。帰還後、その功績により尚書僕射に任じられた。

呂壱の讒言と是儀の揺るがぬ証言

典校郎の呂壱は権勢を笠に着て多くの官僚を讒言していた。ある時その矛先を江夏太守・刁嘉(ちょうか)に向け、「国政を誹謗した」と訴えた。孫権は烈火のごとく怒り、刁嘉を獄につなぎ、関係者を一人残らず取り調べた。
その場に居合わせた官僚たちは皆、顔を引きつらせながらも「確かに聞いた」と答える。恐怖が支配する空気の中で、ただ一人、是儀だけが「私は聞いていない」と答えた。

当然、彼は数日にわたって詰問され、詔勅の言葉は日ごとに苛烈さを増していった。群臣たちは息を殺して見守る。誰もが「ここで折れる」と思った。
だが是儀は折れなかった。「刀が首に迫っても、事実を曲げて自滅することはできない。もし本当に聞いたというなら、必ず前後の筋道があるはずだ。私は聞いていない。だから聞いていないと答えるのだ。」
その答えは冷静でありながら、群臣全員を震え上がらせた。

孫権はついに是儀の誠実さを認め、彼を赦した。そして刁嘉も無実とされ、免罪された。
この事件は、権勢の前でも真実を曲げなかった是儀の剛直さを示す逸話として広く伝えられている。

孫和・孫霸問題での諫言

赤烏五年(242年)、孫権は後継者として太子に孫和を立てながら、同時に魯王孫霸をも封じて厚遇した。待遇は太子とほとんど変わらず、宮廷は二人の後継候補が並び立つという、後に二宮の変へと続く危うい構図になった。

その時、是儀は孫霸の教育係を務めていた。普通なら、権力者に可愛がられる王子に取り入り、自らの身を守るのが常道である。
しかし是儀はそうはせず、「後継者は一人に絞らねばならない」と繰り返し孫権に上書し、はっきりと太子の地位を確定させるよう訴え続けたのである。
孫霸派によって吾粲は誅殺され、張休・顧譚は交州へ左遷され、陸遜も疑いを受けた。 しかし、彼は孫霸の傅でありながら迎合せず、あえて波風を立てる。それでも巻き込まれなかった彼は「唯一の冷静な声」として歴史に刻まれることになった。

晩年と清廉な生活

是儀はその清廉さが一層際立っていた。財をため込むことを良しとせず、贈り物も受け取らない。住まいも家族が雨風をしのげれば十分という規模にとどめていた。
ある日、近所の士人が巨大な屋敷を建てた。遠目にそれを見た孫権が「誰の家だ?」と尋ねると、側近が「是儀の屋敷かもしれません」と口にした。すると孫権は笑いながら「いや、是儀があんな大宅を建てるはずがない」と即答した。調べれば案の定、別人の家。ここまで信用される倹約ぶりは、もはや伝説級である。

彼の日常は徹底して質素だった。衣服は飾り気なく、食卓に並ぶのは野菜と粗末な膳だけ。それでも困窮する人々には惜しまず施しを与え、家にはほとんど蓄えが残らなかった。
この噂を耳にした孫権は自ら是儀の家を訪れ、その粗末な食卓に座って実際に食事を口にした。しばし沈黙ののち、ため息を漏らし「これではあまりに気の毒だ」と俸禄を増やし、田地や邸宅まで与えた。だが是儀は固辞し続け、「かえって恩が重く、心苦しい」と言って受け取らなかった。

やがて是儀は八十一歳で病没した。その最期の望みは華美を避けた質素な葬儀であった。
是儀は権勢に媚びず、富貴に溺れず、ただ国家と人のために尽くすことを己の本分とし、呉政権において、まさに「清廉の象徴」と呼ぶべき存在であった。

孫権と後世の評価

仕官して数十年、是儀は一度として過失を犯さなかった。人の短所をあげつらうこともなく、むしろ沈黙をもって誠実を守った。そのため孫権から「なぜ諫言をしないのか」と責められると、「聖主が上におられ、臣下は職務を守るのみです。浅い考えで軽々しく天聴を乱すのは恐れ多いのです」と答えている。
典校郎の呂壱が権勢を振るい、多くの大臣を糾弾した時期でさえ、是儀だけは一度も罪に問われることがなかった。これに孫権は感嘆し「もし人が皆是儀のようであれば、法など必要ない」と述べている。

『三国志』の陳寿は、是儀・徐詳・胡綜を「孫権の事業を支えた者たち」と評した。是儀は清廉で誠実、胡綜は文才に秀で、徐詳はしばしば使命を果たし、三者それぞれが孫権から厚い信任を得ていたと記されている。

さらに陳寿は「広夏の榱椽」、すなわち大きな屋根を支える梁や棟木にたとえた。控えめな比喩に見えて、実は最大級の賛辞である。屋根は梁がなければ崩れる。政権もまた、彼らなしには傾いたであろう。

参考文献

是儀のFAQ

是儀の字(あざな)は?

是儀の字は子羽(しう)です。

是儀はどんな人物?

是儀は正直で清廉、権勢に屈せず、太子問題にも諫言できる人物でした。衣食も質素で貧者を救済しました。

是儀の最後はどうなった?

是儀は八十一歳で病没し、遺言で質素な葬儀を望みました。

是儀は誰に仕えた?

是儀は孫権に仕え、その側近として政務や外交を担いました。

是儀にまつわるエピソードは?

典校郎呂壹が江夏太守刁嘉が誣告した際に唯一「聞いていない」と答え、刁嘉を救った逸話が有名です。

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