司馬炎:三国統一の栄光と堕落の宴、西晋を築き、八王の乱を招いた初代皇帝

司馬炎

司馬昭の後継として権力を継ぐ:晋建国の前夜

司馬炎、字は安世。河内郡温県の出身。(236~290年)5月16日

彼が王朝を興したのは、運命が呼んだのか、それとも血筋がそうさせたのか。

祖父は司馬懿。最初は曹操の後ろで“参謀です”と頭を下げていたが、気づけば皇帝の背後に立ち、政権のど真ん中でほくそ笑んでいた老獪な軍師。
その司馬懿の血を引く男として、司馬炎は最初から「次はオレかも」という、自己認識を強く持って育ったのかもしれない。

父の司馬昭もまた、魏の宰相として実権を握った。
三国志ファンにはおなじみのあのセリフ、「司馬昭の心、人が皆知る」――。あれの直撃世代である。
司馬炎がこの親子の背中を見て、「じゃあオレも」となるのは当然だった。

曹魏の末期、司馬炎は「北平亭侯」としてデビュー。
奉車都尉から中垒将軍、中護軍と、軍事キャリアをぐいぐい登っていく。
当時はまだ若手のホープ。「あの司馬昭の息子だから」ではなく、“それなりにデキる奴”として官途を駆け上がっていた。

 だが、天下が見えてきたのは、やはり父の死からだった。
咸熙二年(265年)、司馬昭が病に倒れると、「さて、どうする?」という政治ゲームの幕が上がる。
後継者として指名されたのは、やはり司馬炎。弟の司馬攸と比較された末に、重臣たちの推挙で決まった。

この時点で、もはや彼の視線は「丞相」でも「王」でもなかった。
狙うは、皇帝である。

禅譲による皇帝即位:曹魏から晋への転換

 “禅譲”と聞くと、なんだか穏やかで平和的な政権移譲のように聞こえる。
でも実態は、「はい、そろそろお譲りください」という、実力行使寸前のやんわり圧力である。

咸熙二年(265年)12月。
曹奐のいる魏の宮廷に、妙に朗らかな空気が流れていた。
「晋王、あなたの家系は代々皇室を支え、恩徳は天下に及び、今や天命を受けたと存じます」――そう言って、臣下たちは満面の笑みで“皇帝になってください”と促した。

当の司馬炎はというと、「いやいや、そんな滅相もない……いや、でもまあ……」
というお決まりの“即位拒否ショー”を何度か演じた末、「では、仕方ないですね」と即位を受け入れる。

ここまでの段取りは、まるで前例をなぞったようなものだった。
なにせ、祖父・司馬懿が仕えた曹操の息子・曹丕も、ちょうど同じような手順で後漢から魏を奪っていたからだ。

曹奐にはもちろん拒否権などない。最終的に「天命に従います」という詔勅を出して、皇帝の座を譲った。
司馬炎は「ありがとう!」と言わんばかりに受け取り、即位して国号を「晋」と改めた。西晋の誕生である。

その後、彼は自分の祖父・父・伯父を「追尊」して次々と皇帝に格上げ。
“おじいちゃんもパパも天子でした”という事後認定がなされ、家系図が急に神々しくなった。

呉を滅ぼして中国統一:三国時代を終わらせた戦役

 蜀を滅ぼしたのは魏。魏を奪ったのが晋。
そして最後に残ったのが、東南の呉だった。

晋の国力は、すでに他を圧倒していた。
だが、ことが相手は東南アジア風の気候と地形に守られた難攻不落の呉。
決め手を欠いたまま数年が経過していた。

それでも晋は着々と準備を進める。
まず、重臣・羊祜を襄陽に配置し、呉の名将・陸抗と対峙させた。
陸抗が死んだあとも、羊祜は「今こそ呉を叩く時」と強く訴えた。
ところが他の臣たちは「いや、ちょっと待て」と慎重姿勢。
決断できないまま、羊祜は病に倒れてしまう。

だが、羊祜の遺志を継いだのが杜預だった。
咸寧五年(279年)、西北の秃髪樹機能の反乱が収束すると、杜預と王濬らは「もう障害はない、今こそ決行の時」と進言。
ここでようやく司馬炎が腰を上げた。

指揮官は賈充。
上流からは王濬・唐彬、中流には杜預・胡奮・王戎、下流には王渾・司馬伷と、まさに総力戦。
まるで戦国無双のキャラ選択画面のように豪華な布陣である。

翌年(280年)3月、晋軍は一斉に進軍。
建業(南京)を目前に、ついに呉皇帝・孫皓は白旗を掲げた。
ここに三国時代は完全に終焉を迎えた。

長かった。黄巾の乱からほぼ百年。
群雄割拠の戦国時代を経て、ようやく再び「一つの中国」が戻ってきた瞬間だった。 

西晋国家の制度と政策:一時の繁栄とその裏側

 三国が統一され、国家は安定したかに見えた。
司馬炎はこれを受けて、「次は内政だ」とばかりに制度改革に着手する。

まず着手したのが農業の再生。
郡県の役人たちに命じて農業と養蚕の奨励をさせ、私的な小作人募集を禁じることで土地支配の乱れを防ごうとした。

また、呉や蜀の旧住民を北方に移住させ、人口の均衡を図る。
屯田制度は廃止され、兵農分離が進行。
農民は正式な戸籍民として州郡に編入された。

太康元年(280年)、新しい租税制度である「戸調式」が制定される。
これには占田制、戸調制、官位に応じた土地と庇護民の配分が含まれた。

この結果、太康三年(282年)には戸数が377万に達し、国家の収入も大幅に安定する。
『晋書』はこの時代を「太康の治」と記して讃えた。

しかし、これはあくまで”外見”の繁栄だった。

実際には、租税制度による格差は固定化され、官僚貴族は恩給と土地で私腹を肥やし、
農民たちは天災や兵役から逃れられない立場に追い込まれた。

政策の一つに「州郡兵の廃止」がある。
平時には軍隊を縮小して財政を浮かす狙いだったが、これにより地方の治安は悪化。
乱世においてはむしろ、自分の首を締める結果となった。

また、士族の力を抑えるため、司馬炎は宗室を各地に封じ、実際の兵権まで与えてしまった。
「これは魏の二の舞は避けねば」という思惑だったが、皮肉にも、それが後の「八王の乱」の火種となる。

一見して整然、しかし内側は歪んでいた西晋の制度。
まるでピカピカのマンションが、実は手抜き工事だったような、 そんな脆さを孕んでいた。

後宮一万人と政治の退廃:奢侈と腐敗の深層

 国家が統一されると、どうなるか。
人は堕落する。国家もまた然り。
司馬炎はその模範を、誰よりも率先して示してしまった。

平呉の戦いの戦利品として、孫皓の後宮から数千人の女性が送られ、西晋の宮中は瞬く間に「女性博覧会」と化す。
最終的に後宮の人数は一万人を超え、皇帝は羊車に乗って「止まったところの女を寵愛する」などというフリースタイル寵愛制度まで導入。
目的地は神のみぞ知る、というより羊のみぞ知る状態である。

その結果、国家の人事も統治もすべてが「ノリ」で回るようになる。
酒と肉と美女と権力が渾然一体となった宮廷生活。
その中心で、武帝はまさにローマ皇帝さながらの暮らしを堪能していた。

当然、取り巻きの大臣たちも奢侈に溺れる。
何曾は一食に一万銭を使い、「箸を置く場所がない」と豪語し、その息子・何劭は珍味を求めて四方から献上品を集め、一日の膳費は二万銭に達した。

さらに凄まじいのが王愷と石崇の「富の殴り合い」。
王恺が司馬炎から下賜された巨大な珊瑚を自慢すれば、石崇はそれを目の前で粉砕し、自分のさらに大きな珊瑚を出してみせる。
この光景を見て「何してんだこの国」と思わない方が難しい。

このような生活を支えるため、国家は苛酷な徴税を強化。
官位は金で買うものと化し、売官売爵が公然と行われた。
この腐敗を前にして、官僚・劉毅が苦言を呈した場面がある。
「桓帝や霊帝は官位を売っても国庫に金を入れた。あなたは自分のポケットに入れてるじゃないですか」
司馬炎はこの批判に対し、ただ「ハハハ」と笑っただけだった。

こうして皇帝自らが示した堕落のスタンダード。
それはまるで、「どうぞ皆さん、欲望に忠実に」とでも言わんばかり。
西晋は、華麗な瓦屋根の下で静かに腐っていった。

後継者問題と八王の乱の遠因:愚鈍な太子の悲劇

 司馬炎の悩みは、老眼でも女癖でもなかった。
それは、自分の息子が「手遅れ級のバカ」だったことである。
太子・司馬衷。
幼い頃から可愛げはあったが、政務など到底無理。
真面目な話し合いに突然「今日は雨か」と言い出すレベル。
後の逸話では、民が飢えていると聞かされ「なぜ肉粥を食べないのか」と問い返したという。
この一言だけで彼の認知能力に深刻な問題があることが伝わってくる。

だが、司馬炎は彼を廃嫡しなかった。
その理由は「次男の母が賈南風ではないから」。
この一文に詰まっているのは、皇帝という肩書きがあっても、家庭内政治からは逃れられないという悲劇である。
賈南風はあらゆる政敵を排除する策略家であり、彼女を敵に回せば、自らの寝室に地雷を仕掛けるようなものだった。
結果として、晋王朝の命運は、最もふさわしくない者の手に委ねられることになる。

重臣たちがいくら耳打ちしようが、司馬炎の決定は覆らなかった。
「後悔はしていない」と言い張る背中から、震える声が漏れていたのは想像に難くない。
そしてその決断が、数年後、八王の乱という内戦と、国家崩壊の序章を引き寄せるのだった。

死とその後の混乱:晋王朝の瓦解へ

 太熙元年(290年)、司馬炎は病に伏し、含章殿でその生涯を終えた。
享年五十五歳。
在位二十五年、ついに中国を統一した男の最期は、意外なほど静かだった。
だが、皇帝の死を告げる太鼓の音が止んだとき、混乱の序章はすでに始まっていた。

問題は後継者だけではない。
有力な補佐役がことごとく既に死去していた。
賈充も、羊祜も、杜預もいない。
いま残っているのは、無能な太子と、野心を抱えた宗室たち、そして権力に飢えた賈南風だけだった。
司馬炎は一応、関中に秦王司馬柬を、その他の諸王を地方に配置し、王権の均衡を図ったつもりだった。
だが、これは火薬庫のふたを無理やり閉じただけに過ぎない。
相互監視体制はやがて、互いを潰し合う戦争装置へと転化した。

こうして「八王の乱」が幕を開ける。
宗室同士が血を流し、地方の軍閥が跋扈する中、国は荒廃し、皇権は地に落ちた。
司馬炎の築いた西晋は、彼の死からわずか26年後、五胡の侵入を受けて滅亡する。
その終焉は、あまりに早すぎた。

参考文献

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