1分でわかる忙しい人のための石鑒の紹介
石鑒(せきかん)、字は林伯(りんぱく)、出身は楽陵郡厭次県、生没年(200年代?〜294年)
西晋の三公にまで上り詰めた石鑒は、名家の血を引かない家柄の出身だった。しかし、その剛直さと正義感は朝廷を震え上がらせるほど。曹魏から西晋にかけて尚書郎、御史中丞、司空、太尉などを歴任し、権貴に媚びず罪を糾弾する姿勢を貫いた。
苟晞を見出した慧眼、杜預との確執、戦果誇張による処分、三公儀礼の復活といった功罪入り混じる歩みは、晋の政界に確かな爪痕を残す。政争に振り回されながらも、最後まで権力と一定の距離を保ちつづけたその姿は、現代の政治にも問いを投げかけてくる。
寒門出身から始まる剛直のキャリア
石鑒(せきかん)は、寒門=家柄には恵まれなかった。名門でもなければ有力者の親族でもない。
だが、その代わりに彼にあったのは、他人の顔色を見ない剛直な性格と、何者にも媚びない胆力だった。
曹魏政権下で尚書郎、侍御史、尚書左丞、御史中丞と順調に出世するが、彼のやり方は一貫していた。
「悪い奴は悪い」と平然と指摘し、どんな大物であっても手加減はしない。
その振る舞いは、同僚たちの尊敬というよりは、むしろ恐怖の対象だった。
やがて並州刺史、護匈奴中郎将に任じられ、辺境の任務を担うことになる。
だが、これは昇進というより、都から遠ざけられた結果とも読める。
正論が過ぎると、人は煙たがられる。どの時代もそれは同じらしい。
だが、石鑒にとってはそれで十分だった。権力に近づくことより、正しさを貫くことの方が、彼の中では価値があったのだ。
杜預との確執と失脚:論功と虚報の代償
泰始六年(270年)、西晋の朝廷は、鮮卑の侵攻が相次ぐ隴右地域に対して、石鑒を都督として派遣した。
この頃、若手の苟晞を早くから評価し、後に地方統治の担い手となる人材を見出していた。
しかしもう一人、そのとき配下にいたのが、後に名将として知られる杜預だった。
この二人は最悪の組み合わせだった。
石鑒は前線の緊張を重く見て「すぐに出兵せよ」と命じたが、杜預は「今は冬季、兵も馬も疲れており、春まで待つべきだ」と反対。
これに石鑒は激怒し、杜預が城門や官舎の飾り付けに無駄な費用を使ったなどと難癖をつけ、御史に命じて彼を檻車で廷尉に送ってしまう。
だがその後、石鑒自身が出陣しても戦果は得られず、報告書には「勝利」と記された内容があったものの、実態とはかけ離れていた。
これに対して、かつて屈辱を受けた杜預が反撃に出る。「石鑒の論功は虚偽である」と上奏し、石鑒は免職処分を受ける。
しかし失脚してもなお、石鑒の官界人生は終わらない。その後、鎮南将軍・豫州刺史として再び登用されるが、ここでも同じ過ちを犯す。
呉討伐の際、実際には大した戦果もないまま「多くの首級をあげた」と虚報を記したのだ。
これが晋武帝の知るところとなり、「もう帰れ」と田園への帰還を命じられた。名誉よりも口の軽さが先行する。石鑒の栄達は、ここでいったん終わりを迎える。
それでも昇進:三公制復活と司空への道
虚報の失脚からそう間を置かず、石鑒はあっさりと政界に復帰している。
復職先は、中央官職の要である光禄勳。さらに、再び司隷校尉に任じられ、朝廷内での影響力を取り戻すこととなる。
このあたりの回復ぶりはまさに「剛直だけど愛されキャラ」の証左なのか、それとも西晋官僚制度のゆるさを象徴しているのか、判断は難しい。
だが、石鑒の栄達はこれで終わらなかった。特進を加えられ、右光禄大夫・開府・司徒と連続で昇進。
とくに注目すべきは、三公のひとつ「司徒」に任命されたときの出来事だ。
かつて魏末から形骸化していた任命式、つまり三公の冊封時に行われる小規模な儀式が、石鑒のときに限って再開された。しかも詔勅付きの”公式再開”である。
この復活は、単なる形式回帰ではなく、石鑒の存在がいかに「制度と威厳の象徴」として機能していたかを物語るものだった。
太康十年(289年)には、ついに司空へと昇進。これで三公をほぼ制覇したようなものであり、儒的価値観からすれば「最終職」のような位置づけでもある。
加えて、皇太子の教育係としての太傅も兼任。まさに威光がピークに達した瞬間だった。
司馬亮への同調と晩年:静かなる抵抗の姿勢
晋武帝の崩御に際し、石鑒は中護軍の張劭とともに山陵の監督役を拝命する。
実権を握る太傅・楊駿は、政敵の汝南王・司馬亮を完全に「怪しい奴リスト」に登録。
当時、大司馬・汝南王の司馬亮は、太傅・楊駿に警戒され、喪に参列せず城外に退いていた。
その際、「司馬亮が兵を挙げて楊駿を討とうとしている」との密告があり、「クーデターの準備だ!」と大騒ぎする始末。
焦った楊駿は太后に泣きつき、皇帝の手詔を勝ち取り、石鑒と張劭に亮の討伐を命令。甥っ子の張劭は「はいはい、今すぐ行きます!」とノリノリで準備を始めた。
だが、石鑒は違った。「いや待て、そんな簡単に人を討つわけにはいかんだろ……」と微動だにせず。
密かに部下を派遣して司馬亮の動静を探った結果、彼はすでに別の経路から許昌へ戻っていたと判明。
その上、こっそり部下を派遣して亮の様子を探らせ、亮はすでに別の経路から許昌へ戻っていた。
討伐の必要性は消失し、石鑒は兵を動かさずに事態を収めた。
この一件における石鑒の沈着な対応は「理非を見極めた慎重な采配」として称賛されることになる。
元康初年には太尉へ昇進し、年八十を過ぎてもその威厳と胆力は衰えなかった。
人々はその剛直さと冷静な判断力に感服し、政権内でも厚い信頼を寄せられていた。
元康四年(294年)、静かにこの世を去る。
貧しい家柄から身を起こし、剛直な官僚として、時には手柄を水増ししたり、時には
ちゃっかり立ち回ったりと、波乱に満ちたキャリアを送った石鑑。
彼の最期に「元」という諡が贈られたことは、彼が朝廷の重鎮として、多大な功績を残したことの証と言えるだろう。
参考文献
- 参考URL:石鑒 – Wikipedia
- 『晋書』巻四十六「石鑒傳」
- 『晋書』巻三十五「苟晞傳」
- 『晋書』巻三十九「杜預傳」
- 『晋書』巻四「恵帝紀」
- 『荀岳墓志』
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