劉禅:楽不思蜀の真実と蜀漢滅亡の舞台裏と生涯【すぐわかる要約付き】

劉禅

1分でわかる忙しい人のための劉禅(りゅうぜん)の紹介

劉禅(りゅうぜん)、字は公嗣(こうし)、出身は不明、生没年(207~271年)
蜀漢初代皇帝・劉備の長男。幼名は阿斗(あと)。建安二十五年(220年)に太子となり、父の死後、後主として即位。
即位後は遺命により諸葛亮に政務を一任し、彼の死後も蔣琬・費禕ら重臣に統治を委ねた。在位四十一年は三国の君主として最長。
晩年は宦官・黄皓を重用して政治が乱れ、景耀六年(263年)、魏の鄧艾に攻められて降伏。
洛陽では安楽公として穏やかに余生を送り、「楽不思蜀」の故事で知られる。
西晋泰始七年(271年)に没し、漢趙によって孝懐皇帝と追諡された。

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劉禅を徹底解説!凡庸の君か、柔和の賢主か

劉備の子として波乱に満ちた少年期

劉禅(りゅうぜん)、字は公嗣(こうし)、幼名は阿斗(あと)。
劉備の側室・甘夫人の子として生まれ、幼くして長坂坡の戦火に巻き込まれる。
建安十三年(208年)、曹操の追撃から逃れるための混乱の中、阿斗と甘夫人ははぐれてしまう。
このとき、趙雲が単騎で敵陣を突破し、母子を救出。”の恩人”として後世に語り継がれる。

建安十七年(212年)、蜀に入った劉備のもとへ帰還した後、孫権の妹・孫夫人が阿斗を一緒に呉へ連れ戻そうと画策。
これを諸葛亮が察知し、趙雲に指示を出して阿斗を奪還。呉の手に渡る寸前のところで救出劇が完了する。

建安二十五年(220年)、劉備が漢中王に即位すると、劉禅は翌年に太子に立てられた。
幼い皇子には常に救助と政変の影がつきまとったが、立派な太子としての道に進んでいった。

蜀漢の後主となる

建興元年(223年)、劉備が没し、劉禅は正式に皇帝に即位。
この時期、諸葛亮は「政事無巨細、咸決於亮」の精神で政務を全面的に掌握し、劉禅は実質「象徴皇帝」として政権を支えた。

延熙元年(238年)以降、蔣琬費禕董允が諸葛亮の後継として政務に関与。国政は安定し、北伐準備が進む。
劉禅は表舞台には姿を見せなかったが、彼が干渉せず、補佐に信頼を寄せた姿勢が、国を平穏に保つ一因となっていた。

「何もしない君主」との評もあるが、それは裏返せば「信頼と委任のできる君主」であったことの証かもしれない。
実際、彼が下手に動かず任せることで、政務が円滑に進むという結果もあった。

黄皓の台頭と国力の衰退

諸葛亮の死後、蜀の政権運営は蔣琬・費禕・董允らが引き継いだが、徐々に政治の中枢に陰りが差し始める。
董允死後、劉禅は重臣・陳祗や宦官・黄皓を信任し、特に宦官の黄皓は、政治だけでなく軍事にまで口を出す存在へと膨れ上がり、清流派の官僚や将軍たちを遠ざけていった。
忠臣・姜維も、こうした内政の腐敗を避けるように漢中での屯田と軍事訓練に注力し、実質的に独立的な軍閥となっていた。

景耀六年(263年)、魏の鍾会が関中に兵を整えつつあるとの情報を得た姜維は、すぐさま劉禅に上表する。
「鍾会が関中で兵を整えております。いずれこちらへ向かうとの情報があります。張翼廖化を派遣し、陽安関口と陰平橋頭を守るべきです」
このマトモな進言に対し、黄皓は鬼巫の言葉を引き合いに出して、「いやいや、来ないってお告げが出たから大丈夫」と言い切る。
そして劉禅は、なぜかこちらを信じてしまった。

同年の冬、魏の司馬昭が鄧艾・鍾会・諸葛緒という魏の精鋭を動員し、蜀に攻め込んでくる。

一国の命運を、霊媒の運勢占いレベルに委ねた政権に未来があるわけがない。
姜維や廖化・張翼は剣閣に立てこもり鍾会に対峙するが、陰平を越えて山岳ルートでやってきた魏の鄧艾に為す術もなく崩壊の道をたどる。直前に劉禅は炎興に改元して打開を図るが、もちろん何も変わらない。
劉禅は諸葛瞻に最後の望みを託すが、彼もまた力及ばず戦死する。

ついに、劉禅は譙周の勧めに従い降伏し、蜀は滅亡する。
劉禅は洛陽への移送を命じられ、廖化・董厥・樊建・宗預・郤正・張通・張紹らが随行した。

「楽不思蜀」の宴席で見せた助言

蜀滅亡後、劉禅は洛陽で安楽県公の称号を与えられた。ある日、司馬昭の催した宴で蜀の音楽が演奏されると、旧臣たちは涙を流したが、劉禅だけは涼しい顔。その様子に司馬昭が「蜀が懐かしくはないのか」と尋ねると、劉禅は「この地も楽しくて、蜀のことなど思いません」と軽やかに答えた。

これを見た郤正は冷や汗をかきながら席を外し、こっそり劉禅に進言する。「次に同じ質問をされたら、まず宮殿の天井を見上げ、目を閉じてから静かにこう申すのです。『祖先の墓は蜀にございます。思わぬ日はございません』と」

宴も中盤、司馬昭は再び同じ問いを投げかけた。すると劉禅は、例の手順通りに振る舞い、先ほどとは打って変わってしみじみとした口調で答えた。これに司馬昭はニヤリ。「それ、郤正の入れ知恵だろう」と即座に見破る。

驚いた劉禅が「なぜ分かったのですか」と尋ねると、場は笑いに包まれた。この一件で、司馬昭は「劉禅は深謀遠慮など持ち合わせぬ人物」と確信し、それ以降、特に疑いを持たれることもなく、劉禅は洛陽でのんびりと余生を送ることができた。

そしてこの「蜀を思わぬ」発言が、後に「楽不思蜀」という成語の由来となった。

劉禅の評価:凡庸の君か、柔和の賢主か

「素絲無常,唯所染之」『三国志』の筆者・陳寿が、劉禅について記した有名な一節である。
白い絹糸のような存在、それがどんな色に染まるかは、預けられた相手次第。つまり、劉禅は器としては空っぽだったが、指導者に恵まれれば立派な君主にもなれた、と。
前半生は諸葛亮の導きに従い、善政を行った循理の君。後半生は宦官黄皓を重用し、政務を壟断された昏庸な帝王。その変化を、史家たちは淡々と、しかし容赦なく記録している。

降伏後の処遇は、意外なほど穏やかだった。劉禅は安楽公として魏に迎えられ、洛陽で余生を過ごす。
「楽不思蜀」の件が起きたのもこの頃だが、これはむしろ彼の柔和な性格を象徴するものだったのかもしれない。
忠義に殉じるでもなく、冷酷に割り切るでもなく、ただその場その場を穏やかに過ごす。それが彼の「君主術」だったのだ。

晋の泰始七年(271年)、劉禅は洛陽で没した。諡号は「思公」
本来なら次子・劉瑤が後を継ぐはずだったが、劉禅は愛する六男・劉恂を指名。旧臣・文立が諫めるも、取り合わなかったという。
さらに時を下って、南匈奴出身の劉淵が建てた漢趙政権は、劉禅に「孝懷皇帝」の諡号を贈る。
敗者の君であっても、その名は歴史のなかで、思いがけぬ形で再評価され続けている。

参考文献

劉禅のFAQ

劉禅の字(あざな)は?

字は公嗣(こうし)、また字は升之(しょうし)です。幼名は阿斗でした。

劉禅はどんな人物?

劉禅は即位当初は諸葛亮に政権を委ねて安定を維持しましたが、晩年には宦官黄皓を寵愛し国政が乱れました。

劉禅の最後はどうなった?

蜀漢滅亡後に魏へ降伏し、洛陽に移され「安楽公」となりました。西晋の泰始七年(271年)に没し、「思公」と諡されました。

劉禅は誰に仕えた?

劉禅は蜀漢の皇帝であり、父劉備の後を継いで君主となりました。

劉禅にまつわるエピソードは?

長坂の戦いで、阿斗(劉禅)と甘夫人は、軍とはぐれてしまいましたが、趙雲が単騎で敵陣を突破し救出されました。
また、蜀滅亡後の洛陽での宴席で「此間楽、不思蜀也」と答えたことから「楽不思蜀」の故事が生まれました。

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